140、チャンスはチャンス
弓奈が紫乃との約束通りお勉強を頑張っている頃のことである。
「蒔崎さぁん」
「は、はい!」
ジャージにスポーツ用のコートを羽織った美紗がしゃがんでランニングシューズに履き替えていると、背後からのんびりとした声が降ってきた。
「か、香山先生、こんにちは」
「こーんにーちはぁ♪ これからおでかけ?」
香山先生は美紗のすぐ脇にしゃがんだ。先生はとても奇麗で可愛いのでこのように急接近されると美紗はドキドキしてしまう。
「は、はい。いいお天気ですし、少し運動をさせていただこうかと」
この学校は私学であるせいで土曜日も毎週授業があるのだが午後はヒマであり、この時間を利用して美紗は体力をつけようとランニングするつもりだったのである。
「それじゃあ、その運動のついででいいんだけど、おつかい頼まれてくれなぁい?」
「お、おつかいですか?」
香山先生は美紗の返事を聞く前に手元のファイルから白い封筒を取り出した。それも一つや二つではない。おそよ10枚の封筒である。
「はいこれ!」
「こ、これは一体・・・」
「前に先生が三年の倉木さんに葉書を書いてもらったの覚えてる?」
「は、はい」
そういえばそんなことあったなと美紗は思った。
「倉木さんの運は凄いね、書いてもらった葉書全部当たっちゃった!」
「ええ! す、すごいです!」
そのうち宝くじとかに利用されそうである。
「私はこの一通だけでいいから、残りは全部美紗ちゃんにあげる」
「え・・・でもそんな、私なんかには・・・」
「さっき倉木さんのお部屋に行ったらすごーく集中して勉強してるみたいでノックしても返事なかったの。だから美紗ちゃんにあげる。好きな人を誘って、みんなで行こう!」
「行く・・・というのは?」
「これ♪」
先生は封筒のひとつを開いて美紗に招待券らしきものを見せてくれた。
「21世紀音楽祭・・・?」
「そう!」
「・・・21世紀音楽祭ですか!?」
「うん!」
21世紀音楽祭、それはほとんどの日本人に知られている年末の音楽番組である。およそ50年の歴史を持ち、東京国際音楽堂ホールという大きな会場でクリスマスイヴに開かれるこの祭典は、その年に活躍した音楽アーティストが大勢集結するとっても豪華なイベントである。
「す、すごいです・・・」
「一回行ってみたかったの♪」
「私なんかが・・・頂いてよろしいのでしょうか・・・」
「うん。蒔崎さんは倉木さんのラッキー具合を教えてくれた子だからね」
「そ、それではありがたく頂きます・・・」
「いっぱいあるから好きなお友達に配ってね」
「は、はい」
香山先生は鼻歌をうたいながら去っていった。まこと不思議な先生である。
美紗は手元の封筒に目を落として考えた。当然この中の一通は弓奈に渡すべきであるが、お勉強中とあらばそれを邪魔するわけにいかない。彼女が晩ご飯の時間に部屋から出てきた時にでも渡そうと美紗は思った。
問題は残りの封筒の行き先であるが、順当にいけば紫乃やあかりであり、先輩方を尊敬している美紗は当然彼女たちに渡す気満々だが、ここでほんの少し美紗の胸の中にときめきが顔を出した。
(雪乃さんにお渡ししたい・・・)
封筒は7通もあるし、渡すだけの縁も美紗にはあるので渡したかったらどうぞ渡してくればといった状態であるが、そう簡単にはいかない。普段は遠くから眺められるだけで幸せなその人に、何かを思い立ったその日に自分から声をかけてどこかに誘うなどという荒技をやってのけるほど美紗のハートはたくましくない。
頬をリンゴ色にしながらしばらく悩んだ美紗はここに立ったままでは何も進まないと気付き、とりあえず学舎で先輩たちを探すことにして、靴ひもをしっかり締め直して立ち上がった。
その瞬間、美紗は自分の目を疑った。
「えっ!」
慌てるのも無理はない。いつもは探しても探してもなかなか見つけられない大好きな雪乃さんが偶然昇降口の前を通りかかったのである。彼女は巨大な魚を背負ったまま中庭から遠征中のアヒルを追いかけて遊んでいるらしく、美紗に気づく気配はない。
(雪乃さん・・・!)
いきなりのチャンス到来だが、あまりにいきなり過ぎるとそれはチャンスとは呼べない。生まれたばかりの赤ちゃんをステージに連れて来て「さあ今こそ君のステキな歌声を世界中の人に聴かせ、著名なアーティストになるチャンスだよ!」などと言っても無駄なのと同じである。美紗の心の準備はまだ全然育っていない。
美紗は雪乃に気づかれないようにしゃがんだまま昇降口の脇の花壇の陰を伝ってあるき、学舎に向かって駆け出してしまった。
後悔がずーんと足どりを重くするが負けてはいけない。責任感の強い美紗はとにかく先輩方を探す事にした。
この学園は基本的に制服以外の格好で学舎をうろつく事が出来ないので美紗は学舎の昇降口や中庭をうろうろした。弓奈や紫乃はともかくあかりには出会えそうなものなので美紗はしばらくあちこちを歩き回った。
すると、中庭の渡り廊下に見覚えのある人影を発見した。たしか学園祭の演劇で王子様をやっていたドラキュラ顔の先輩とそのお友達である。招待券はかなり余る予定だし、彼女たちは先輩たちとも仲が良さそうだったので美紗は彼女らも誘ってみることにした。
「あの、少しお時間よろしいですか・・・」
そう声を掛けようとした時、ありえないものが美紗の目に飛び込んできた。なんと先程一年生寮の辺りをうろついていたはずの雪乃が、アヒルを連れて中庭に戻ってきたのである。願っても祈っても出会えない日が多い大好きな雪乃さんに再び偶然会えるなんて滅多にあることではない。今こそ彼女を誘うチャンスである。
しかし、何かの最中に訪れたチャンスはほとんどの場合チャンスではない。スカイダイビングの真っ最中に街角可愛い子猫が上空を漂うあなたに興味をもったとしてもその子の頭を撫で撫でできないのと同じである。仮にここで「あ、雪乃さんもぜひこっちに来て話を聴いてください」などと声を掛けようものなら、雪乃の心理の深層に「自分は誰かのついでに誘われる女なんだ」という負の印象を刻んでしまう可能性があるため美紗は雪乃を見なかったことにするしかなかった。
「少しお時間よろしいですか・・・」
「んあ? あんた生徒会の奴じゃん。何の用事?」
美紗は恋のスカイダイビングをしながら声を掛けているのだからもう少し優しい言葉遣いをして欲しいものである。
「か、香山先生から年末の音楽祭の招待券をたくさん頂いたので、先輩方にもぜひと・・・」
「音楽祭?」
「21世紀音楽祭です」
「は!? マジで!?」
舞は急に顔色を変えた。
「うわー! マジだぁ! これくれるの!?」
「は、はい。お二人に」
「うひゃー!」
はしたない程の喜びようである。どうやら舞の大好きな歌手も音楽祭に出るらしい。
「サンキュー! あんた名前は?」
「ま・・・蒔崎美紗と申します」
「美紗ぁ! ありがとん!」
「やめなよ舞・・・」
舞に力強く肩を組まれ、ほとんど首をしめられながら開けた美紗の目には、もう雪乃の姿がどこにあるのか捉えることは出来なかった。
がっかりしている場合ではない。先輩たちのお友達を誘った以上、先輩たちをちゃんと誘わなければならない。先生の情報によると先輩の倉木様は部屋でお勉強に集中しているらしいが、元生徒会長の鈴原様は今なにをしているのだろうか。美紗はとりあえず三年生寮に向かってみることにした。
三年生寮の周辺は受験前のぴりぴりした空気が広がっている。こんなジャージ姿の一年生がお邪魔するのはわるいかなと思った美紗はとりあえず寮の裏側へ行き、外から先輩たちの部屋の窓を探してみることにした。三階の一番東側の角部屋が弓奈の部屋で、その隣りが紫乃の部屋である。
「あ・・・」
偶然にも、見上げた角部屋の窓に弓奈の姿を見つけた。弓奈は激しい勉強の合間にちょっと休憩をしようと窓際で背伸びをしていたのだ。
「美紗ちゃーん」
弓奈が窓を開けて美紗に声をかけてきた。
「こ、こんにちは」
「こんなところでどうしたの?」
「じ、実はお渡ししたいものがございまして・・・いえ、お勉強がお忙しいようでしたらまた今度でも」
「ううん、大丈夫だよ。丁度今休憩中。上がっておいで」
本当に倉木様は親しみ易い人だなと美紗は思った。
「で、ではお邪魔させて頂きます」
「うん、待ってるね」
美紗は三年生寮に上がることにした。
三年生寮はとっても落ち着いた雰囲気なので、美紗はスリッパでパタパタと音と立てないように注意して階段を上った。
「いらっしゃい」
美紗がドアをノックするより早く弓奈が顔を出した。実はドアをノックする音は上下の部屋によく響いてしまうので気を遣っているのである。
「お邪魔してよろしいのですか・・・」
「どうぞ」
弓奈の部屋は胸がきゅんとする不思議な香りがする。せっけんの香りと、美紗が知らないどこかの国のステキな花を混ぜたようなやわらかい香りである。
「倉木様」
「なぁに?」
「これ、香山先生から頂いた招待券です」
「しょ、しょうたいけん?」
「はい。21世紀音楽祭の招待券です。以前倉木様に書いて頂いたお葉書が軒並み当選いたしまして」
「そ、そうなんだ・・・」
弓奈は自分の強運に少々引いている。
「私にもくれるの?」
「も、もちろんです。倉木様のお陰ですから。先生も大変喜んでいらっしゃいました」
「ありがとう。21世紀音楽祭かぁ」
テレビ番組に疎い弓奈もさすがにこれは知っていた。小学生の時はクリスマスケーキを家族で食べながら見ていたりしたのである。
「あ、そうだ」
「・・・どうされましたか」
「その招待券、私に一枚余分にくれないかな」
「もちろんです。どなたかお誘いになるんですか」
「うん。音楽好きの知り合いがいてね」
石津さんである。彼女なら「なるほど、面白そうだ」みたいなことを言って来てくれるに違いないと弓奈は思ったのだ。
「鈴原様にもこのあとお渡ししに行こうと思っております」
「そっかそっか。それじゃあみんなで行こうね」
「は、はい! 私も楽しみにしております」
突然だが、花のように表情がほころんだ美紗の瞳に、ここで三たび衝撃の光景が映る。なんと弓奈の肩越しに何気なく見た窓の下で、夢の中ですら滅多にお会いできない大好きな雪乃さんが寮の裏の小さな噴水でアヒルと一緒に遊んでいるではないか。11月も終わろうというのにアヒルの水浴びに付き合う雪乃さんは聖女だなと美紗は思った。今こそが雪乃を誘うチャンスではないだろうか。
しかし、窓越しにやってきたチャンスは大抵まことのチャンスではない。電車の窓から何気なく見た通過駅のベンチに生き別れになった妹がいたとしても、それが再会のチャンスと言えないのと同じである。もしここで窓を開けて「雪乃さーん!」と騒ごうものなら寮にいる全ての三年生からひんしゅくを買い、雪乃も怯えて逃げてしまうことだろう。
「それでは私は失礼させて頂きます・・・」
「もう行っちゃうの」
「はい。倉木様のお勉強のお邪魔になってしまいますので。お勉強頑張って下さい」
「うん、ありがとう!」
美紗は去ることにした。いつの世も哀しみを背負った女の背中は切なく、美しい。
気を取り直して美紗は隣りの部屋、鈴原紫乃様の元へ向かったが、ノックをしても返事はなかった。勉強に集中をしているのかシャワーを浴びているのかもしくはお昼寝中なのか、いずれにしても今は話せないので美紗は先にあかりを探すべくもう一度学舎を目指すことにした。
しかし、寮を出て山茶花の続く小道を抜けていると、美紗は第三管理棟の前に紫乃の姿を見つけた。雪乃の実の姉である彼女を美紗が見間違える訳が無い。美紗は急いで管理棟の昇降口へ向かったがもうそこには誰もいなかった。
「鈴原様・・・」
第三管理棟に入った可能性がある。ジャージ姿でうろつくのはいけないかも知れないがここは学舎ではないし、土曜日の午後は休日の雰囲気なので先生方に見つかってもそれほど厳しくお咎めを受けることはないだろう。美紗は思い切って第三管理棟に入ってみることにした。
第三管理棟は生徒会室などがある第一管理棟と異なり現在機能している事務室の類いはないらしく、ほとんど金庫のような厳重さで学園の歴史的書物を保管する書庫と資材室がいくつか存在するばかりだ。
奇麗に掃除されたじゅうたんの上をスリッパでゆっくり歩きながら美紗は紫乃を探した。一階の長い廊下に人の気配がないとすると上の階にいる可能性があるため美紗は手の込んだ木彫りの手すりを伝いつつ階段を上った。
「あら」
「あっ・・・!」
美紗はそこで凄い人に出会ってしまった。クールな厳しさのある瞳の奥にいつも優しさがほっこり咲いている女性、鈴原学園長である。
「も、申し訳ございません! 勝手にこんな格好で立ち入ってしまいまして!」
「いいのですよ、どんな格好でも。ここは整列して教科書を開く場所とは違うのですから」
ひどく慌てる美紗に学園長先生は優しく声をかけてくれた。
「ですがっ! も、もうわたくしは帰ります!」
「待って」
先生はどういうわけか美紗を呼び止めた。
「生徒会の蒔崎美紗さんですよね。少しお話がしたいのですが、お時間は大丈夫ですか」
「え・・・は、はい!」
時間はあるのだが、美紗の心臓が保つかどうか怪しいところである。
美紗は学園長に連れられて三階の学長室に来てしまった。おそらくほとんどの生徒が一度も足を踏み入れる事無く三年間を過ごすはずの学長室には、美紗の足がガタガタ震えるのに充分な緊張感が漂っていた。
「この学園、少し変わった学校でしょう」
「い、いえ、そんなことは・・・」
かなり変わった学校である。
「そんなに硬くならないでいいんですよ。生徒会の明日を支える人と少しお話をしたいだけですから」
「は、はい」
先生はそう言ってお茶を出してくれたが恐れ多くて口がつけられない。先生は大好きな雪乃さんのお母様なのでドキドキするのも無理はない。
「私はいつまで学園長でいられるか分かりません」
「え?」
突然なにを言い出すのか。
「大人の都合で、もっと面白くない立場につけられてしまうかも知れないんです。社会的な出世なんて要らないから、もっとこの学園の風に吹かれていたいと思う私はきっとわがままですね」
先生はちょっぴり淋しそうにティーカップを傾けた。美紗はどんな反応をしてよいか分からない。
「娘も卒業しますし、私はこの学園のことが気がかりでなりません・・・」
学園長は遠い目をした。いろいろ思うところがあるらしい。
「蒔崎さん」
「は、はい!」
美紗がビクッとした様子がおかしくて先生は上品に微笑んでくれた。笑顔がとってもステキである。
「これだけは覚えておいて下さい。愛と平和とリバティに溢れた世界を望み、毎日小さな心臓をドキドキ言わせて頭を抱えたのは、あなたたちの世代が初めてではないってこと。私たちも、私たちの上の世代もそのまた上の世代も、みんな同じようにこの世界に首を傾げ、大人の嘘に傷つき、愛と美しさへの果てしなく高い壁の前に立ち尽くしたのです」
先生の声はとっても穏やかである。
「けれどどうかこの世界をきらいになったり、諦めたりしないで欲しいのです。土も花も、風も海も空も星も、全てが不思議に満ちた尊敬に値するものだといつか気付いて、誰かの苦しみが自分の苦しみに、誰かの喜びが自分の喜びに思えるようになった時、この世界はすっかり姿を変えるのですから」
先生は美紗ににっこり笑ってくれた。
「まるでわるい夢から覚めたみたいにね」
美紗には少々難しいお話だったが、じんわりとした温かさが胸いっぱいに注ぎ込まれたような気がしてとても幸せだった。
「おかあさん」
と、ここで学長室の空気をまさに夢から覚めたようにすっかり変えるとんでもないお客様がドアから入ってきた。
「あら雪乃、どうしたの」
「はぁっ!」
授業中に気がつけばノートの端に似顔絵を書いてしまうくらい大好きな雪乃さんが、このような閉じた空間で至近距離に登場したのだから美紗も驚きは隠せない。心が浮き足立って当然の状況だが今こそ当初の目的、音楽祭へ誘う絶好のチャンスに違いない。
しかし、人前で訪れたチャンスは十中八九チャンスではない。小さなゲージに閉じ込められていたネズミが、怖そうな猫がじろじろ見ている時に出口を開けてもらったところでそれは脱走のチャンスと言えないのと一緒である。ここで雪乃に「クリスマスの夜に一緒にお出掛けしましょう」みたいなことを言えば穏やかな学園長も美紗をひどく警戒し、あんたうちの娘に何言っちゃってんのみたいな空気になること請け合いである。今は諦めなければならない。
「パン」
「パンはここにはありません」
「ロールパン」
「ロールパンもパンですよ。ありません」
自分の体ほどの大きさのぬいぐるみを背負ったままてくてく歩く雪乃があまりに愛おしくて美紗は目を逸らしてしまった。とても平静でいられない。
「雪乃、寒いからあまり外に出ないほうがいいですよ」
「うん」
雪乃は学長室の中をしばらく回ってから出て行った。美紗は自分の気配を消したくていつの間にか息を止めていた。
「ごめんなさい。少し変わった子で」
「い、いいえ!」
むしろ美紗はありがとうと言いたい。
「そういえば蒔崎さんはどうしてこの棟にいらしたの?」
「あ・・・その・・・鈴原紫乃様を探しておりまして」
「あら、紫乃がなにかご迷惑をお掛けしてしまったのですか・・・」
「い、いいえ! 実は音楽祭の招待券をお渡ししようと」
「音楽祭?」
「は、はい。21世紀音楽祭です」
そう聴いたとたん、学園長が少し驚いたようなお顔をした。
「たしか、東京国際音楽堂ホールですよね」
「は、はい」
「それ、わたくしは誘って頂けないのですか」
「はわっ! も、もちろん先生もぜひ、お越し頂ければ!」
「冗談ですよ」
先生はなんだか楽しそうだ。美紗はだまされ易い人間なのであまり遊ばないで欲しいところである。
「東京国際音楽堂ホールには思い出があります・・・」
「お、思い出ですか・・・」
「ええ。高校三年の時に・・・フラれたんです。ホールのそばにある三日月の広場で」
「へ?」
美紗はこれもさっきと同じ冗談なのか、それとも真実なのかサッパリ分からず混乱した。
「驚きましたか」
「い、いいえ・・・」
「でも驚いたお顔をされていますよ」
先生はクスクス笑っている。
「けれど私は幸せです。あの人は今も・・・遠い山奥の小さな町で花と一緒に笑っていますから」
そう学園長が呟いたとき、美紗の背後でドアをノックする音が響いた。
「失礼します」
「あら紫乃、どうしましたか」
今度はお姉さんのほうがやってきた。ここは鈴原家の自宅なのだろうか。
「雪乃が勝手に中庭のアヒルを連れてどこかをうろついてます。探してるんですが見つけられないです」
「雪乃ならさっきここに来ましたよ」
「・・・なんで捕まえてくれなかったんですか」
「パンを欲しがってただけでしたから」
「きっとアヒルに食べさせるんです。ごはんなら飼育委員が毎日ちゃんとあげてるのに。だから最近あのアヒルはころころに太ってるんです」
ここでようやく紫乃が美紗に気がついた。
「あ、美紗さん」
「こ、こんにちは」
「ここでなにしてるんですか」
「私が勝手に引き止めてお話を聴いてもらっていただけですよ。蒔崎さん、付き合ってくださってありがとうございました」
「い、いいえ! と、とてもお勉強になりました!」
美紗はいくつか疑問を抱えたままだが、紫乃と一緒に学長室を去ることにした。
さて、これでようやくちゃんと鈴原先輩とお話できる機会がやってきた。
「鈴原様」
「はい」
「これ、よかったらどうぞ」
「な、なんですか」
紫乃は警戒心の強い生き物なので例え信頼する後輩であっても安易にものを貰わない。
「12月の音楽祭の招待券です。お世話になっているみなさんにお配りしております」
「・・・弓奈さんにもですか?」
「はい。既にお渡ししました」
「じゃあ、貰ってあげます」
紫乃がちょっと嬉しそうなので美紗はほっとした。これで残すところはあのハイテンションなお嬢様である。
学舎の周囲をうろついていればあかりに会える可能性は高いが、二年生寮に顔を出してみるのもありかもしれない。
美紗は運動をする振りをして小走りにランコントルの泉を抜けて寮までやってきた。この辺りはさすがにお勉強ムードというよりは明るくはじけるような柑橘系の空気が漂っている。あかりが近くにいる証拠に違いない。
(津久田様・・・)
いいところまで来ているはずなのだがあかりの姿が見えない。寮部屋にいるのかもしれないが美紗はあかりの部屋がどこなのか知らないのでどうしようもない。
「美紗ちゃーん!」
「はぁ!」
目が二つとも前面についている人類の定めだが、背後には充分に気をつけて生活しなければ思いも寄らぬ不幸をこうむることがある。美紗は突然後ろから抱きつかれて寿命が縮まる思いをした。
「美紗ちゃん捕獲♪」
「つ、津久田様・・・」
捕まってしまった。この先輩は香山先生以上に距離感というものを弁えない勇者なので、多少なりとも抵抗する姿勢を示さなければぎゅうぎゅう抱きしめられてそのまま頬にチューをされてしまうのだ。美紗は正直少し幸せなのだが、ここは人間としてちゃんと嫌がっておかなければいけない。
「美紗ちゃんこんなところでなにしてるの?」
腕の中から出ようともがいたが全く効果がなかった。むしろ背中に当たるやわらかいものの感触が心地よく感じられて逆効果である。無駄な抵抗とはこのことを言うに違いない。
「実は・・・津久田様を探しておりまして」
「わお、どうしたのかにゃ?」
「うっ・・・」
耳元でしゃべられると美紗はゾクゾクしてしまう。
「お、音楽祭の招待券を・・・」
「おお! 弓奈お姉様の魔力で大量に当ててしまったと噂の!」
「ご、ご存知でしたか」
「うん! やったね! じゃあみんな揃ってクリスマスはお出かけしよう!」
「は、はいぃ」
一応この学園にもクリスマスのイベントはあり、生徒会は毎年その準備を手伝うことになっているのだが迷わずお出かけ宣言をできる彼女はやはり大物である。
すると、ここで本日何度目か分からない奇跡が起こる。美紗の視線の先、寮の脇に広がる湖畔にあの人の影があったのだ。
「あっ・・・」
雪という字を見るだけで顔が熱くなってしまうほど大好きな雪乃さんがアヒルの散歩に付き合って泉までやってきたのである。おまけにそのアヒルは少しずつこちらに向かって歩いてくるではないか。今こそ声をかける最大のチャンスに違いない。
しかし、強引なスキンシップを受けているときにやってきたチャンスは、おそらく本当のチャンスではない。宇宙船に乗っていて突然大きなUFOが背後からがつーんと衝突して離れなくなった時に、「キミタチ二、ワレワレノスバラシイギジュツヲアゲヨウ」などと言われても、とりあえず一旦離れてもらえますかと言わざるを得ないのと同じである。こんな状況で雪乃に声を掛けたら、純真無垢な彼女の心のどこかをよごしてしまうおそれがあるのだ。
今度も諦めかけた美紗の背後で、あの人が動いてくれた。
「雪乃ちゃーん! やっほー!」
「つ、津久田様!?」
あかりの声に気づいた雪乃は奇麗なお目目をこちらに向けた。雪乃にしてみればあかりという人物はちょっと危ないおねえさんなのだが、どういうわけかアヒルがペタペタとあかりに向かっていくので雪乃もそちらに歩まざるを得なくなった。
「雪乃ちゃん、この美紗おねえさんがね、雪乃ちゃんにプレゼントがあるんだって!」
「つ、津久田様、なにをおっしゃっているんですか!」
とんでもない展開だが、雪乃ちゃんの瞳や耳は美紗の心の準備を待ってはくれない。美紗は震える手で封筒を差し出した。
「ど・・・どうぞ」
「なぁに」
「お、音楽祭の招待券です。み、みなさんで・・・行きましょう」
雪乃は袖から白い指先を出して封筒を受け取った。難しい漢字だらけで読めないのだが、「音楽」という言葉だけは目にも耳にも印象深く刻まれた。その甘美なる魅力と目の前のほっぺの赤いおねえさんが雪乃の心の深いところでそっと結びついた。
「・・・ありがとう」
「えっ」
「ありがとう、ございます」
雪乃はそう言ってペコッとお辞儀をした。それと同時に彼女が背負っていたバニウオの顔が美紗の胸にキスをするようにぱふっと当たった。言うまでもなく美紗は幸せで体じゅうが熱くてじんじんした。もう倒れてしまいそうである。
「いたいっ! いたい! うわぁ!」
その間アヒルはずっとあかりをつっついていた。なぜかあかりはこのアヒルに嫌われており、ずっと前から目をつけられているのだ。
美紗は今日いろいろなことを学べた。特にチャンスの掴み方、真の機会の見分け方については同い年の少女たちの感覚とは一線を画した聡い洞察ができるようになったに違いないのだ。
「津久田様・・・」
「なにかな美紗ちゃん」
美紗は食堂であかりと一緒に晩ご飯のグラタンを食べながら、少し頬を染めてつぶやいた。
「もしよかったら・・・時々後ろから・・・私を抱きしめてください」
「え!?」




