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141、涙の色

 

 弓奈は夜明け前に自然に目を覚ました。

 おまけにいつもより頭が冴えているようで、天井の壁紙に連なった薄紅色の菱形マークが暗闇にもとても鮮明に見える。今朝の彼女の頭と体が夜明けを待ちきれなくても不思議ではない。今日は待ちに待った紫乃とのお出かけの日なのだから。

 「好きです」とはっきり告白は出来ないかもしれないが、機を見て自分の気持ちをそれとなくアピールし、紫乃ちゃんの出方をうかがってみるつもりである。突然のサプライズで愛の告白を成功させられる可能性は0に近く、まずは恋の空気感を二人のあいだに生む必要があると弓奈は考えているのだ。同じ負け戦であっても頭を使って最善を尽くしたほうが悔いは残らないだろう。

「よーし!」

 体を起こした弓奈は透き通る朝の空気の中でグッと伸びをして気合いを入れた。



 その頃、弓奈のベッドから壁を一枚挟んだ先で紫乃も目を覚ましていた。

 彼女は寝る前や寝起きに弓奈のことを考えるとついついドキドキが止まらなくなってしまい、今朝も暖かい布団の中で枕をぎゅうっと抱きしめたままもぞもぞ動いていた。

 こういう心地良いことをしているとあっという間に時間が過ぎてしまうことを紫乃は知っているため時間のチェックは怠らなかった。そろそろ出掛ける準備をしなくてはいけない。紫乃はベッドサイドに置いておいたモコモコの上着を布団の中で着込んでからベッドを出た。紫乃はかなり寒がりなのである。

 今日もいつも通り、クールでかっこいい紫乃ちゃんで頑張るために紫乃はしっかり顔を洗って髪を整えた。



 弓奈が部屋を出ると、同じタイミングで紫乃も顔を出した。

「おはよう紫乃ちゃん!」

「おはようございます」

 弓奈の気分は非常にハイだが日曜の早朝の廊下なのでひそひそ声である。

「行こっか」

「はい」

 二人は小走りにひと気のない寮を抜け出した。いつもとは違う素敵な日曜日が始まるという前向きな予感が二人の背中を押していた。

「紫乃ちゃん、ホントに自転車借りていいの?」

「はい。誰も使ってないですから」

 彼女たちはまず自転車に乗るために紫乃の家へ向かった。鈴原家の庭の芝生は西洋芝という種類らしく冬でも青々しており、明るくなってきた朝の瑞々しい香りを一層さわやかなものにしている。

 紫乃は庭の隅にとめてあった二台の自転車のカバーを外した。26インチくらいの普通のシティサイクルだが、鈴原家仕様らしく編み編みのカゴやアイボリー色のフェンダーがちょっとおしゃれである。

「どっちがいいですか」

「紫乃ちゃんはいつもどっちを使ってるの?」

「どっちも使ってないです」

「じゃあ・・・こっちかな」

 弓奈は少し古そうな方の自転車を選んだ。

「空気を入れなきゃだめです」

 そう言って紫乃ちゃんが空気入れを持ってきてくれたが使い方がよく分からないらしく、ホースの先を直接タイヤにぶっ刺そうとしてくれた。

「あ、力仕事は私に任せて」

「そうですか」

 弓奈は二台分のタイヤに要領よく空気を入れていく。紫乃はその場にしゃがんで弓奈の頼もしい横顔をじっと見つめた。二人っきりの時間がとても幸せで紫乃は赤くなっているほっぺをマフラーで必死に隠した。

 いつの間にか朝雲の隙間から眩しいほどの晴れ間が覗き始めた。



「よし! 出発しよう!」

「はい」

 家の前で自転車にまたがって青空を見上げつつ朝ご飯のサンドイッチを食べた二人はいよいよ出発することにした。

 今回の旅の目標は、実は特にない。あるのは昼前まで進み続けて時間がきたら適当に引き返すといったノープランという名のプランである。丘と青葉町を越えた先に何があるのか、そんなことは地図を見れば全て容易に明らかになるのだが、それではつまらない。自分の目と耳と鼻で感じる世界のほうがきっと素晴らしいに違いなく、受験勉強につかれ気味の二人にはいいリフレッシュにもなるはずだ。

 脚が長い弓奈は走り始めてから自転車のサドルが少し低いことに気づいたがあまり気にしないでいくことにした。

 立ち漕ぎしながら眺める冬のひまわり畑は一見すると何も無い淋しいものだが、なぜか今日はキラキラ輝いて見える。たしかに弓奈は冬の土の中には春を待つエネルギーが満ちていることを知っているし、奇麗に花を咲かせる瞬間だけが植物たちの物語でないことを幼い頃から感覚で学んでいるのだが、どうやらそれだけが原因でないようである。景色だけでなく、ささやかな風の音も、頬を撫でる冷たさも、全てが心地よく感じられるのはきっと大好きな人と一緒にいるからに違いない。

 振り返ってみると、紫乃も弓奈の真似をして立ち漕ぎをしていた。彼女の揺れるスカートの向こうに、二人を見送る学園の時計塔が見えた。

「紫乃ちゃんはこっちの方に来たことあるの?」

「ないですか」

「そっか。じゃあ今日は一緒に迷子になろうね!」

「・・・迷子はイヤです」

 弓奈さんと一緒なら一生迷子でいたいなと紫乃は思った。

 ひまわりの丘を抜けるとそこは青葉町である。弓奈は夏休みにここへ来たことがあるが、なんとなく紫乃には内緒にしたままだ。二人は車が一台も走っていない道の赤信号を律儀に守りながら川沿いのサイクリングロードに到着した。ここは夏に花火を上げていた会場であり、引き返してずっと下流に行くと石津さんが作曲しながら歩いて風邪を引いたあの川原に辿り着く川でもある。

 朝のランニングをしている中学生くらいの女の子がいたが、彼女は走り過ぎていく弓奈たちの美しい髪と背中に見とれて思わず立ち止まってしまっていた。タイムを計っていたのなら可哀想である。

「あ、紫乃ちゃん!」

「わあ!」

「もしかしてあの辺り全部凍ってない?」

「・・・急に止まらないでください」

「ほら、川の水面」

「凍ってますね」

「さむーい!」

「え! は、はい」

 弓奈のおかしなテンションにだんだん紫乃も盛り上がって来てしまった。基本的に弓奈が自分の前を走ってくれるので良かったが、紫乃は終始ニヤニヤしっぱなしである。弓奈のポニーテールが眩しい日差しにキラキラ輝きながら風に梳かされるのを見ていると自然に笑みもこぼれてしまう。紫乃は今とっても幸せだ。

 青葉町を過ぎると広い畑が続いており、川に沿ってプラタナスの木が並び始めた。青空に大きく枝を張ったその先に丸型のカステラみたいな実がたくさんついている。

「ねえ紫乃ちゃん」

「はい」

 もはや周囲に人影はないので弓奈は紫乃と並走した。

「自転車っていいね!」

「なんですか急に」

「私の実家ってけっこう山奥だからさ、急な坂が多くて自転車ってあんまり乗らないで育ったんだよね」

「あ、なるほど」

「自転車で遠くに行けるのってすごいわくわくする!」

 バスであっても電車であっても旅に出るのは楽しいものだが、自転車での遠出にはまた違った魅力がある。自転車と言えばちょっと駅前のお店まで行くのに使う乗り物であるので、それにまたがって出掛ける先は全て近所であると脳を説得することができる。つまり、自分の生活圏を広げている感覚を味わえるのである。

 弓奈はまたまた青空に向かって立ち漕ぎをした。

「この川ってどこまで続くんだろうね」

「さあ」

 永遠に続いて欲しいなと紫乃は思った。そうすればずっと弓奈と一緒にいられる気がしたからだ。

「あぶなーい♪」

「わあ! ちょっと、寄り過ぎです」

 無邪気な弓奈がわざと紫乃の方に自転車を寄せてきたりした。紫乃は怒ったフリをしながら弓奈と楽しくじゃれ合った。



 しばらく風を切って進んでいると、川とサイクリングロードが分かれる地点に到着した。静かな川面は空の青を映してゆったり右に曲がっていくのに、サイクリングロードはここで左に逸れていくらしいのだ。

「私たちどこに向かってるんだろうね」

「さあ」

 紫乃は「前に向かっている」と冗談を言いかけたが、クールじゃないのでやめた。

「これは迷子になれそうだね!」

「・・・迷子はイヤです」

「出発しまーす!」

「はい」

 二人の自転車は自然公園らしき林道に入っていった。

 ふと左を見ると林のずっと奥に小さな牧場があるらしく、ヤギだか羊だか分からない謎の生き物たちが群れてメーメー言っているのが見えた。

「紫乃ちゃん」

「はい」

「ヤギが手紙を食べる歌知ってる?」

「知らないです」

「白ヤギさんたら読まずに食べたー♪」

「知らないです」

 本当は知っているが子どもっぽいところを見せたくなかったので紫乃はそう答えた。

「実はヤギだけじゃなくて羊も紙食べるみたいだよ」

「え・・・そ、そうですか」

 弓奈が幼少時代近所に住んでいたちょっとエッチな女子高生の沢見さんがそう言っていたのだ。彼女がニュージーランドへ語学研修旅行に行った時、何気なくティッシュを一枚差し出したらもぐもぐ食べ始めたらしい。羊の健康とティッシュの気持ちを考えれば、よい子がマネすべきでないことは明らかだ。

「あれ、もしかして奥に牛もいるかな?」

「弓奈さん。ちゃんと前を見て走らないと危ないです」

 そう紫乃が注意した時、彼女は弓奈の方を見ていたため路面に転がっていた小石に気づかず、タイヤをとられて転びそうになってしまった。

「紫乃ちゃん大丈夫?」

「だ、大丈夫です・・・」

 紫乃は耳が赤くなった。



 木漏れ日の林道を颯爽と駆け抜けた二人の自転車は小さな街角に出た。

「ここはどこですか?」

「日本じゃないかな」

「それはわかってます」

「じゃあ自転車のサドルの上」

「やめてください・・・」

「えへ」

 もはや道に迷ったもおかしいお年頃である。弓奈が自分を優しくからかってくれるのが紫乃はとても嬉しかった。

 とりあえず二人はお地蔵様の前を過ぎてサイクリングロードの続きを探した。こういうのは大抵旅人にも分かり易く出来ている。

「おお! 紫乃ちゃん、川だよ!」

「再会ですね」

 サイクリングロードが川沿いに戻っていた。同じ川のはずなのだが先程よりも少々都会的であか抜けた感じがする。自転車が快適に走れるようしっかり整備された道が、ずっと遠くまで続いているのだ。久しぶりの見晴らしの良さに二人は胸を弾ませながら目一杯ペダルに力を込めて走った。

 赤いアーチ橋の脇を過ぎたあたりで、明らかにサイクリング客向けと思われる自販機を発見した。弓奈はここでペットボトルのサイダーを、紫乃はホットレモンジュースを買って飲んだ。弓奈はサイダーをぐいっと傾けて豪快にのどを潤した。大きな青空に透ける炭酸の気泡とボトルの輝きがあまりに奇麗で、弓奈はその体勢のまましばらくぼんやりした。

「あ、弓奈さん」

「ん?」

「あの看板を見てください」

「おお」

 二人は自販機の側に魅力的な標識を発見した。

「2キロ先、長山湖だって!」

「長山湖まで来ちゃったんですか」

 長山湖は江戸時代中期あたりの干拓によって生み出されたとても大きな湖である。かなり有名だが弓奈も紫乃も実際に見るのは初めてだ。そろそろいい時間だし、旅の折り返し地点はこの湖にすることに決定して二人はまた自転車を漕ぎ始めた。

 風の音も、陽のぬくもりも、全てが味方だと感じられた。初めから圧倒的に困難な恋路だとは分かっていたはずなのに、きっと上手くいくという恋への前向きな予感がこの時の弓奈の胸の中を満たしていたのだ。



「着いたぁ!」

 自転車を押して土手の上り坂を駆け上がると、視界は一気に開けた。上を見ても下を見ても青空と思しき湖面の美しさと静けさに二人は息をのんだ。

「すごーい・・・ヨット浮かんでるよ」

 水平線さえ無ければ空飛ぶヨットに見えなくもない。見開きの左右両ページを使った大きな写真を見たとき、人は無意識に中央の線を無いものとして眺めたりするので、こんな景色ももっと自由な発想で味わっていいのかもしれない。

 湖の周囲は水田が続くばかりかと思いきや、なにやら小奇麗な建築物も見える。そこは長山湖レジャーセンターとかいう建物で、サイクリングでここまでやってきた旅人の休憩所にもなっている場所らしい。お腹も空いている二人はここに寄ることに決めた。

「せっかくだから外で食べよ!」

「はい」

 フードコートは非常に奇麗で静かだったが、せっかくだから湖を見ながら食べようということになった。二人は土手の見晴らしのいいベンチを発見して腰掛けた。温かいクリームスープのカップを開けて、ふわふわの調理パンをかじりながら眺める冬の透き通った空は、見ているだけで心の隙間をそっと満たしてくれるような優しさがあふれていた。

 お昼を食べ終わっても二人はなかなかその場を離れようとはしなかった。先程売店のそばで見た地図によれば、国道を真っ直ぐ辿っていけばあっという間にいつもの駅前まで行けることが分かったので時間的な余裕も得たし、なによりも二人でこうして一緒に座っていたかったのだ。

 さあ、今こそが恋の決定的一歩を踏み出すチャンスなのかもしれない。

 弓奈は熱くなってじんじんしていく手をきゅっと握りしめてから、ゆっくり口を開いた。

「あのね・・・紫乃ちゃん」

「はい」

 紫乃はさっき食べたパンの栄養成分表示を見ている。

「私ね・・・紫乃ちゃんに・・・」

「なんですか」

「紫乃ちゃんに・・・ずっと前から話したいことがあるんだけどね」

「はい」

 まさか恋のお話などとは思っていない紫乃はいつものクールな受け答えである。

「紫乃ちゃんはさ・・・」

 ここへ来て弓奈の口はぴったり止まってしまった。

「紫乃ちゃんは・・・さ・・・」

「・・・なんですか」

 さすがの紫乃も不安になってきた。自分が弓奈の靴を踏んでいないかどうかや、間違って弓奈のパンを食べてしまったのではないかなどを疑ってみたが、特に彼女の口数を減らす原因は思い当たらない。

 弓奈は何も言葉が出なくなってしまった。見えない空気のフタで胸を塞がれたように、頭ではセリフが浮かんでいても、心臓がそれを拒んでいるのである。

「・・・ゆ、弓奈さん?」

 すごく怖い・・・嫌われたくない。けれどここで逃げてはいけない・・・諦めてもいけない。弓奈に与えられた時間と機会はごく限られたものなのだから、自分を信じて前に一歩進まなければならない。

 弓奈はもはや用意してきた全てのセリフは使い物にならないと判断した。そして怖さやら緊張やらを握りしめていた手をそっとほどいて、その手を紫乃に向けてゆっくり差し出したのだ。

「手・・・つないでもいい?」

「えっ・・・」

 弓奈は耳まで赤くしながら、けれど紫乃の目をしっかり見つめてそうお願いした。

「手・・・つないでもらっても・・・いいかな」

 もう後戻りできない弓奈はかすれた声でもう一度紫乃に告げた。本来女同士、友達同士で手をつなぐことなど何の抵抗もない行為のはずだが、今は明らかにそのような雰囲気ではない。弓奈は敢えて恥ずかしさを隠さずに紫乃に見せて、恋のアピールをしたのである。

「紫乃ちゃんと・・・手つなぎたいの・・・」

 顔を赤くし、目をうるませてそうハッキリ言えば、普通の女であれば「あ、この人は私のことが好きなのかな」と気づくところであるが、ここからが鈴原紫乃の凄いところである。紫乃は弓奈と手をつなぐ心構えそのものに気をとられ、弓奈の心をサッパリ覗けなかったのである。弓奈の決死のアピールに全く気づかず、いつも通りの無邪気な弓奈さんが友達として自分に接して来たと思っているのである。

「手、ですか・・・」

「うん・・・お願い・・・」

 紫乃はドキドキしているのは自分だけだと思いながら、袖口から手をそっと出して、そっぽを向いたままおそるおそる弓奈の方に差し出した。弓奈は少々怯えながらも慈しむように彼女の小さな手にゆっくりゆっくり自分の手を重ねてやわらかく包み込んだ。

「あっ・・・」

 これはいけないと紫乃は思った。二人きりの世界で、こんなに至近距離で肌とその温もりを感じてしまって、あっという間に手が汗でぬれてしまったのだ。必死に弓奈から顔を背けているが、頬が染まっていることもすぐにバレてしまう位置取りと、空の明るさである。自分の恋心が今まさに弓奈にバレてしまいそうになっているのだ。これは紫乃にとって大ピンチである。

「だ、ダメです・・・!」

 紫乃はそう言って弓奈の手を振りほどいてしまった。

「し、紫乃ちゃん・・・?」

 紫乃はベンチから腰を上げて弓奈に背中を向けた。

「ダメです・・・」

 紫乃は弓奈がこのあとも無邪気にスキンシップを図ってくる可能性を考慮して、厳しめにクールなセリフをはくことにしたのだった。

「わ、私がそういうの嫌いなこと・・・知ってるはずです・・・やめてください」

 紫乃はこの言葉を自分のキャラクター、つまり弓奈から求められている鈴原紫乃像を守るための言葉であると信じたため、むしろ弓奈は喜ぶかもしれないとすら思った。たしかに紫乃が考えるいつもの弓奈であれば「やっぱり紫乃ちゃんは硬派でかっこいいね♪」みたいな感想をもらしたことだろう。

 しかし、今だけは状況が違っていた。

 弓奈はぞっとするほどの絶望感を味わう瞬間まで、これが現実のものかどうかもよく分からなかった。頭も体も、現実を整理できず、受け入れられなかったのである。

 紫乃に手を振りほどかれるまで、まるで体育祭のリレーでもやってきたのではないかというくらい心臓が高鳴っていたのに、今は不思議と静まり返っている。胸の底が急に空っぽになったようだった。

「そうだよね」

 弓奈は妙に落ち着きながらそっとつぶやいた。

「紫乃ちゃんは、そうなんだよね。なんか・・・ごめんね」

 ベンチを立った弓奈は「ちょっとお手洗い行ってくるね」と紫乃に告げてレジャーセンターの方へ向けて土手を一人でふらふらと下り始めた。

 完全にフラれたと弓奈は思った。弓奈には、あれほど明確な恋のアピールを賢くてしっかり者の紫乃ちゃんが受け取っていないとは夢にも思っておらず、その状況で「ダメです、やめて下さい」とハッキリ言われ背中を向けられてしまったのでは、もうどうしようもない。

 涙がどんどん溢れてきて止まらなかった。足元が見えなくて土手を下りながら何度か軽く足首をひねってしまったがそんなこと気にならなかった。なんであんなことをしてしまったんだろうかと、弓奈は悲しくて悲しくて仕方が無かった。たった5分間だけでいいから、時計の針を巻き戻してほしいと思った。フラれる覚悟はずっと前からしていたはずなのに、世界が悲しみの涙の色に滲んでもう何も見えなくなってしまった。



「ゆ、弓奈さん・・・?」

 紫乃は小さくなっていく弓奈の背中を見つめながら、不安で胸がいっぱいになった。間違いなく今なにか重大な問題が起こっている・・・それは分かるのだが、一体なにが起きているのか彼女には分からなかった。自分の行動や発言を振り返ってみても、弓奈をガッカリさせるようなことは思い当たらなかった。強いて言えば無邪気に手をつなぐ行為を拒否したことだが、似たようなクールな言動やツッコミは普段もやっているためこれが原因とも思えなかった。

(え・・・もしかして・・・)

 きっとそうに違いないと思った。とうとう自分の恋心が弓奈にバレたと紫乃は思ったのだ。たしかにあれほど露骨に慌てて手を振りほどき、顔を赤くしてかなり無理のある硬派アピールをしたのだからバレても不思議ではない。

 とうとうこの日が来てしまったかと紫乃は思った。「紫乃ちゃんって恋に興味ないフリしていただけで、本当は他の女の子たちと同じで私のことが好きだったんだね。私のこと・・・そんな目で見てたんだ。友達だと思ってたのに・・・」みたいな感じでガッカリしたに違いないのだ。

 紫乃は脚に力が入らなくなってへなへなとベンチに座り込んだ。さっきまで輝いていたはずの空も、湖も、全てのっぺりとあたたかみを失った涙の色をしている。嘘で築き上げてきた友情の終わりはこのようにあっさりとしたものなのかと、紫乃は胸の悲しみを実感を伴ったものとして心に刻むのに苦労した。その悲しみが体の芯にしみていく毎に、涙がとめどなく流れた。こんなのやだ・・・もっと弓奈さんと一緒にいたい・・・胸が張り裂けるような想いとはまさに今自分が感じている感覚だなと紫乃は思った。こんな気持ち生まれて初めてである。



 かなしい嘘と確かな友情と深い愛情が生んだ恋の世界には、たとえお互いに非常に仲が良かったとしても誤解と錯覚はありふれている。ましてや女同士の恋、それも初恋であるときたら、手探りの慎重さ故に客観性を欠いた思い込みがでてきてしまっても無理はない。二人の恋の最大のピンチは、彼女らがどうしても越えなくてはならない壁であり、ぶつかってしまう運命だったとも言える。



 二人は旅先にいるにも関わらず数十メートル離れた場所でなんと一時間もお互いに泣き続けた。

「帰ろっか♪」

 弓奈が泣きはらした目でわざと明るくそう言い出しに行かなかったら一晩も二晩も泣いていたことだろう。

 国道沿いの帰り道が、行きよりも遥かに短かったことが唯一の救いだった。二人の間にはひと言も言葉を交わせない、重い空気が流れていたからである。



 寮の自室に戻った弓奈はそのままベッドに倒れ込み、晩ご飯も食べずに寝込んでしまった。

 

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