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139、メロンパン

 

 紫乃ちゃんが紅茶を飲んでいる。

 彼女は小さな手でティーカップを包み、お月様が昇った11月の曇りガラスをぼんやり眺めていた。弓奈も甘い香りの立ち上るカップを持って彼女の隣りの椅子に腰を下ろした。

「一通り片付け終わったね」

「そうですね」

 紫乃は生徒会室にあまり私物を置いていなかったので整理は早かった。

「あかりさんで大丈夫ですかね」

「大丈夫だよ。あかりちゃんはなんだかんだでしっかりしてるし、美紗ちゃんだっているんだから」

 つい先程この学園に新しい生徒会長が生まれた。紫乃の跡を継いだのは津久田財閥のマイペースでハイテンションな妹系お嬢様、津久田あかりである。彼女は一見して誰かの上に立つタイプではないが、実は人を惹き付ける魅力と場の空気を支配する才能に恵まれており、様々なイベントで各方面に大人気だった。一年生の時から生徒会に参加し、紫乃たちと共に学校行事を支えてきたあかりは今や生徒会長にもっとも相応しい少女なのだ。

「あかりさんは後輩の美紗さんに頼りすぎです。美紗さんは優しすぎるんです」

「んーそうかもしれないけど、あかりちゃんもしっかりやってるよ」

「もっともっと頑張ってほしいところです」

 紫乃はふぅーふぅーしながら少しずつ紅茶を飲んでいる。

 今回の選挙で一年生の美紗ちゃんは正式に生徒会メンバーに加わった。これまでに既に美紗はあかり以上に生徒会の仕事を手伝っていたので名実共にメンバーとして学園中に認められたことになる。努力が報われた尊いケースのひとつだが、実は美紗は生徒会で働くことに憧れているというよりは単に雪乃のお近付きになりたいと願っているだけだったりする。よく彼女は、たまに雪乃が生徒会室に来た時に顔を真っ赤にして部屋を出たり入ったりしている。とても幸せそうだ。

「なんかさ」

「はい」

「結構あっという間だったね」

 気がつけば弓奈が初めてこの生徒会室に訪れてから二年半が経った。

「・・・そうですね」

 紫乃は暖房機のささやきの合間にそっとつぶやいた。紫乃もちょっぴり切ない気分である。

「高校三年生って、もっと大人だと思ってた」

 お買い得だったダージリンティーの香りの中で弓奈は少し笑った。

「小学一年生の時、六年生は雲の上の存在のように思えますが、今の私たちから見た小学六年生は守ってあげるべき存在です。時間の流れはそんなものです」

「そうかもね」

 弓奈は紫乃の素敵な横顔に見とれていた。ほっぺはふわふわすべすべで赤ちゃんみたいだが、目はクールでとても大人っぽい。

「紫乃ちゃんは学校の先生になりたいんだよね」

「はい」

「すごいなぁ・・・紫乃ちゃんにぴったりだね」

 紫乃ちゃんは学校の先生になりたいらしい。

 たしかに紫乃の母は学園長であり、幼い頃から母の背中を見てきた彼女は教師になる心構えを得る機会に恵まれた環境に育ったといえる。学校の先生になるのに向き不向きがどれくらいあるのかは分からないが、少なくとも紫乃は黒板を背に働くだけの努力ができる女であるはずだ。

「弓奈さんは・・・」

「ん?」

「弓奈さんは将来、なにになりたいんですか」

 あなたのお嫁さんであるが、そんな風に答えたら間違いなくアホだと思われるのでやめた。

「とりあえずフラワーアレンジメントをやりたいかな」

「花屋ですか」

「まあ、そんな感じ」

「弓奈さんらしいです」

「そ、そうかな」

「そうです」

 弓奈は気づいたのだが、今この瞬間は紫乃と二人きりである。近頃は学園祭や選挙のことで忙しくてバタバタしていたし、ようやく隙を見つけたかと思ったら紫乃ちゃんがすごい顔で参考書にかじりついていたりして声が掛けられなったのだ。本当はデートに誘わなければならないと思っていたのだが、このように学園にいながら恋を進展させるチャンスを得るとは弓奈はラッキーである。ロマンチックなシチュエーションとは言い難い場面だが、頑張ってみなくてはならない。それとなく恋心の存在を仄めかして紫乃ちゃんの出方をうかがうか、友達同士として最低限抱いているであろう好感を恋心へと変化させられるような高難度のアプローチに挑戦するか・・・いずれにしても絶妙なコミュニケーションを必要とする。弓奈は耳のあたりに上がってくる熱っぽさを振り払うように首をぶんぶん振って気合いを入れた。

「・・・あのね紫乃ちゃん」

 その時である。

「おねえさまぁー!! ただいま帰りましたぁ!!」

 恩をバッドタイミングで返せる女、津久田あかりちゃんの登場である。

「あ、あかりちゃん」

「記念館ホールの閉め作業全部やってきましたぁ!」

「そっかそっか、おつかさま。お茶淹れるね」

 やはり学園で二人きりのチャンスに期待するのは難しいらしい。しっかりデートに誘うべきなのである。

「あかりさん、美紗さんは一緒じゃないんですか」

 紫乃がクールにそう尋ねた。

「あれ? ホール出る時は一緒だったんですけど・・・どこかに置いて来ちゃったかな」

 あかりはパン売り場の前で美紗に「ちょっと待ってて」と言ったまま彼女のことを忘れてここへ来てしまったのである。なにも知らない美紗は今もメロンパンの香りの中で新生徒会長の帰還をマジメに待っているのだ。

「迎えに行ってきまぁす!!」

「い、行ってらっしゃーい」

 あかりが慌ただしく去っていった。これでは先が思いやられると言いたくなる状況だが、弓奈は彼女たちをたいへん良いコンビだと思っている。お調子者だがいざとなれば頼りになるあかりちゃんと、どこまでもマジメで優しい美紗ちゃんの二人で頑張って学園を支えていって欲しいところである。

 さて、弓奈と紫乃の二人きりに空間に戻った。しかしこれもいつまで続くか分からない。大切な恋を落ち着いて戦い抜くためには専用の舞台を自らの手で勝ち取る必要があるのだ。

 弓奈は紫乃の背後をうろうろしながらどうやって彼女をデートに誘うか悩んだ。毎晩のようにベッドの中で考え、繰り返し呟いて覚えたセリフも、ここへ来てみると急に全く使い物にならない気がしてしまって頭の中は白紙状態である。

「し、紫乃ちゃん」

「・・・はい」

 さっきから弓奈が自分の椅子の回りを歩くので紫乃は声を掛けてもらえるのを待っていた。

「あのね」

「はい」

「デー・・・」

「デ?」

「デコレーションケーキ、じゃなくて」

「・・・はい」

「デイジー、でもなくて」

「・・・は、はい」

「デルフィニウム! も違ってぇ」

 これはわるい流れだと弓奈は思った。数千人の瞳の中でお掃除屋の少女を演じた時よりも今のほうが何倍も緊張している。しかし、妙なことを言いまくる弓奈を紫乃は冷たく突き放すわけでもなくじっと耳を傾けて話を聴いてくれている。弓奈はこの幸運を逃すまいと、曇った窓でおぼろに揺れる月明かりを見ながらゆっくり深呼吸をした。落ち着くことが肝要である。

「今度二人だけで・・・どこか行けないかな」

「えっ」

 驚いた紫乃は細い肩をビクッとさせた。揺れた前髪、染めた頬・・・弓奈がもっと冷静な女であれば紫乃がドキドキしていることは簡単に察することができたはずである。

「ふ、二人でですか」

「う、うん!」

 あとに引き返せない弓奈ははっきりそう答えてみた。

「ど、どこへ行くんですか」

 弓奈は椅子を持ってきて紫乃のすぐ隣りで腰を下ろした。

「いつか話したと思うんだけど、学園の裏の丘の道をずっと辿っていってみたいの。青葉町っていう町があるんだよね、そのもっと先に行ってみたいの」

「そういえば・・・前に約束しましたね。自転車で行きたいって」

「あ、覚えててくれたの?」

「はい。覚えててあげました」

「あ、あのね、紫乃ちゃんのお勉強の邪魔はしないから! ほんとにすぐ帰ってくる感じで」

「・・・別に気にしないでいいです。弓奈さんのほうこそお勉強を頑張らなきゃダメです」

「分かった! がんばる」

「ちゃんと頑張ったら・・・今度の日曜日に一緒に行ってあげます」

「やったぁ!」

 紫乃には弓奈が何を思ってこんな素晴らしくウキウキわくわくする計画を今提案してくれたのかよく分からなかったが、三学期は外部の試験ばかりで授業がほぼ全くないし、まもなく卒業してしまう雰囲気の切なさが生んだちょっとした思い出づくりイベントのひとつであると理解した。

「ただいまでーす!! 美紗ちゃんを救出して津久田レンジャーレッドのあかりが帰って参りました!!」

 正義のヒーローが自ら置き去りにした無垢なる少女と再び合流し、したり顔で戻ってきた。

「つ、津久田グリーンの美紗、ただいま帰りました」

 少女は救出の見返りに入隊までさせられていた。今後の活躍が期待される。

「弓奈おねえさまと紫乃先輩に、今まで生徒会でのお仕事おつかれさまでしたっていう気持ちを込めて、ジャン! メロンパン買ってきましたー!」

 まだ左胸がドキドキいっている弓奈の鼻を甘くて香ばしい匂いがくすぐった。焼きたての美味しいパンの香りである。

「わーありがとう!」

 喜ぶ弓奈の隣りで紫乃もそわそわしている。紫乃は菓子パンが大好きだ。

「はい、おねえさま」

「ありがとう!」

「はい、紫乃先輩も食べてください」

「食べてあげます」

 紫乃は弓奈からじっと熱いまなざしを送られていることに気づかず、メロンパンの紙袋の顔を突っ込んでくんくんしたり、もちもちしたメロンパンの端っこを幸せそうにはむはむしたりした。弓奈はそんな彼女の様子を見て非常に心が軽くなった。デートの約束を嫌がって気分が落ち込んでいた場合には、いくら美味しいパンの力を以てしてもこのような表情は見せないはずだからだ。つまり、弓奈は上手い事紫乃を誘うことに成功したのである。

「いただきまーす」

 手元の温かいパンに改めてご挨拶して弓奈も一口かじりついた。生徒会での楽しかった思い出も、季節が過ぎていく切なさも、未来への希望も不安も、すべてこのメロンパンが甘く柔らかく縁取ってくれた気がした。たったひとつのパンであるが、今ここで仲間たちに囲まれてこのパンを美味しく食べるために今まで頑張ってきたとさえ思わせるほど、幸せな味がした。

 週末も上手い事いってくれるといいな・・・弓奈はそんな風に祈りながらもうひとくちメロンパンをかじったのだった。

 

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