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144、石津サンタ

 

 石津さんがドーナツ屋のガラスに張り付いている。

 現在駅前のドーナツ屋はクリスマスフェスタと称してケーキ風のアレンジが加えられたドーナツをいっぱいショーケースに並べて販売していた。ただでさえ甘いというのに生クリームとイチゴがそれに便乗してしまったらそれは甘さのストーム、堪え難い魅惑の猛吹雪となって石津さんのハートをわしづかみである。

 しかしそのハートと彼女のお財布との距離は遠い。今お財布に入っているのは一年くらい前に期限が切れたクリーニング屋のポイントカードと十円玉のにおいくらいである。珍しく完全に空っぽなのだ。

「う・・・」

 お腹がグーとなった。じゃんけんの世界の思考を用いてもパーっと食べれば収まるに違いないのだが、資本主義社会は石津さんにそれを許してはくれない。今日も大人しくアパートに帰って醤油かけごはんなのだろうかと石津さんがため息をついて顔をあげると、なんとすぐ脇にあの友人が立っていた。

「おお、弓奈くん!」

「こんにちは!」

「これは偶然か、それとも」

「偶然じゃないですよ。お会いしたくて来たんです」

 弓奈は石津さんと大切なおしゃべりがしたくてバスに乗ってわざわざ駅前までやってきていたのだ。

「そうだ、一緒にこのお店寄って行きましょうか! ご馳走しますよ!」

「い、いいのか!」

「はい!」

 お金がなくて云々という話を人生の先輩の口からなんとなく言わせたくなかった弓奈は自分からそう切り出した。あまり深く考えずともお互いの気持ちやささやかな名誉を嫌味なく尊重し合える彼女たちはもはや親友である。

 二人は曇りガラスに駅前のイルミネーションが朧にきらめく窓際の席で向かい合った。ここは弓奈が石津さんと初めて会った日に座った席でもある。

「なつかしいな・・・」

「なにがですか?」

「あの日君は・・・風のようにやってきた。そう、風のように」

「か、風ですか」

 詩人のつぶやきは結構だが、石津さんがドーナツと一緒に自分の長い髪の毛の先も食べてしまっていることが弓奈は気になって仕方ない。

「質問がある。初めて会ったあの時、君は私のことをまずどう思った」

「ん、どうでしょう・・・私がぶつかって石津さんのドーナツを落としちゃったことが申し訳なくて、それで頭いっぱいでしたけど」

「やはりな」

「え」

 話が見えてこない。

「私が今まで出会って来た人々はまず私に、怖い、暗い、髪の長さや雰囲気がなんかオバケみたい、といった3Kの印象を抱き、必ず私を避けていた」

 3つ目がちょっと長いなと弓奈は思った。

「けれど君は違った。全く違ったんだ。こんな人に巡り会ったのは人生でたった二回・・・あの人と、君だけなんだ。本当にありがとう」

「い、いえいえ。私はなにも」

 初恋の人と並べてもらえて光栄である。

 弓奈は石津さんのことを暗い人だと今もある程度考えているが、それは彼女のひとつの性格として受け入れており、少なくとも第一印象に暗さや恐怖を感じて避けるようなことはしなかった。それが弓奈と他の多くの少女たちのあいだのとても大きな違いなのだが、弓奈はそのことにあまり気づいていない。本当にいい人間は自分のことをいい人間だと知らないのだ。

「あ、そういえば石津さん、お渡ししたいものがあって今日は来たんです」

「ん、一体なんだ」

 石津さんは口の周りがクリームだらけでサンタクロースのひげみたいになっている。よほどドーナツが美味しいらしい。

「じゃん! これなんだと思います?」

 弓奈はポケットから21世紀音楽祭の招待券を取り出した。

「ドーナツの割引券か?」

 すぐそっちの方向で考える。

「ざんねんでした。正解は年末の音楽祭のチケットでーす!」

「な、なに!?」

 驚いて飛び上がった勢いでクリームが石津さんのセーターに付きまくった。雪が降ったらだいたいこんな感じである。

「年末の音楽祭とは・・・つまりあれのことなのか」

「21世紀音楽祭です。友達もいっぱい誘ってるんですけど、よかったら一緒に行きませんか!」

 石津さんはここでドーナツ片手にほくそ笑み、幸薄気なキメ顔を披露した。

「実はな、私もここへ行こうと思っていたんだ」

「え、そうなんですか! チケットももうお持ちなんですか」

「いや、チケットはない」

 なんじゃそりゃと弓奈は思った。

「そしたら丁度よかったです。はい、良かったら貰って下さい」

「んー、君に私の当日の計画を打ち明けよう。21世紀音楽祭の観覧のために全国からおよそ4000人の音楽好きがホールまでやってきて行列するのだ」

「席は指定なので・・・会場の外に長い行列ができるとは限りませんよ・・・」

「行列の長さはそれほど重要ではない。そこで私はギターやヴァイオリンを持って歌うんだ。きっと素晴らしいアピールになるだろう」

「な、なるほど」

 出張型ストリートミュージシャンというやつだなと弓奈は思った。外は間違いなく寒いが、そういう地道な努力で名前を知られていく歌手もいるに違いない。

「あの人も音楽が好きだったから・・・そこで披露すれば聴いてもらえる可能性が無いわけではない」

「あ、なるほど・・・会場に来てるといいですね」

 そんな奇跡はなかなか起こりそうにない。万が一来ていても石津さんに気づかずさっさとホールに入ってしまったらおしまいである。

「だから君からわざわざそのチケットを貰って中に入る必要はないんだ。座席についてしまったら歌もギターもできないからな」

「そうですね」

 会場の前で歌っていても警備員さんに止められそうなものだが、そこは頑張ってもらうしかない。弓奈は石津さんを心から応援している。

「なので私は朝から行こうと思っている。残念だか君たちとは別行動だな」

「そうですね・・・」

 弓奈はちょっと淋しかった。

「ん。どうしたんだ」

「いえ・・・」

 心細さが顔に出てしまったらしい。これではいけないと思った弓奈は気合いを入れ直し、石津さんにかなり衝撃的な事実を告げることにした。

「石津さん!」

「な、なんだ」

「私、音楽祭の日に告白をしようとしてるんです!」

「なにっ!」

 石津さんは再びガタッと立ち上がった。またセーターに積雪である。

 弓奈はこの前のサイクリングのことや立ち直りのきっかけ、そして今の心意気を素直に全て語った。石津さんはホットココアみたいに深い瞳を終始弓奈の眼から逸らさずに、あたたかく、真っ直ぐに向き合って話を聴いてくれた。

「そうか、いろいろなことがあったんだな」

「はい」

「いよいよ正念場というやつか」

「そうなんです。音楽祭の前半が終わった時に二人でこっそり抜け出して、広場で話をする予定です」

「なるほど」

「ぜひその・・・遠くで励ましてくださいね」

「遠くで励ます?」

 弓奈はギターを弾く真似をした。石津さんが会場の外でストリートライブを開いていてくれるなら、きっと聴こえるに違いないのだ。

「なるほど、分かった。私にとっても勝負の日になる。一緒にがんばろう」

 石津さんはドーナツを置いて立ち上がり、弓奈に右手を差し出した。この瞬間は弓奈にとってはちょっとしたデジャブだったので、なんだか胸が不思議に高鳴った。思えば石津さんと出会って二年以上経ったが、きっとお互い色んな面で成長したに違いない。

「はい! 一緒にがんばりましょう! 応援してます!」

 二人は固く握手をした。迫りくる弓奈の高校卒業の季節を前に二人はお互いの思い出の接点の期限、一緒にいられる時間の限界のようなものをなんとなく感じていたため、この握手は少し特別なもののように思えた。二人ともそれほど器用に生きている女ではなかったが、お互いの考えを素直に投げかけ合い、共に立ち上がり、切磋琢磨し支え合った真の仲間だった。たとえば運動部のように毎日汗を流していたわけではないが、ともすればちょっとしたそよ風の前に吹き消えてしまいそうなお互いの希望や夢を諦めず、毎日明日という日をにらんで駆け続けた親友である。

「い、石津さん・・・?」

 ぎゅっと弓奈の手を握ったまま石津さんはうつむいて、なんとぽろぽろと泣き始めてしまった。これまでも彼女は腹が減ったとか寒いとかでしょっちゅう涙の豪雨を降らしていたが、どうもこれまでに弓奈が見た涙とは全く別物のような気がした。雪を溶かすくらい温かく、店内のクリスマスオーナメントより輝いていた。

「石津さん・・・」

「うう・・・」

 石津さんは涙を弓奈に見せまいとしていた。オバケみたいな髪で顔を必死に隠し、唇をきゅっと噛み締めながら。

 そんな風に泣かれてしまったら弓奈もうるうるきてしまう。弓奈はたとえば感動する映画などでも子どもと動物が出てくるものに特に弱いのだが、それは世の中のどこかに隠れている純な輝きに強く感銘を受けるハートの持ち主だからに違いない。年上の石津さんを小さい子や動物と一緒にするのは失礼な誤解を招くかもしれないが、弓奈は今とっても石津さんを尊敬している。こんなキレイな心を持った大人の人は日本中探してもなかなかいないだろう。

「哀しみの涙を流すには・・・この二年間で少し、胸が温まりすぎてしまったらしい・・・」

 石津さんはゆっくり顔を上げた。

「こんなに温かい涙は初めてだ・・・」

 顔を上げた石津さんの口の周りにはやっぱりサンタみたいに生クリームが付いていた。弓奈は涙をぬぐいながら、今できる精一杯の笑顔を石津さんにプレゼントした。

「まだ喜んで泣くのは早いですよ、サンタさん♪」

 石津さんは慌てんぼうのサンタクロースなのである。

 

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