142、写真
初めての感覚だった。
弓奈はこれまでにも幾多のガッカリと切なさを経験してきたが、これほどにまで心が深く沈むのは初めてである。
今日は平日なので当然授業に出掛けたが、結局一度も紫乃と言葉を交わすことができず、放課後すぐに自分の部屋に戻って来てベッドに倒れ込んでしまった。胸の痛みを通り越して、内臓がずーんと重くなる症状が出ているため立っているとふらふらしてしまうのである。悩みのせいで食欲がなくなるなんて何かの冗談だと思っていた健康娘弓奈は、自分の体を苛む諸症状にひどく困惑した。親友だけでなく、自分自身も失ってしまったようでとても辛かった。
「うー・・・」
どうせフラれるならもっと爽やかな終わり方がよかったなと弓奈は思った。嫌われたままで卒業するなんて悲しすぎる。不思議なことに今弓奈の脳裏に浮かんでは消える紫乃の面影は日曜日に見た冷たい背中ではなく、楽しかった日々の彼女のふんわり温かい横顔だった。
そんな彼女の横顔を直視できなくなってしまった今、弓奈は一体なにを目標に生きていけば良いのか、このベッドから這い出す理由すらもはや見つからない。
「うー・・・」
体が重い。自分が今どうしたいのかも、どうすべきなのかも分からない。弓奈は幼い頃から超人的モテに起因する自衛のために割と自立した女に育ったため、これまでも自分だけで考えて行動できることが多かったが、今回ばかりはお手上げである。
こんな時に恋の相談をできる相手・・・例えば石津さんがそばにいてくれたなら、歌いながら肩を抱いて励ましてくれたことだろう。竜美さんがいたなら、「何をしけた顔をしておるのじゃ」とか言ってそっと寄り添ってくれたに違いない。だが今弓奈は一人っきりであり、駅前まで出掛ける気力も体力もない。非常に閉塞した危機的状況である。
『あなたが本当に困った時に開けなさい』
ふと、弓奈の頭の中になんだかとても懐かしい感じがする金髪のねえちゃんが顔を出した。それは昨年度で学園を卒業していった小熊アンナ先輩の微笑みである。たしか卒業式の日の午後に弓奈は小熊先輩から封筒を一通もらっていた。困った時に開けろということだったが、まさに今がその時に違いないのだ。
弓奈は重たい体を引きずってベッドから這い出し、勉強机の一番下の引き出しを開けた。1、2年の時の定期テストの答案などが仕舞われている分厚いファイルの最初のページに弓奈はあの封筒を挟んでいた。封筒はあの日のまま時間を止めて、まるで弓奈との再会を待っていたかのようにページの隙間に顔を出した。
弓奈は椅子に腰掛けて洋封筒の口をとめていた絵の具のパレットの形をした可愛いシールを破れないようにそっと剥がして封筒を開けた。
「ん・・・?」
写真が一枚入っている。そういえば渡してもらった日に中身が写真であることは教えてもらっていた。重要なのはそこに何が写されているかである。写真の裏には「可愛くてセクシーな弓奈ちゃんへ♪」と書かれてあるが、おそらくこれはそれほど重要ではないだろう。
写真を表にすると、そこは星空であった。高価なカメラで撮られたものではないらしくハッキリと写っているわけではないのだが晩秋の星座がぼんやり見てとれる。なかなかにロマンチックな写真だ。
「あ・・・」
しかし、写っているのは星空だけではなかった。落ちていく流れ星の手前に、二人の少女の姿が影絵のように浮かんでいたのである。これを見た瞬間、弓奈はこの写真がいつどこで誰によって撮られたものなのかを理解した。
(あの時の写真だ・・・)
二年以上前になるが、あれはたしか弓奈が迎える初めての学園祭の前夜だったはずである。生徒会が運営する喫茶店の会場の外に咲くコスモスに誘われて弓奈が宵の寒空の下に出たとき、紫乃ちゃんが心配して外に出てきてくれたことがあった。そして二人は花壇のそばでのんびり星空を見上げながら楽しくお話をしたのである。小熊先輩の鮮やかな盗撮のシャッター音は確かに二人の背後から聴こえた。あの時の写真で間違いない。
「懐かしい・・・」
あの頃はまだ弓奈は紫乃に恋をしていなかった。いやもしかしたら当時既に好きだったのかもしれないが、少なくても恋心の自覚はなかったので、あらゆる悩みが外部からのみ訪れる無邪気な生活を送っていたと言える。あれから本当にいろんなことがあったが、思えばいつも紫乃ちゃんは自分の隣りにいてくれたなと弓奈は思った。ついさっきベッドでぐったりしながら思い浮かべていた紫乃の姿が、彼女の横顔だったことがその証拠である。弓奈は紫乃の横顔を見ながら高校生活を送ってきたのである。
「ん・・・?」
しかしここで、弓奈はこの写真の中にとある発見をする。シルエットしか見えないが、弓奈はポニーテール、紫乃はつややかな姫カットなので、記憶を探らなくとも後ろ姿からどちらが自分なのかは一目瞭然なのだが、写真の中の弓奈は遠いカシオペア座の方をまっすぐに向いているのに、なんと隣りの紫乃ちゃんは空を見ていなかったのである。
「紫乃ちゃん・・・」
紫乃は弓奈を見つめていたのだ。
この時二人は間違いなく星や宇宙の話をしており、あのような場にあれば空を見上げていて当然である。しかし紫乃はじっと弓奈の横顔を見つめていたのだ。これが一体何を意味しているのか、そして小熊先輩が今の弓奈に伝えたいメッセージとは何なのか、弓奈は考えた。
たったひとつのヒントで、大好きな女の子と自分とが相思相愛であることに気づけるほど弓奈は自分自身に驕っておらず、持ち前の天然な謙虚さが真実への到達を見事に阻害してくれたが、いくらか前向きな気付きを得ることができた。この時の弓奈にとっては運命をも変え得る大きな気付きである。
どうやら弓奈が紫乃に伝えたい言葉は「好き」だけではないようである。どんな時もずっと一緒にいてくれた紫乃ちゃん・・・自分が気づいていない時にもたくさんの思いやりをくれていたらしい紫乃ちゃん・・・彼女はまさに弓奈の高校生活、ひいては青春のど真ん中でうつむきがちに咲いていた世界一可憐な花である。紫乃がいたからこそ、弓奈の毎日はいつだって春の窓辺のようにまぶしく輝いていたのだ。ここまで気づけた彼女なら、紫乃に伝えたい「好き」以外の言葉が胸に溢れて当然である。
弓奈の胸は震えた。落ち込むだけ落ち込んだら、今度は何か見返りを求めた言葉ではなく、もっと大事な言葉を贈り物のようにして改めて彼女に伝えてみようと弓奈は思った。そうすれば、大好きな人にフラれて卒業していく自分の人生も決して悲劇ではないだろうと考えたのである。
(小熊先輩・・・ありがとうございます)
弓奈は写真を胸に当ててぎゅっと抱きしめた。
「弓奈お姉様!」
「うわぁ!」
非常に大事な考え事が一段落ついた瞬間に、あかりが美紗と一緒に弓奈の部屋に飛び込んできた。ノックくらいして欲しいものである。
「大変ですお姉様!」
「ど、どうしたの?」
「紫乃先輩がすごく落ち込んでるんです!」
「あ・・・」
「話しかけても暗い顔したまま、キツネのしっぽがどうとか、気圧でリンゴがどうとかよく分からないことをつぶやいてるんです!」
弓奈に嫌われたと思っている紫乃の落ち込みようは物凄く、今日は一日じゅう上の空であった。今彼女はいつもの癖で出掛けてしまった生徒会室のソファにうつぶせで寝転がってぐったりしているらしい。
「きっと何かあったんです! 私たち紫乃先輩が心配で心配で!」
自分たちは本当にいい後輩に恵まれたなと弓奈は思った。先輩の身を案じる後輩たちを前に、写真をぎゅっと胸に抱き直した弓奈は、ある決心をした。
「実はね・・・」
全てを話すことにしたのだ。
「私のせいなの」
「ええ!? おねえさまが紫乃先輩に!?」
「こ、恋をされていたんですか!?」
あかりも美紗を目を丸くしている。驚くのも無理はない。今でこそ親友となっている弓奈と紫乃の関係の根本は、この学園のアイドルとそのボディーガード、女同士の恋愛を遠ざけたいと思う少女とその協力者だったのだから。
「隠しててごめんね」
「いいえ! でもでも、ビックリしましたぁ!」
あかりちゃんがやたら身を乗り出してくる。何に興奮したのか。
「つ、津久田様」
「ん?」
「津久田様が以前おっしゃっていた恋の気配というのは・・・もしかしたらこの事だったのでは」
「おお、そうかも」
どうやら弓奈の恋心は100%かくれんぼに成功していた訳ではないらしい。言葉にしなければなかなか伝わらない真心もあれば、口に出さなくても漏れてしまう秘密もあるらしい。人間というのは実に不思議な生き物である。
「紫乃ちゃんがぐったりしてるのは・・・親友だと思ってた同性の友達から恋のアピールされたのがショックだったからだと思うの」
美紗は深刻な顔でうなずいたが、あかりは首をかしげた。
「それで・・・このままじゃ私もイヤだし、紫乃ちゃんにも申し訳ないからもう一度しっかりお話したいと思ってて」
今度はあかりもうなずいた。
「色々考えたんだけど・・・好きですっていう告白よりも、もっと紫乃ちゃんに伝えたいことがある気がして・・・」
「だ、ダメです!!」
あかりが子犬のように吠えた。
「お伝えしたいことがあるならお伝えした方がいいと思いますけど、告白もしなきゃダメです!!」
随分強く言われたので弓奈は少し驚いてしまった。
「でも、日曜日にもうフラれちゃったから」
「まだフラれた訳じゃありません! さっきのお話じゃ、紫乃先輩は突然の熱烈なスキンシップにビックリしただけかも知れません! ハッキリ好きですって言ってみて返事を貰うまではまだ分かりません!」
「そ、そっか」
言われてみればその通りである。弓奈はまだ前哨戦でつまずいたに過ぎない。本当の戦いはまだこれからではないか。
「表に出てる部分からだけで紫乃先輩の気持ちを考えちゃダメです! 本当のことはいつもずっと深いところにあるんですから!」
「うん・・・そうだね! ありがとうあかりちゃん!」
あかりもたまには良いことを言ってくれる。
「私だって今はこの美紗ちゃんの恋に協力して雪乃ちゃんと仲良くなるにはどうすればいいか一緒に考えてる振りしてますけど、本当は美紗ちゃんを狙っています!」
「つ、津久田様!? なにをおっしゃっているんですか!?」
良くないことも言ってくれる。
とにかくあかりの言う通りである。弓奈はもう一度しっかり、告白という形ではっきりと恋心を伝えるべきなのだ。問題はその機会をいつに設定するかである。
「問題はいつ告白するかですねぇ・・・」
あかりが同じことを考えてくれている。弓奈は日曜日の自転車デートのことで頭がいっぱいだったので、手帳に書き込まれた12月の予定がすぐには浮かんでこなかった。
「クリスマスイブ・・・」
美紗がつぶやいた。
「クリスマスイブはどうでしょうか・・・みなさんで21世紀音楽祭を観にいきますよね。その時にお二人だけの時間を作って、お話するというのは」
気がつけば間もなくクリスマスである。
「なるほど・・・クリスマスイブ・・・」
「美紗ちゃーん! 名案だよ!」
美紗はあかりに脇腹を思い切りくすぐられた。
「東京国際音楽堂ホールは超ロマンチックと噂の人気スポットと隣接してます! えーと・・・なんていう名前の広場だったかな」
東京国際音楽堂ホールは改装されたばかりの施設だが音楽堂そのものの歴史は古く、周辺には明治時代の文豪が小説に登場させたこともあるステキな広場があったりする。
「つ、津久田様・・・それって」
「ん?」
「三日月の広場っていう場所ですか?」
「そう! それだよ!」
美紗は再びあかりに脇腹をくすぐられた。
学園長先生の人生と自分たちの人生が不思議な符合を見せてきたことに、美紗はドキドキした。三日月の広場は鈴原学園長が大好きだった人にフラれた場所だからである。
弓奈は手帳に挟んであった音楽祭の招待券と小熊先輩が残してくれた写真とを見比べながら決心した。
「私、クリスマスイブに紫乃ちゃんに告白する! それから、伝えたいことも全部伝える!」
「おねえさまぁ!」
「わ、私たちも協力いたします!」
後輩二人に手をとられて弓奈は少々照れくさかったが、照れるだけの心の余裕ができたことは本当に彼女たちに感謝しなければならない。お陰で滞りきった真っ黒い午後から解放されたのだから。
「あかりちゃん、美紗ちゃん、ありがとう!」
「いいえ! おねえさまのためなら何でもしますぅ!」
写真によって弓奈の心の窓がそっと開き、後輩たちに全てを話すことができた。そしてその後輩たちに告白を諦めるべきでないと鼓舞され、一時は空っぽだった弓奈の心に温かい希望が舞い戻った。果たしてこの流れのどこまでを小熊先輩が計算していたのかは分からないが、少なくても彼女の望んだ通り、あの写真は弓奈を見事に救った。
また今度クリスマスイブについて作戦会議をしましょうみたいなことを言ってあかりたちは弓奈と別れたのだが、一人きりになったはずの弓奈の部屋に美紗ちゃんがこっそり戻ってきた。
「あ、美紗ちゃんどうしたの」
「あの・・・つかぬことをお伺いいたしますが・・・」
「うん」
「倉木様のご実家は・・・どんなおうちなのでしょうか」
妙なことを訊くものだと弓奈は思ったが素直に答えてあげた。
「んー、ひと言で言えば小さな花屋かな」
「お花屋さんですか」
「うん。お母さんが趣味でやってるの」
それを聴いた美紗はうつむいてもじもじした。
「・・・どうしたの?」
「倉木様のお母様は・・・もしかしたら学園長先生の昔のお知り合いではありませんか」
「え?」
弓奈はそんなことを考えたことがなかった。母からそんな話を聴いたこともない。
「さあ・・・どうだろう」
「そ、そうですか・・・本日はお邪魔致しました。これで失礼させていただきます」
「あ、うん。ホントにありがとう。気をつけて帰ってね」
「は、はい。失礼いたします」
「バイバイ」
弓奈は物音のしなくなった部屋にぼんやりと立ち尽くした。何をしている家なのか、というような質問を弓奈は随分前に学園長先生からもされたことがある。しかし今振り返ってみればあの時の先生は弓奈の家についてある程度なにかを知っている様子だった気がしないでもない。
「まあ・・・いっか」
弓奈は招待券と写真を握ったままぐっと伸びをした。やるべきことはたくさんあるのだ。




