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 これはまだ世界が平らだった頃のお話です。

 小さな国の小さな街に、小さなお城がありました。そのお城に住んでいたのは大勢の召使いと、一人の王子様です。王子様はとてもわがままでした。階段を一段飛ばしでのぼったり、窓を開けっ放しで寝たり、夕食のポテトを丸々残したりします。とてもわがままです。

 ある日、お城に街の人々の代表からお手紙が一通届きました。街の中央に馬車道を敷いてほしい、教会堂を建て直してほしい、シュークリーム屋を増やしてほしい・・・お手紙はお金をたくさん持っている王子様への切実な願いで溢れていました。

 しかし、王子様はもっと大きくてすごいお城を建てようと貯金中だったため、このお手紙は面白くありませんでした。王子様は部屋をうろうろしたあと、そのお手紙をじゅうたんの下に隠して、読まなかったことにしてしまいました。

 これに怒ったのは森に住むシュークリーム好きの魔女でした。魔女は水晶玉を覗き込んで王子様に強力な魔法をかけてしまいました。王子様の姿を全く別のものに変えて、あのお手紙と同じように、誰にも気づかれない場所に隠してしまったのです。

 そうしてとても長い時間が流れました。

 馬車に乗って遠い田舎町から一人の少女がこの街にやってきました。お掃除屋として、今はもう誰も住んでいない空っぽのお城の管理を任されたのです。若い娘が一人で掃除できるような大きさではありませんでしたが、お掃除屋のいじわるなお姉様方に押し付けられてしまったので仕方がありません。

 娘はお城に住み込みながら、毎日一生懸命にお掃除をしました。階段のほこりを落とし、窓ガラスを磨き上げ、キッチンもまた使えるくらいに奇麗に整えました。

 ある日少女は、可愛い積み木の散らかった豪華な子供部屋から古い日記を見つけました。どうやら昔の城主様のもののようで、黒こげになったパスタを適当に散りばめたようなステキな字が踊っています。いつの間にか、お仕事の合間にその日記を読むのが少女の楽しみになっていきました。

 娘は半年余りお城を掃除するあいだに、かつてここにどんな人間が住み、一体なにが起こったのかを全て知りました。そして少しずつ、日記の中の王子様に惹かれていったのです。とてもわがままだったため召使いたちからは嫌われていましたが、本当はとても心優しく、そして孤独でした。

 お城で暮らすネズミたちを驚かさないように巣穴を避けながら階段をのぼったり、毎朝やってくるハトたちが迷わないように窓を開けたまま寝たり、夕食で大好きなポテトをわざと残してお城の裏門にやってくるノラ犬に分けてあげたりする毎日の中で、彼に動物以外のお友達が出来なかったことは気高い一族の王子という立場が作ってしまった悲劇でした。

 お腹を空かせる動物たちと一緒に暮らせるような大きいお城を建てたいがために、王子様がたった一度おかしてしまった過ちが、彼をもっともっと深い孤独の中に閉じ込めることになってしまったのです。

 少女は、魔女によって姿を変えられ、どこかに隠されてしまった王子様を見つけてあげたくて毎日毎日広いお城の中を歩き回りました。郵便受けの底に入っていた魔女からの手紙には、誰かに見つけてもらえば罰が終わると書かれてあったからです。

 果たして少女は王子様を見つけてあげることができるのでしょうか・・・。



 順調に進む三年生の演劇は大変な盛り上がりである。

 時計塔ホールはちょっとしたオペラ劇場くらいのサイズがあるため三階席まで開けた今回の演劇は全校生徒を収めちゃうくらいの余裕はあったはずなのに、観客が入り口の外まで溢れてしまっている状況である。

「私は・・・私はもう足が棒だわ。こんな悲しい気持ちははじめてよ」

 お分かり頂ける通り、脚本の中盤以降はすべてお掃除屋の少女役である弓奈の独り語りだ。実は小型のマイクを仕込んで使用しているので腹式の発声が苦手な弓奈は少々助かっているのだが、セリフを全て覚えて自分なりの精一杯の演技をそこに放り込むことは容易ではなかった。しかし大好きな紫乃ちゃんの顔を立てるため、ひいては好かれるために彼女は毎晩全力で練習したのだった。

「キャー! おねえさまー! ステキですぅ!」

「つ、津久田様・・・! お静かに!」

 あかりは美紗と一緒に最前列でステージを見ていた。あかりはなぜか不思議な影響力があるため彼女が声をあげる度にそれに合わせてあちこちから弓奈コールが起こった。けれど弓奈は彼女たちの声援に照れる瞬間がないくらい役に入り込んでいた。弓奈は大好きな人のためならとてつもない集中力を発揮する女である。

 で、その大好きな人であるが、彼女は舞台袖でひたすら悩んでいた。

「鈴原・・・最後どうするの?」

 舞は監督である紫乃の最終判断を待っているが、間もなく王子様の出番、そして劇のラストシーンである。早いところ決めてもらわないと心の準備もできない。

「王子はあの子にキスすればいいの? それともご機嫌な笑顔を見せて終わりなわけ?」

 この前の一件があってから紫乃と舞はまともに口を利いていない。

「・・・考え中です」

「はぁ・・・」

 少女と王子様がキスするシーンを入れれば劇が素晴らしいものになるというのはほとんどの三年生が考えていることであり、紫乃がこれに反対する理由が舞には分からないのである。

「じゃあ分かった」

 カッコイイ王子様の格好の舞はわざと紫乃の前に立って言った。

「もううちはステージ上がるけど、キスするなら右手上げて。キスしないなら左手。オッケー?」

 紫乃は舞からそっと目を反らした。

「うちの立ち位置からはここ見えるからさ。どっちか上げてね。それじゃあ」

 舞はそう言い残して舞台カーテンの陰へ駆けていった。

 なんてしっかりした人なんだろうと紫乃は思った。それに比べて自分は優柔不断で、おまけに自分の幸せしか考えていないようで紫乃はとても悲しくなった。

「気づいてもらえない苦しみと、気づいてあげられない哀しみ・・・このお城にあるのは・・・王子様、あなたの人生そのものだわ!」

 紫乃が見つめるスポットライトの中の弓奈が涙でにじんでいく。気づかれてはならない哀しい恋が今、大きな運命の渦に吸い込まれていく気がした。



「そうだわ! あなたは、このお城そのものに変えられてしまったんだわ! あなたの望んでいた、この大きなお城に」

 弓奈のセリフに合わせて、舞台背景を描いた大きな布が一気に落とされた。姿を現したのはこじんまりした小さなお城のささやかな暖炉部屋である。

「ありがとう・・・」

 王子様の舞が現れた。舞のあまりのかっこよさに客席はキャーキャーいっている。

「君のお陰で私は救われた」

「もっと小さい子だと思っていたわ」

「魔法を掛けられた当時は小さかったさ。けれど100年も経てばさすがに背も伸びるよ」

「それもそうね」

「君が毎日掃いてくれたのは・・・私の哀しい孤独。磨いてくれたのは・・・私の心だ!」

「王子様・・・」

 非常に順調である。ここで舞はこっそり横目で紫乃の指示を確認した。


 なんと、紫乃が泣いていた。


 思わず舞は色んなセリフと役柄を忘れ、脳内会議に入った。

 なぜまた紫乃は泣いているのか。そもそも彼女の長い学園生活の中で人に涙を見せることなどあっただろうか。おそらく5日前のあの瞬間と、そして今だけである。ということは彼女にとって今回のラストシーンに於ける悩みが他の事務とは一線を画したとんでもないものだということになる。舞と弓奈が舞台上でキスをする演技を生徒たちに見せることが、例えば学園の風紀を一気に情熱的なものにしてしまい、えっちすぎるので絶対にダメだなどと嘆き悲しんでいる可能性もある。しかしそんなことを言ったら舞が休み時間によくやっている伝説の悪徳ファッション『リボン無し』をまず嘆き、憤慨すべきではないのか。

「あ・・・」

 いや違う。一回目の涙は劇のラストシーン問題とは直接関係のないタイミングだったではないか。あれは自分が弓奈に告白したいから手伝ってくれないかと訊いたのが引き金となった涙だった。ではなぜ自分が弓奈に恋心を告げることを悲しむのか。まさか紫乃は自分が好きなのだろうか。いやそれはないだろう。告白したいんだけどと言った時はまだいつも通りの紫乃だった。弓奈の名前を出した瞬間から彼女の様子が変わったのである。ということは・・・。

「あ!!!」

 舞は時間が止まったかのような感覚を覚えた。さっきから舞台上でセリフも言わずに妙な声ばかりを上げている舞は、ようやくひとつの結論に辿り着いたのだ。

(まさかあいつ・・・! 倉木のことが好きなのか・・・!)

 全ての疑問がこれで説明できる。おそらくこの学園で誰一人として気がついていないとんでもない秘密を舞は知ってしまったのだ。

 紫乃が弓奈に恋をしているのなら、紫乃はとてつもなく苦しんでいるはずである。何しろ紫乃は学園でもっともクールで恋なんか興味も持ってないと思われているお固い少女であり、それゆえに弓奈から信頼され今日まで彼女の親友として暮らしてきたのである。それが全て熱い恋心を隠してのものであったとしたら・・・本当はクールな少女なんかじゃなく恋に悩む繊細な乙女だったとしたら・・・その努力や苦しみはとても口では言い表せないレベルである。舞は想像しただけで胸がズキズキと痛んだ。

(鈴原・・・)

 自分はなんてひどいことをしてしまったんだろうかと舞は思った。知らなかったとはいえ、紫乃に非常に残酷なお願いをしてしまっていたのだ。

 どちらの恋心のほうが強いか、そんなことを論じるのはナンセンスである。恋愛にルールはないと言われる通り、愛し合う二人が幸せなら全て真実になる世界なのだ。しかしどうだろう、仮に舞と弓奈がくっついたとして、紫乃は一体どれくらいの涙を流すだろうか。紫乃の涙を見ても弓奈は幸せになれるだろうか。そしてもし紫乃と弓奈がラブラブになった時、舞は果たして涙を流すだろうか。今日のとてつもない発見をした今の舞なら、喜ぶことはあっても悲しみの涙を流すことはもはや絶対にないだろう。

(・・・これが、失恋かぁ)

 恋のライバルに降参する・・・おそらくこれは失恋の一つの形と言えるが、驚く程にすっきりした失恋であった。舞は簡単に好きな人を諦めたりするような軽い気持ちで生きている女ではないのだが、紫乃のためになら自分の大切な信念の一部を譲っても惜しくないとさえ思えてしまったのだ。紫乃は世界で一番健気で優しく、可愛い乙女だ・・・舞にはそんな風に思えたのだった。

 舞の長い沈黙に会場もちょっぴりざわついている。早いところラストシーンをやってしまわなければならない。改めて舞が紫乃に目をやると、彼女は大粒の涙を流しながらこっそり右手を上げていた。多くの人が望んでいる通りキスシーンをしろという合図である。おそらく紫乃の人生の中でもっとも重たかった右手に違いない。

 舞は目頭がきゅうっと熱くなるのを、大きな声で誤摩化した。

「ち、近寄らないでくれ!」

「なぜ?」

 急なアドリブに弓奈も対応した。弓奈はキスシーンの演技があろうがなかろうが紫乃のことが好きなのであまりこのラストにこだわっておらず、紫乃の判断と舞の演技に任せているのでうまいこと合わせてしゃべることにしていたのだ。

「君は・・・全身ほこりだらけじゃないか」

「ご、ごめんなさい。たしかにそうよ」

「このままでは君を抱きしめられない・・・!」

 舞は無い知恵を懸命にしぼりながらセリフを考えた。

「私もこの城を掃除して・・・同じようにほこりだらけにならなければ!」

 舞は紫乃の合図を無視した。キスをしなかったのだ。

 なんとなく海外のお話に出て来そうな気の利いたセリフと二人の素晴らしい笑顔で舞台はめでたくハッピーエンド、会場は舞台の幕が下り始めた瞬間から割れるような拍手の音でいっぱいになった。

「キャー!!! おねえさまぁああ!!!」

 特にあかりちゃんの声が凄い。

 幕が下りきるのを我慢出来ず、舞は紫乃に駆け寄った。

「鈴原ぁ!」

「え!」

 王子様姿の舞は紫乃をがばっと思い切り抱きしめた。

「鈴原ごめーん!! まじでごめーん!!」

「な、なんですか」

 紫乃は驚きのあまり涙は引っ込んだが、涙の跡を拭く余裕はなかった。

「ごめんごめんごめんごめーん!」

 舞は笑いながら、けれどちょっぴり泣きそうな声でそう騒ぎ続けた。紫乃は何の事かよく分からず困惑した。

「安斎さん・・・」

「なに?」

「キス・・・どうしてしなかったんですか?」

 舞は紫乃をぎゅうぎゅう抱きしめる腕を止めて彼女の顔を見つめて笑った。

「やばい! 間違えた! おまえ右手って言ったら、普通向かって右手のことだろう。そっちはうちから見て左だったから、うわー! ミスったぁ!」

 舞はそう言うながらどさくさに紛れて衣装の袖で紫乃の頬を拭いてくれた。そして鳴り止まぬ拍手の音に紛れて紫乃にそっとささやいた。

「うちさ、あきらめたから」

「え?」

「さっき倉木にフラれたわ。舞台の上で。結婚して一緒に土星の環の上を走り回って暮らそうぜって小声で言ったらハァ? って言われたわ」

 訳の分からない冗談を言ってから舞はもう一度紫乃を抱きしめた。今度はさっきよりずっと優しく、温かいハグだった。

「紫乃ちゃーん!」

 ここでやって来たのが学園じゅうの恋の熱量のど真ん中に生きる少女、弓奈である。

「うまくいったねぇ! やったぁ!」

 弓奈に手を握られて、舞に頭を撫でられて、紫乃は胸がいっぱいになった。まだ頭の整理がつかないが、どうやら良いことが起こったらしい。わがままで、いじわるで、そして素直になれない自分を、この学園のどこかにいる幸運の女神様が見捨てないでくれたことがたまらなく嬉しかった。あふれる涙を弓奈に見せたくなくて紫乃は台本を仮面のようにして彼女としゃべらざるを得なくなった。非常に怪しい。

 この時紫乃はまだ状況がほとんど飲み込めていなかったが、舞への感謝の気持ちは不思議なことに涙と一緒にどんどんどんどんあふれてきたのだった。

「舞」

「んあ?」

 楽屋代わりの準備室で紫乃と弓奈の様子を少し離れた場所から優しく見つめていた舞の元にいつもの友達がやってきた。

「かっこよかったじゃん」

 そう言って友達は舞の太もものあたりを膝でそっとつっついた。ついさっき大勢の観客の前で一生の思い出に残るような静かなる失恋を経験をしてきた舞は、いつもの友達の顔を見てなんだかほっとしてしまった。

 舞の友達は舞が失恋したことにまだ気づいていないのだが、とにかく伝えたかったのだ。なんの嫌味も下心もない「かっこよかったじゃん」のひと言を。

「うん。そりゃあ、そうでしょ」

 舞が尖った白い歯を覗かせながら笑うと、友達もちょっぴり頬を染めて笑った。

「おばか♪」

 

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