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136、金木犀

 

 舞はうっとりしていた。

「ここは書斎なのかしら。でも本なんてほとんど見当たらないわ。えーと・・・昔の城主様は読書があまりお好きじゃなかったみたいね」

 学園祭をおよそ5日後に控え、時計塔ホールでの本番同様の稽古が行われていた。大変注目度の高いイベントなので一二年生の覗き見が多く、関係者以外立ち入り禁止のバリケード作りにかなりの時間を要したせいで練習できる時間は実質30分くらいである。

 舞はステージ袖の暗がりから、小さなスポットライトの中できらめくジャージ姿の弓奈をぼんやり眺めていた。彼女の横顔も、揺れる髪も、しなやかな指先も、全てが魔法じみた引力で舞の意識をどこか遠い恋の世界に誘ってくる。抗い難い恋の魔力はまるで砂時計の中で光る金色の砂のように小さなトキメキの瞬間を積み重ねて、瞳の中の弓奈をどんどん輝かせていく。

「舞、しばらく出番ないんだからこっち入れば?」

「んあ」

 いつもの友達に呼ばれて舞は我に返った。そう、今日はあまり弓奈に見とれてばかりはいられない大切な日なのである。本日舞は生徒会長鈴原紫乃に恋の相談をしてみようと思っているのだ。そこそこ大事な話があるから練習後にホールに残って欲しい、舞はそんな風に紫乃に伝えてみたのだが、果たして彼女は舞のためにこっそり残ってくれるのだろうか。



 練習を無事終え、片付けを済ませた者から帰る流れ解散になった。普段の舞ならさっさと寮に帰って売店のリリーマシュマロをつまみながら友達と音楽番組の話などに花を咲かせまくっているところである。とりあえず舞は適当なことを言ってその友達を寮に帰すことにした。

「うちちょっとこのホールにどれくらいの木材が使われてるか調査してみるから、先帰ってて」

「え・・・なにそれ」

「体育の宿題」

「そんなの無いから・・・。よくわかんないけど、私は先に戻ってればいいのね」

「うん、ばいばーい♪」

 友達がちょっと淋しそうな背中を見せながらシューズバッグを抱えて去っていくと、丁度いいタイミングで紫乃がやってきた。

「来ました」

「お、鈴原」

 振り返ると確かにそこには紫乃がいたが、なんと彼女の隣りには弓奈が立っていた。

「ちょ、ちょっと鈴原・・・!」

「わ、なんですか!」

 舞は紫乃の温かい首をぎゅっと押さえ込んで耳打ちした。

「・・・なんでこいつも一緒にいるんだよ」

「え、私一人に用事なんですか?」

「・・・そうだよ」

 弓奈はなんとなく自分が邪魔らしいという空気を感じとった。たしかに有能の紫乃ちゃんだけに任せたほうが上手くいく作業もあるに違いない。

「えーと、私は先に寮に戻ってていいのかな?」

「すみません弓奈さん・・・そうして下さい」

「分かった。寮で待ってるね」

「はい。すぐに行きます」

 弓奈は二度ほど紫乃を振り返りながらも笑顔で時計塔ホールを去っていった。

「それで、一体なんの用事ですか。くだらなかったら怒ります」

「まだ人いるなぁ。もうちょっとあっち行こう。あっち」

 舞は紫乃の小さな背中をぽんぽん押してステージ脇の準備室に入った。準備室はちょっとほこりっぽい午後の日差しがやさしく小窓から降りてくるぼんやりした空間である。舞は手近なパイプ椅子をガバッと広げて紫乃の背後にセットした。

「・・・なんなんですか?」

「まあ座って」

 紫乃は少し頬を膨らませながら椅子の表面をハンカチでパフパフはたいて腰を下ろした。

「で?」

「そんなに怒んないでよ。あのさ、結構大事な話だから誰にも言わないで欲しいんだけど、いい?」

「内容によります。妙な話だったら学園中に触れて回ります」

 舞は紫乃の正面に椅子を持ってきて座り、黙ったまま彼女の顔をじろじろ見つめて、ホールの出口付近に残っていた最後の人の気配が消えるのを待った。時々舌をペロッと出してみたのだが、あまりふざけていると紫乃が帰ってしまいそうなのでやめた。

 やがて時計塔ホールは物音ひとつしない内緒話にぴったりの空間になった。

「タントーチョクニューに言うけど」

「はい」

「うちさ、告白しようと思ってんの」

「・・・告白?」

「うん」

「・・・懺悔の一種ですか? 何かわるい事をしたのならさっさと職員室に行って下さい」

「いや、そういう意味の告白じゃなくてさ。好きな人に、好きって伝えたいの」

 紫乃は不機嫌そうな顔で首をかしげた。そりゃ舞のような乾ききった毎日を送っているイメージがある少女の口から突然ラブリーなお話がこぼれたら誰でも怪しがるだろう。そんな紫乃に舞は身を乗り出して語り出した

「分かる分かる。何言い出したんだこの女みたいな、その冷めた感じはよぉーく分かるんだけどさ」

「分かって頂けて光栄です」

「うちこれでもさ・・・二年半真剣に悩んだの。聴いてくれる?」

 ちょっと真面目な声色に紫乃はドキッとした。舞の瞳の中に彼女らしからぬ誠実な輝きを見てしまった紫乃はやむを得ずちゃんと話を聴いてあげることにした。

「まあ、いいですけど」

「お、マジで」

「はい。聴いてあげます」

 紫乃は自分の髪をサッと撫でて格好をつけた。

「うちが好きな人・・・鈴原は分かる?」

 舞の交友関係など全く知らない紫乃はお手上げである。だがすぐに返事をすると何も考えてないと思われそうなので適当な間をあけてから紫乃は口を開いた。

「分からないです」

「実はさ・・・倉木なんだ」

「えっ・・・」

 紫乃は妙な声を出してしまった。

 それは遠い異国の物語に突然親戚の名前が出てきたような驚きだった。何気ない日常の小さなスナップに収まるはずだったこの放課後のひと時が、一気に紫乃の人生を揺さぶりうる大きなライオンに早変わりである。

「やっぱ・・・驚くかぁ。倉木に告白するやつなんて、ラブレターも入れれば毎日のようにいるわけだし・・・失敗するって分かってて挑むうちって、やっぱバカかな」

「え・・・あ・・・」

「鈴原に・・・ちょっと協力して欲しいんだ。それとなくさ、うちのことを・・・なんていうか、イイ感じに話しておいてくれないかな。うち、あんまり倉木にいい印象与えた記憶ないからさ。あいつと一番仲がいい鈴原が少しでもうちのことを・・・いい奴だとかそんな感じに話してくれたらかなり助かるっていうか」

 紫乃は何も言えずに、そっとうつむいた。顔がじんじんと熱くなんていく。

「嘘は言わなくていいの。うちのことバカだと思ってるんならそう言っててくれて何の問題もないの。けどさ、うち一年のときからあいつが好きで好きで、大好きで・・・その気持ちは本当だからさ。・・・ホントだよ。鈴原なら分かってくれるかなと思ってさ」

 紫乃は困ってしまった。それでなくても学園祭の劇で、愛する弓奈さんとこの安斎舞が運命的に接近していて、キスシーンの件でも悩みまくっているこの状況に、告白のサポーターとしての依頼まで舞から来てしまった。自分が恋の嵐の中でもじもじしている間にスポーティーなライバルが色んなものを味方に付けて着実に内面を鍛え、ついでに環境をも整えていたのである。なんだか自分の毎日が急に下り坂になって行くような、ちょっと怖いくらいの焦りを紫乃は胸に感じた。

「それからさ、あいつの好み教えて欲しいんだ。うちがちょっと、がさつ過ぎるとかそういうのは性格だし変えられないから諦めて・・・えへ。ほら、趣味とかさ。あいつ花が好きなんでしょ。うち結構勉強したよ。この時計塔の周りに咲いているめっちゃいい匂いがする花、キンモクセイって言うんでしょ。あれやばいよね、この時期はたまに部室棟のほうまで甘い匂いが・・・」

 と、ここまで言いかけて舞は思わず言葉を失った。前髪に隠れた紫乃の瞳から、涙の雫がポタリとスカートに落ちたのだ。

「え・・・鈴原? どうしたの?」

 紫乃は怖くて、辛くて、涙が止まらなくなってしまった。自分の運命を決める最終列車がまもなく発車してしまうような、そんな気がして胸が苦しかったのだ。今こんなに苦しい思いをさせている直接の原因である舞を恨めたらどんなに楽だろうかと紫乃は思ったが、こうして話を聴いている限り舞がわるい人間だとは思えず、それが余計に辛かった。

 舞はかっこいい。見方によってはとてもかわいい。体育祭を毎年見てきた少女たちは今年の体育祭で、弓奈と舞の間に特別な友情や信頼感のようなものを感じたに違いなく、もしかしたらそれはお似合いと呼ぶに相応しい説得力を持ったものだったかもしれない。そして極めつけは今度の舞台でのヒロインと王子様役への抜擢・・・弓奈の気持ち次第だが、一体誰がこの二人が結ばれないだなんて言い切れるだろうか。一番近くで弓奈に接してきた紫乃だって言い切ることはできない。

 紫乃は涙でにじんでいく準備室の床をじっとにらみながら、あふれ出しそうな悲しみをぐっと堪えてつつ声をしぼりだした。

「・・・・・・むりです」

「え?」

 隠しきれない熱い涙が次々と制服に落ちていった。

「・・・協力・・・できません」

 クールなキャラクターを貫くにはあまりに意味不明な言動に違いなく、おまけに泣き声混じりの吐息まで漏らしてしまった紫乃は、収拾のつかない混乱から逃げ出してしまいたくなった。

「す、鈴原?」

「・・・私には・・・むりです」

 捨て台詞を残して紫乃は準備室を飛び出した。

「鈴原っ!」

 足に引っ掛けた椅子が倒れた気がしたが、構わずに紫乃は走った。パイプオルガンの脇を抜け、空っぽの客席を過ぎながら、子犬のような声でクーンと泣いた。夕日が差したホールの床が涙のせいでいつもより余計にきらきら輝いて見えた。



「なんだよ・・・あいつ」

 舞はちょっと怒りながら、それでも紫乃を心配した。

 忘れられるくらいなら嫌われ者でもいいから好きな人の思い出に残りたい、そんなさみしい乙女心からひと回りもふた回りも大人になった舞は、持ち前の能天気な爽やかさを生かし当たって砕けろな心境に到達した。しかし当たって砕けろとはいえど、自分のハートの全てを掛けた勝負には変わりない。紫乃に相談を持ちかけることは、かなりの勇気を要した大きな決断だったのである。なのにその信頼していた紫乃から、きちんと自分の姿勢について誠意をもって説明した後にも関わらず協力できませんと言われてしまったら、多少なりとも彼女に幻滅するだろう。

 しかし、先程の紫乃の様子は普通ではなかった。自分が気づかないうちに何か大きな失礼を彼女に働いてしまったのではないかと舞は不安になった。謝りに行きたいが、それもなにか間違いであるような、不思議な哀しみに胸がちくちくと痛んだ。

「あーあ・・・」

 舞は立て直したパイプ椅子に突っ伏してぐったりした。



 時計塔を飛び出した紫乃を出迎えたのはちょっぴり冷たい北風と、いつもよりずっと強く甘く感じられるキンモクセイの香りだった。

 

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