137、自販機
はぐれ雲が柿の実色に染まって西の空を泳いでいる。
紫乃に言われた通り先に寮へ戻ってきた弓奈は、まず靴箱の前やエントランスに人が集まっていないかどうかを確認した。運がわるい日はここに弓奈目当ての人だかりが出来ているので、ボディーガードの紫乃ちゃんがいない今日は特に警戒する必要があるのだ。幸い靴箱の周辺には放課後の穏やかな静けさが広がっているばかりだった。
誰もいないのであればこの辺りで紫乃を待とうと思った弓奈が上靴に履き替えてエントランス内のベンチに足を向けると、そこに女の子を一人発見した。彼女はベンチの隅に腰掛けて足を組みながら少し暗い顔で手帳をぼんやり眺めている。
先客がいるなら自分は大人しく部屋に戻っていようかなと弓奈は思ったが、偶然女の子が顔をあげたため目が合ってしまった。弓奈は彼女に見覚えがある。体育祭などでよく顔を合わせた舞のお友達だ。
「・・・どうも」
向こうから挨拶をしてくれた。これでは前を素通りというわけにもいかない。
「こ、こんにちは」
ちょっと緊張してしまうが、弓奈もベンチに腰掛けてここで紫乃ちゃんを待たせて貰うことにした。
「倉木さんも誰か待ってるんですか?」
「あ、はい。生徒会長の紫乃ちゃんを」
「鈴原さんですか」
「はい」
弓奈は舞の友達の情報を名前をはじめほとんど知らない。
「あの・・・」
「私は舞を待ってます」
「あ、なるほど」
「よくわかんないですけど先に帰ってろーって、言ってました」
名前を訊こうと思ったのだがタイミングを逃してしまった。今更尋ねるのもなんか変かななどと弓奈が考えているうちに、舞の友達が小さなため息をついた。
「はぁ・・・」
「どうかしたんですか?」
「いやぁ・・・なんだか私、片想い中なんです・・・」
「え」
彼女は恋をしているらしい。これはなかなか珍しいシチュエーションである。弓奈は同級生があからさまに恋に悩んでいる場面に遭遇したことがあまりない。彼女の恋は弓奈に対して向けられているものでもなさそうなので、弓奈は応援したい気持ちでいっぱいになった。
「ため息つきたくなる感じ、なんとなく私も分かりますよ」
「え?」
舞の友達は顔をあげた。モテまくっている学園のアイドル倉木弓奈さんにも、そのようなため息モーメントがあるのかと驚いたのである。
「あ、いや、恋の悩みっていう訳じゃないんですけど、でも、すごく遠い夢みたいなものを追いかけてて、急に切なくなる感じは・・・よく分かるんです」
恋の悩みだと打ち明ける勇気がなかった弓奈はこんな風に誤摩化したが、舞の友達は弓奈の言葉をありがたく受け取った。
「ありがとうございます。倉木さん」
彼女はちょっぴり微笑んだのだ。
なんとかいい雰囲気にこぎ着けて心に余裕を得た弓奈は、ベンチの脇に据えられた自販機の存在に気がついた。少し体が冷えているので温かいものでも飲んで一服したいところである。弓奈は財布の中を覗いてから自販機に向かった。
「コーンスープとココア、どっちがいいですか」
「え?」
「もしくは、ミルクティー?」
きれいなお目々の弓奈にそう尋ねられて舞の友達は困惑したり照れたりで妙な笑顔になった。
「え、じゃあ、ココアで」
「ホットココアをおひとつ♪」
学園の自販機はなぜか少し安いのでご馳走しやすいのだ。
「お待たせいたしました、ホットココアでございます♪」
「い、いいんですか」
「はい」
「あ、ありがとうございます」
舞の友達はびびっていた。普段は立てば芍薬座れば牡丹な慎ましさの化身みたいな学園の女神様倉木弓奈が、影の薄い自分のような女にジュースをおごってくれたのだから仕方ない。おまけにかなりお茶目である。
弓奈のほうは、他人事とは思えない悩みを抱えている彼女を元気づけてあげたいと思っているだけで、別段ふつうの彼女と変わりない。弓奈は基本お茶目なのである。
「よいしょ」
弓奈はベンチに座ってコーンスープの缶を開けた。二度寝した時の夢のようなぼんやり温かい香りが心をそっと解きほぐしてくれる。
「い、頂きます」
舞の友達も缶を開けた。昇降口のピカピカの床に映る透き通るような晩秋の夕焼けを眺めながら飲む温かいジュースは、いつもの何倍も美味しく感じられた。弓奈はもっと彼女の笑顔を見たくて、なにか面白い話ができないものかと手の中の缶をじろじろ眺めながら考えた。
「ここ」
「・・・はい?」
「ここ、なんて言うんでしたっけ。缶を開ける時に指で手前に引いてまた戻す部分」
「あ、えーと、プルトップ?」
「プルトップでしたっけ」
「たぶん」
「ここを、180度くるっと回してフタに出来るようになればいいと思いません?」
「ふ、ふたですか?」
「缶って一回開けちゃうとその場で飲まなきゃいけないじゃないですか。でもほら、こうやった時にピッタリ飲み口を塞いでくれる形にすれば」
「あー」
「便利ですよね!」
少々間があって、舞の友達は吹き出した。「それはそうかもしれないけど、なぜ今そんなことを話したの」とツッコミたくなるようなあまりにシュールなお話を弓奈がしてくれたのが可笑しかったのである。
「あと、ここの自販機にはないんですけど、食堂の手前にやつにはパックのジュースが置いてあるじゃないですか」
「あ、はい」
「あの妙に安いやつ」
「はい」
すでに舞の友達は笑ってしまった。
「私ああいうパックのジュースって、畳む時は上の部分の耳だけ両方開いて、底の部分はそのまま折り曲げる感じでぺったんこにしてるんです」
「はい」
「でもあれ、気づきました? 上の部分を広げてこうやって平らにすると、いつもは隠れてる部分が見えるようになるんですけど、そこにメッセージが書いてあるんですよ」
「ああはい! あります」
「ありますよね!」
「たたんで下さってありがとうございます、みたいな」
「そうそれ! 実は私あれが苦手なんです」
あれが苦手とは一体どういうことなのかさっぱり分からなくて舞の友達はまた吹き出してしまった。
「なんかあの・・・やあよくここまで辿り着いたね、褒めてあげます♪ みたいな、自分の人生を先回りされてる感じがあって」
「じ、人生を先回りですか」
「うん。それに私は別に地球環境とかジュース会社さんのためを思ってパックをぺったんこにした訳じゃなくて、最後の一滴までストローで飲みたいから平らにした訳だから、お礼を言われるのもなんか変ですし」
「そ、そうですか?」
「うん。別に君のためにたたんであげたわけじゃないもーんって、意地を張りたくなります」
いつの間にか二人はお腹の底からわき上がるような不思議な可笑しさにけらけら笑っていた。弓奈はもちろん普段そんなひねくれたことは全く考えておらず、美味しくハッピーにパックのジュースを頂いているが、一度妙な方向にしゃべり出すとあとに引けなくなってオチがつくまでそのキャラクターを演じるくせがあったりする。冗談だと分かってもらえる一対一のコミュニケーションに限定されるが、弓奈は割と演技派な乙女なのである。まあ将来に活きる演技力と活きない演技力の二種類があったとするならば、弓奈が持っているのは間違いなく活きない方である。
笑い過ぎて熱くなった頬を冷ますように二人は少し黙っていたが、舞の友達は思い出し笑いで何度も吹き出していた。
「なんか、嬉しいです」
しばらくして舞の友達はそうつぶやいた。
「ん、なにが?」
「なんかね、嬉しいです・・・私」
舞の友達の幸福感の出どころは舞への恋心にある。
実は彼女は舞が弓奈に恋をしているらしいことにもうとっくに気づいている。しかも今日舞がそのことで紫乃に相談をしているらしいことすらもなんとなく把握しているのだ。本日ブルーだったのは、恋の相談なら一番の友達である自分にしてくれればいいのにという哀しみと、あまりに強敵すぎる恋のライバル弓奈の存在への憂鬱からだった。
ところがこのように偶然弓奈と話す機会を得て、まるで霧が晴れるように色々なもやもやが夕焼けに溶けて消えていったような気がするのだ。
超人的モテを備えている美少女倉木弓奈さんは、多少なりとも尊大で自分勝手なお嬢様に育って何の不思議もなく、自衛の観点から言えばむしろそれが自然かもしれない。なのに今日のこのひと時に漂う幸福な空気は一体どういうことだろうか。思いやりの行き先に自分自身のブランドや利害を一切考慮しない姿勢は誰でもとれるものではない。おそらく誰かを励ましたり応援したりする気持ちは見返りの存在によって成り立つ買い物ではなく、贈り物であるに違いない。そんなことを感じさせてくれる弓奈の振る舞いに、舞の友達はなんとなく頬を熱くした。
「倉木さん」
「はい?」
「握手してもらっていいですか?」
「え」
弓奈は少し驚いたが握手などもちろん構わないので右手をそっと差し出した。舞の友達は腰を上げて弓奈の正面に立ってからゆっくり手を握った。お互いの手がぽかぽかと温かかったのは、おそらく缶のせいだけではないだろう。
「倉木さんが、こういう人で良かったです」
「こ、こういう人って?」
舞の友達は照れながら微笑んだ。
「こういう人です」
恋のライバルにも色々な種類があるということを舞の友達は学んだ。恋敵や三角関係と聞くとどうしても胸がちくちくするようなドロドロしたものを想像しがちだが、現実は必ずしもそんなものばかりではないのである。
彼女は舞のことが本当に大好きである。ずっと募らせているその想いが何一つ実を結ばずに散ってしまった場合、それは大きな悲しみでありとてつもなく落ち込むに違いない。しかしもし、自分の大好きな舞の心を奪っていくフィアンセがこの倉木弓奈さんだったとしたら、彼女の青春は必ずしも悲劇ではない気がしたのだ。負けたとしても自分が否定されることはないような、そんな清々しい気持ちを抱いたのである。
「でも私、ぜったい負けませんよ♪」
「え?」
彼女が何の事を言っているのか弓奈にはサッパリ分からなかったが、とにかく恋に悩んで暗い顔をしていた彼女を励ますことができたようでなによりである。
舞の友達はココアのお礼を丁寧に述べて寮の部屋に帰っていった。これくらい待っても来ない場合舞は直接食堂へ出掛けている可能性があるらしいのだ。弓奈もその後しばらく昇降口で待っていたが結局紫乃に会う事はできなかった。
「よし・・・」
紫乃ちゃんが忙しいのなら自分も劇のセリフの練習などを頑張るべきであると考えた弓奈は午後の残照に向かって気合いを入れ直して立ち上がった。握りしめているコーンスープの缶はもう空っぽだが、ずっとやさしく手の中に置いていたせいでまだぽかぽかである。




