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145、前夜

 

「美紗さーん!」

 夕食後、美紗が寮へ向かって渡り廊下を歩いていると知らない先輩に手を振られた。正式に生徒会に入ってからは特に美紗はあちこちから注目を集めており、恥ずかしがり屋な彼女にとっては必ずしもいいこととは言えない状況だがすれ違うだけで人から笑顔を貰える立場にいることは嬉しく思っている。

 美紗が照れながら頭を下げると相手の先輩は美紗の腰のあたりをタッチして駆けていった。こういうライトなセクハラはたまに受けるが、あかりのお陰でもう慣れてしまっている。生徒会室であかりと二人きりになると大抵後ろから抱きしめられたり胸をいやらしく撫でられたりするが、これに抵抗するといつもあかりは「小熊先輩はもっとすごかったんだよ!」などと言って美紗を説得してくる。美紗は小熊先輩という女性をあまり知らないため、当時は一体どんな生徒会だったんだろうかと時折怖くなることもある。

「あ・・・」

 美紗は用事を思い出した。今日は12月23日、明日はいよいよ先輩の倉木様が鈴原様に決死の覚悟で告白する運命の日なのだが、遠く東京の音楽堂ホールへ同行するにあたりそれなりの防寒対策をする必要があり、美紗は手袋を新しく買おうと思っていたのだ。既に美紗は白いもこもこの手袋を持っていたのだが、先週体育の時間にグランドに現れたアヒルに片方もっていかれてしまったのだ。可愛さに釣られて手を差し出してしまった美紗がわるい。

 マフラーや手袋の類いは二年生寮のコンビニが一番充実しているため美紗は二年生寮へ向かった。アヒルに持っていかれた個体ほどの魅力はなけれど、それなりのキュートさを放つ手袋がたくさん商品棚に並んでいた。これにしようかなと手袋をひとつ手にとったが値札を見てびっくり、美紗が小学生だった頃の一ヶ月のお小遣いの十倍という人でなしなプライスが付けられていたのだ。

「はぁ・・・」

 これは諦めるしかないようだ。物凄く気に入っているものならばともかく、明日あったほうがいいからという理由だけで5000円も出せない。美紗は自分の寮に帰ることにした。

 いつもと違うルートを通ることになった美紗は中庭越しに第三管理棟が見える窓に通りかかったのだが、何気なく窓の外を見た美紗は、思わず腰を抜かすところであった。

「ゆ、雪乃さん!」

 もう日も暮れているというのに彼女はひらひらのスカートを履いてベンチに腰掛けているようにみえる。あれでは愛する雪乃さんの体調が危うい。美紗は少し迷ったが、外靴に履き替えて雪乃に近寄ってみることにした。

 渡り廊下からこっそり中庭に出たのだが、ここで美紗は思いがけないものを耳にした。

「うーたーをわーすれーたーカーナリーヤーはー」

 雪乃の歌声だった。

「うーしろーのやーまーにすーてまーしょーかー」

 久しぶりに雪乃の歌を聴いて興奮した美紗はしゃがんだまま思わず電灯の陰に身を潜めた。

「いーえいーえーそーれーはーなーりーまーせぬー」

 雪乃の声は美しい。

「うーたーをわーすれーたーカーナリーヤーはー」

 恋心という調味料がそう感じさせるわけでなく、客観的にみて素晴らしいのである。

「やーなぎーのーむーちーでーぶーちまーしょーかー」

 歌わされる歌と歌う歌の違いなのか、あるいは雪乃本人のすぐれた感性によるものなのか。

「いーえいーえーそーれーはーかーわいーそーうー」

 いずれにしても彼女の音楽の才能とハートは人を感動させるだけのパワーを持っている。



 カナリアが歌を思い出すところまで聴いていようと思ったのだが、雪乃のほうが美紗に気がついて歌うのをやめてしまった。美紗いつの間にか電灯からはみ出し、どんどん前へ来てしまっていたのだ。

「も、も、申し訳ありません!」

 背中のバニウオを抱きしめて隠れてしまった雪乃に、美紗は地面にキスする勢いで頭を下げた。

 雪乃は基本的にいかなる他人の接近も警戒する生き物だが、目の前でひざまずいているおねえさんはどうやら知り合いのようである。よく見ると知り合いどころか、雪乃が大好きな弓奈のお友達ではないか。

「ぬ、盗み聴きをしてしまいましたっ! す、すぐに帰って冷蔵庫で頭を冷やして参ります!!」

「待って」

 美紗が背中を向けると同時に、雪乃の澄んだ声は流れ星のように中庭に降り響いた。

「は、はい!」

 はいと言って振り返りながらも美紗はちょっとずつ後ろに下がっていく。これは遠慮をこじらせた者が得意とする遠慮ウォークである。

 そんな美紗のために雪乃は座る位置を少しずらし、ベンチの左半分を空けてあげた。

「どうぞ」

「よ、よろしいのですか」

「どうぞ」

 雪乃は魚を振って美紗を呼んでくれた。こうなったらお言葉に甘えて美紗も座るしかない。

「で、では・・・失礼いたします」

 寮から聴こえてくる生徒達のにぎやかな声はずっと遠く、中庭にはただ静けさが広がっていた。美紗は雪乃と一緒にベンチに腰掛けたはいいがこの先どうしていいか分からず顔を真っ赤にしてうつむいた。緊張で脚が震える。

「あしたいきます」

「え?」

 先に話しかけてきたのは雪乃のほうだった。

「あした、音楽祭いきます」

「は、はい。私もです・・・」

 雪乃さんが敬語を使うのが新鮮で美紗はひどく驚いた。そういえば彼女が敬語を練習しているというようなことを美紗は弓奈から聴いたことがある。自分も言葉遣いは気をつけなきゃなと美紗は思った。

「弓奈もいくって言ってました」

「そ、そうですね。楽しみですね」

「はい」

 さすがに姉妹だけあって雪乃と紫乃は似ているが、雪乃のほうがしゃべり方に丸みがあり、クールな攻撃性を秘める紫乃の語り口とは多少違う。どうでもいいが、敬語を使っても「弓奈さん」にはならないらしい。

 そんな寒い格好では風邪を引いてしまいますと言いに来たはずなのだが、近くで雪乃を見てみると案外彼女は厚着であり、雪ん子みたいになっている。これではむしろ美紗のほうが薄着で風邪を引きそうだ。

「・・・雪乃さんは倉木様のこと、好きですか?」

「うん」

 雪乃はうなずいてから恥ずかしくなったのかバニウオに顔をうずめて細い脚をぱたぱた振った。あまりにかわいいので美紗は体の芯がきゅんきゅんしてしまった。

 弓奈のことを想像して興奮した雪乃はしばらく楽し気に魚をぎゅうぎゅう抱きしめていたが、やがて少々淋し気な顔でつぶやいた。

「卒業する?」

「え」

「弓奈、卒業するんですか」

 美紗も我に返った。雪乃は雪乃なりに時の流れについて考えていたのである。美紗はこの雪のように真っ白い心を持った幼い少女になにを伝えるべきか考えた。

「・・・そうですね。もうすぐ倉木様は卒業してしまわれます・・・」

 こう言うと雪乃さんは泣いてしまうのではないかと美紗は思っていたのだが、意外にも雪乃は落ち着いていて、バニウオのヒレを鼻先でゆっくりつついて何かを考えている。

「さ、さみしいですか・・・」

 美紗の質問に雪乃は黙ったまま魚におでこを押し当てた。間違いなく淋しいだろう。

 雪乃は夜ベッドに潜り込んでから、もしも弓奈がいなくなったらどうしようか考えたことがある。実感のわかない話だが間違いなく自分にいつか訪れる試練だとは理解しているのだ。弓奈のことを考えるといつも心臓がドキドキして体があつくなるのに、彼女がいなくなってしまうことを考えると、反対に胸がきゅっとしめつけられ背筋から体が冷たくなってしまうのだ。

 雪乃はいつのまにかしくしく泣き始めてしまった。

「ゆ、雪乃さん!?」

 美紗は慌てた。この流れを作ってしまったのは明らかに自分だからだ。

 例えば雪乃さんのそばにいると緊張してしまって何もできないという症状は、嫌われたくないという感情が底のほうで息をしていると言える。しかし今のような状況になった場合は、嫌われたくないなどという想いは二の次三の次になり、「雪乃さんに泣き止んでほしい」という願いが先行することになる。つまり緊張状態が一時的に解除され、多少大胆なこともできるようになるのだ。

 美紗はどうしようか2秒ほど悩んだが、雪乃の小さな背中をさすってあげることにした。

「だ、大丈夫ですよ・・・」

 ちょっと美紗が背中に触れると雪乃の体はゆらっと前に傾いた。魚が重心を前方にずらしているせいもあるが、それにしても雪乃ちゃんはふらふらしている。これは心配だ。

「き、きっとあのお方なら、卒業してからも雪乃さんに会いにきてくださいますよっ!」

 大学の場所にもよるだろうなぁとは思いながらも美紗はそう励ますしかなかった。しかし雪乃は泣き止まず、肩で息をしながらバニウオに顔を押し当てつづけた。こんな様子を見つづけたら美紗のほうまで泣けてきてしまう。ずっと雪乃を遠くから見つめてきた美紗には彼女の気持ちが痛いほどわかるのである。

「雪乃さん、なにか夢はおありですか?」

「・・・ゆめ?」

「はい。小さい夢でも大きい夢でも大丈夫です」

 ちょっと雪乃には難しい話かもしれないが、こんな状況になってしまったからにはもう語りたいことは全て語っておくべきだと美紗は思ったのだ。今の彼女の頭は雪乃への心配でいっぱいでいつものように恥じらう余裕がない。

「どうでしょう、夢おありですか?」

 背中をやさしく撫でながらそうささやかれて雪乃はゆっくりと自分の気持ちを振り返り始めた。実は近頃すごく心を揺さぶられる人生のヒントを得たのである。それは弓奈と二人きりでお風呂に入りにいった晩に弓奈から聴いた言葉だった。

「あります」

「ほ、本当ですか。どんな夢ですか」

 雪乃は涙を拭いて、少し照れくさそうに魚を抱き直してつぶやいた。

「・・・学校でお勉強したい」

 雪乃はあの日の弓奈の言葉と笑顔に大きな影響を受けていたのだ。

 美紗ははじめ聴き間違いかと思ったが、雪乃のちょっぴり大人びた横顔に胸が高鳴った。

「そ、それは・・・! すごい決心をされましたね」

「うん」

 本当にすごいと美紗は思った。雪乃がどんな人間なのか美紗は知っているつもりなので、この決心をするのに要したエネルギーの大きさを察することができた。弓奈に出会ってからの雪乃は少しずつ確実に成長していたのである。

「でしたらその夢、がんばって追いかけてみましょうね」

「うん」

「だって、倉木様は間違いなくその夢を応援して下さるはずですから」

「はい」

「もしも倉木様が遠くにいってしまったとしても、夢を追いかけているうちはいつもどこかに倉木様の後押しを感じることができるはずです。歩いている限りはお一人ではありません!」

 ここで雪乃がぱっと顔をあげて美紗を見た。美紗は今まで雪乃をなぐさめるのに必死だったが、急に恥ずかしさが胸の中に戻ってきてしまい、雪乃の瞳の前で固まってしまった。

「おねえさんは」

「は、は、はい?」

「おねえさんは応援してくれますか」

 おねえさんとはつまり美紗のことである。

「も、も! もちろんです! 私はいつでもいつまでも雪乃さんのために・・・あぁ、その、もちろん、ぜひ応援をさせて頂きたく思っております!」

 この時雪乃は思ったのだ。このおねえさんは弓奈とは違ってちょっと変な人だが、弓奈に似ているところがある・・・この人にならちょっとだけ寄りかかっても問題ないのではないかと。

 雪乃はベンチを一度下りて美紗にぴったりくっつく位置に座り直した。そして美紗の肩にそっと、寄りかかったのである。物理的な寄りかかりだ。

「ゆ! 雪乃さん!?」

 ふわっとやさしくこちらに掛かる体重と雪乃のほっぺのやわらかさを感じて美紗はすっかり気が動転した。一歩おくれて美紗の鼻先に届いた雪乃の体のあまい香りに、もう美紗の頭はとろける寸前で、おまけに指をそっと絡めてくるので美紗は幸せでくらくらしてしまった。

 雪乃は弓奈に対しては抱きついたり首筋にチューしたりと、もっと大胆な甘え方をしているのだが、美紗には充分すぎる刺激であった。

「おねえさんのお名前は」

「お、おね、あ・・・美紗です」

「美紗」

 自分の名前を呼んでもらえて美紗は耳がじんじんした。

「美紗も卒業する?」

「あ、えぇと、わたくし、私も卒業はしますがえーと・・・二年以上先のお話ですので」

 そう答えると雪乃は美紗の腕をちょっぴり強く抱きしめた。美紗は緊張と興奮のあまりちょっと呼吸があらくなったが、怪しまれたくないので自然な感じで遠くを見つめるふりをし、顔をそむけた。

「美紗」

「は、はい」

「美紗・・・」

「は、はい?」

 雪乃に名前を何度も呼ばれる。どうやら自分のほうを向いてほしいらしい。美紗は色んな覚悟をしてゆっくり雪乃に目をやった。

「これからも・・・よろしくおねがいします・・・」

 腕にしがみつかれ、肩にほっぺも押し付けられて上目遣いにそんなこと言われてしまったので、美紗は体の深いところがじゅんっとなってしまった。じゅんっとなったことがある人ならお分かりだと思うが、これは理性を失う直前の状態なので、美紗は危機感を覚えた。このままの体勢でいたらおかしくなってしまう、そう考えた美紗はガバッと立ち上がり、雪乃の前にひざまずいた。

「も、も、もちろんでございます! 雪乃さんの通学の夢が順風に乗るまで、あるいはもっと先の大きな目標をその手に掴まれるまで、わたくしはどこまでもあなたのそばにおります! 倉木様ほどの魅力も度量の広さも持ち合わせてはございませんので、あのお方の代わりになどなれるわけもありませんが、それでもほんの少しでも、ほんの少しでも雪乃さんのお役に立てればといつも考えておりますっ! こ、こちらこそよろしくお願い申しあげます!」

 なぜか土下座をしながら、美紗は雪乃への想いを思い切り語った。どうやら雪乃はこれからの毎日にとても頼りになるパートナーを手に入れたようである。

「ありがと」

 雪乃はベンチから下りて美紗の前にしゃがみ、彼女の頭を撫でてあげた。

「ありがと、美紗」

「こ・・・こちらこそありがとうございます」



 そのあと二人はベンチに腰掛けて空を見ながらおしゃべりをした。

「弓奈・・・」

 ふいに雪乃がそうつぶやきながら魚を抱きしめる。

 美紗は雪乃が弓奈に惚れていることをずっと前から知っている。入学前から雪乃を追っかけているのだから気づいて当然だ。しかし美紗は今まで一度も弓奈の存在を恨んだり、邪魔だと感じたことはない。ただの一度もである。美紗の透き通った心と、弓奈への果てし無い尊敬がそんな感情を一切抱かせないのである。

「倉木様は・・・」

 美紗は思わずつぶやきはじめた。

「倉木様は・・・本当にすごい人ですよね・・・」

 美紗が冬の夜空を仰ぐと雪乃もその視線を追って遠い宇宙を見上げた。雪乃のほうがちょっと器が大きい。

「あの人は・・・あれだけの美貌をお持ちになりながらとても謙虚で、いつだって誰かの幸せを考えて生きておられます。弱きものの味方というか・・・見返りを求めない友人関係の作り方を幼い頃から自然と心得ていたのでしょう。あの人のお側では、誰もが安心していられます。これは本当に・・・すごいことだと思います」

 空へ向かってため息をつくように語る美紗の言葉を聴きながら、雪乃もなんとなく彼女の意見に同意した。

 弓奈はすごい・・・においも、声も、指先も、ほっぺも、おっぱいも、みんな雪乃の体に心地よくて、離れたらすぐにまた会いたくなってしまう。また抱きしめてほしいと思ってしまう。これは普通の人間には出し得ないすごい魅力なのだ。そんな弓奈の魅力に気づく同志がこんな近くにいることが雪乃は嬉しかった。

「私のような人間が・・・こんなに楽しく毎日をすごしているのも全てあの人のお陰です・・・オーバーに言っているつもりはありません。本当に・・・あの人は・・・」

 美紗は明日のことを考えて胸が震えた。

「ですから・・・あの人には幸せになって頂きたいのです・・・あの人に関わったことがある全ての人がそう考えています・・・」

 弓奈はいつのまにか、大勢の少女たちの心に深い影響を与えていたのだ。誰かの居場所を作ったり、居場所になってあげたりを自然にできる人間はなかなかいない。弓奈の外見の超人的美しさの半分は内からにじみ出る美しさに他ならないのである。外側だけじゃない、人間の中身の大切さと真心の影響力について丸三年この学園生徒達に無意識下で教え続けてくれた彼女の貢献は計り知れない。

「倉木様と鈴原様は・・・とてもお似合いのはずです・・・だからどうか明日・・・」

「鈴原さま?」

「あ!」

 美紗は少々しゃべりすぎてしまった。弓奈と紫乃が結ばれるのであれば雪乃にとっては大好きな人が義理の姉のようなポジションになるのできっと嬉しいに違いないが、彼女たちが結ばれるかどうか分からないのでここは黙っておいたほうがいいに違いない。

「な、なんでもありません・・・!」

 美紗がそう言うと雪乃はちょっと微笑みながらバニウオを美紗の横顔に突撃させた。雪乃が美紗にじゃれている証拠なのだが、結構この魚のぬいぐるみは大きいので頬をなぐられたのではないかと思うような勢いがあった。まあこれも美紗にとっては嬉しいごほうびみたいなものである。

 ふと、バニウオの鼻先を見ると手袋がはめられている。なんとそれは美紗が先日なくしてしまったお気に入りの手袋の片割れではないか。

「ゆ、雪乃さん! この手袋・・・」

「アヒルにもらいました」

 雪乃とアヒルは非常に仲がいい。

「美紗の手袋?」

「え! あ、は、はい。実は・・・アヒルさんに持っていかれてしまいまして・・・」

 そういうと雪乃はすぐに魚の鼻先の手袋をはずし、美紗に差し出した。

「よ、よろしいのですか・・・」

「うん」

「あ、ありがとうございます」

 美紗はそっと手袋を受け取って片手にはめた。アヒルのせいか魚のせいか分からないが、少々繊維が伸びてしまっていた。その様子がおかしくて美紗がくすっと笑うと、雪乃も一緒になって笑ってくれた。弓奈以外の人前では一切見せなかった素敵な笑顔である。

 一度お互いに笑い出すと幸福な空気感はなかなか止まらない。美紗は頬を染めたまま、ちょっとうつむいて雪乃にお願いをしてみることにした。

「ゆ、雪乃さん・・・」

「なぁに」

「さっきの歌・・・続きを歌っていただけませんか・・・」

 美紗のお願いに雪乃は照れ、魚の陰に隠れてしまったが、やがて脚をぶらぶらさせながらそっと、歌い始めてくれた。

「うーたーをーわすれーたーカナリーヤーはー」

 雪乃は成長した。

「ぞうげーのふーねーにーぎんのーかーいー」

 人とおしゃべりをし素直に笑えるくらいに。

「つきよーのーうーみーにーうかべーれーばー」

 きっとこれは雪乃の長い旅のひとつのゴールであり、始まりでもあるのだ。

「わすれーたーうーたーをーおもいーだーすー」

 途中から一緒に歌ってくれた美紗の声を聴いて、雪乃はあることに気がついた。去年の学園祭で雪乃が大勢の前でたったひとりで校歌を歌い出した時に、雪乃を孤独から救い出してくれた一番最初の歌声、それはこの美紗おねえさんのものだったのである。

 

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