表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
133/151

133、忘れ物

 

 カバンが妙に軽かった。

 しかし弓奈はこのことに違和感を覚えるより早く大好きな紫乃ちゃんに寮の廊下で出会ってしまったため、事態はちょっと深刻化したのだ。

「あれ・・・」

 朝のホームルームが終わってカバンを覗いた弓奈はようやく問題に気がついた。一時間目の現代文の分厚い教科書を寮の部屋に忘れて来てしまったのだ。

 弓奈は紫乃に好かれるためにこれまで様々な場面で優等生っぽい振る舞いをしてきた。クラスの仕事は億劫なものでも率先して引き受けたし、放課後時間のあるあかりちゃん頼りなところもあるがどんなに忙しい日も生徒会の作業に手を抜いたことはない。これらの頑張りが紫乃のハートになんらかの効果をもたらすかどうかは別として、少なくともお間抜けで浅慮な生徒という印象を紫乃に与えないだけの道は築いてきたつもりである。

 なのに、今朝の失敗でそれらが全てパアである。忘れ物をしないなどというのは小学校一年生の時から指導されている児童生徒の生き様の基本である。これを守れなかった時点で大好きな紫乃ちゃんからの心底呆れたため息のプレゼントは免れない。

「弓奈さん、どうかしたんですか」

「ん! ええとね・・・」

 一度寮に戻ろうかと思ったがそれは不可能である。この学園は昇降口前や中庭などといった、学園生活に大して影響を与えないと思われるどうでもよい空間がやたら広くとられており、ここら辺のスペースを一カ所に集めればもうひとつ校庭作れるじゃんとつっこみを入れたくなるくらいである。このような設計者の空間に対する奇妙なセンスが学舎と三年生寮の距離をとんでもないものにしているため、授業開始までに残された5分間で寮には戻れない。これは正直に話すしかないだろう。

「実は・・・現代文の教科書忘れて来ちゃって・・・」

 弓奈が青い顔をしていたので気分でもわるいのかと思って紫乃は声を掛けたから、なんだそんなことかとほっと胸を撫で下ろした。紫乃はクールな顔をしながらいつも弓奈のことを気にかけている。

「最低でも寝る前と登校前の二回は持ち物の確認をしなきゃだめです。もっとしっかりしてください」

「はーい・・・」

 自分に対する好感度が下がったに違いないと思った弓奈はすっかりへこんでしまった。昨夜は紫乃への告白計画の案などで頭がいっぱいで、カバンの中をほとんどいじらなかったのである。

「しょうがない人ですね。授業中は私が教科書を見せてあげます」

「ホントに? ありがとう紫乃ちゃん・・・助かったよ」

「はい」

 紫乃は得意な顔で自分の髪をサッと撫でた。

 少し早めに教室にやってきた先生にさっそく弓奈はしょんぼりした顔で忘れ物の報告をした。現代文の先生は「じゅうにひとえ」という雅なニックネームを持つ物腰の柔らかい女性なので弓奈を厳しく叱ることはなかった。

「そうですか。ではお隣りのお嬢さんにお願いをして机をくっつけさせてもらってくださいな」

「わかりました」

 わかりましたと答えてから弓奈はハッとした。机をくっつけるというのはつまり、机をくっつけるということである。机をくっつければ机をくっつけていない時よりも二人の体ははるかに接近するだろう。これはただ事ではない。

 細い腕でよいしょと机を持ち上げた紫乃も、弓奈の机にぴったり付けてから急に胸が高鳴った。思わず後ずさりしてしまったレベルである。こんな満員バスみたいな距離感で過ごして50分後に自分の心と体はどうなってしまうのかと紫乃は恐怖すら覚えた。アップルパイのような甘い恐怖である。

 二人が机の周りでもじもじしている間に授業開始のチャイムが鳴った。着席しなくてはならない。

「はい、えーそれでは皆さん授業をはじめさせて頂きます。すっかり秋めいて過ごし易い季節になりましたが、朝晩の寒暖差には注意をし、体を労って健康に過ごして下さいな」

 この先生は授業にあまり関係ないことをはじめに数分しゃべる。弓奈たちはいつもよりさらに背筋をぴしっと伸ばしたまま二人の間に置かれた教科書の表紙を横目にじっと見ていた。机がくっついているだけでなく椅子もそれなりに寄っているので二人の肩と肩は拳1個分程しか空いていない。

「えー、それらを合わせて生まれたのが、天高く馬肥ゆる秋という言葉ですね。はい、前置きが長くなりました。それでは教科書の内容にうつりましょう」

 いよいよ教科書にスポットが当たった。紫乃は小さなお手手を伸ばして指定されたページを開いた。手を離すと勝手に閉じてしまいそうだったのでページの隙間をぎゅうぎゅう押さえて形をつけた。おそらくサンマの開きもこうやって作るんだろうと紫乃は思った。紫乃は料理の知識とセンスが欠如している。

 二人はとりあえずページを覗き込んだが、この瞬間からもう先生の声は耳に入らなくなった。視界のはじっこに存在感の塊と言える大好きな人の姿がちらちら見えるのだから、教科書の字など追えたものではない。不意にふわりと肩から滑った弓奈の髪の艶やかな毛先を視界の端に捉えた紫乃は、くすぐったいようなトキメキに耳を熱くした。弓奈のほうも、時折揺れる紫乃の透き通るような星空色の黒髪に心を奪われていた。もう少し頑張って首を傾ければ相手の柔らかそうなほっぺも見えるはずなのだが、体が石のようになってしまって動かない。おかしいのは、外側は石像のようであれど内では熱い血が大変高い盛り上がりを見せながら体中を駆け回っていることである。後ろの席の少女がもう少し注意深かったら、二人の耳の色の変化でここに恋の花が咲いていることを悟ることができたに違いない。それほどあからさまな顔色の変化だった。

 耳を澄ませばお互いの胸の鼓動が聴こえそうなその時間にふんわり香る、胸を締め付けられるようないい香りは、この二年半でもうすっかりお馴染みになった恋の香りである。弓奈は紫乃の髪や服からなんとなく香る優しい匂いが大好きで、紫乃も同様に弓奈の甘い香りに夢中であった。嗅覚はなにか脳の深いところと仲が良いようで、おそらく何年経っても同じような香りに出会えばこの学園での生活を鮮明に思い出すはずである。彼女たちの体はお互いの香りを「青春の香り」と記憶しているに違いないのだ。



 板書中の先生がチョークの欠片を床に落としてしまったカランという音で弓奈たちは現実に引き戻された。教室を見回してもこのタイミングで教科書をじっと見つめている生徒なんていなかった。二人はまるで白昼夢を見ていたようで、寝起きのような頭に鞭を打って慌ててシャーペンを執った。

 ノートをとりながら、二人は自分のひじが相手の腕に当たらないようにするのに必死だった。まことどうでもよいことのようだが、好きな人が隣りにいるとあらゆる自分の行動が大袈裟で、騒々しいものに感じられる時がある。なるべく小さな路傍の花になって、その人の横顔だけを静かに眺めて暮らしたい、そんな乙女心にとらわれる瞬間である。弓奈は顔が熱くてふわふわ、じんじんした。

「はい、第4段落はこの第3段落までの流れのまとめになっています。読んでみましょうね、次のページです」

 再び授業は教科書の世界に飛び込んだ。弓奈と紫乃は深呼吸をし、覚悟を決めてからまた寄り添い合った。

「まずはこの挿し絵を見てみましょう。挿し絵というか挿し写真ですね。佐賀県にある作者の生家です。少々写真が小さいですがよーく見て下さいな」

 新品の消しゴム一つ分くらいの小さなモノクロ写真に注目しろと先生はおっしゃる。その写真は紫乃に近い方のページに掲載されているため、これをまともに見ようと思えば弓奈はもっと紫乃に顔を寄せる必要がある。緊張してしまってそんなことできないというのならそのままの格好でいればいい話だが、真面目な生徒ばかりがいる学園の生徒会コンビの一人、倉木弓奈が先生の指示を無視するわけもいかないし、紫乃も不審に思うことだろう。弓奈は勇気を出して紫乃のほうに身を乗り出した。

 紫乃は思わず息を止めてしまった。視界の隅から出ないと思っていたはずの弓奈の横顔をとうとうはっきりと捉えてしまったからだ。何気ない教室の風景に突如浮かび上がった美しいその人の横顔のラインと透き通るように白い耳のあたりにかかった柔らかい髪の一本一本が紫乃の目にはげしく焼け付いた。紫乃はどうしていいか分からず背中を伸ばしたり猫背になったり肩を斜めにしたりを繰り返して自分のとるべきベストポジションを探した。結局二人は肩先のセーターの繊維がふんわり触れ合う程度の絶妙な距離感を保ちながら温かな時間を共有した。二人にとって本当に幸せな授業であった。



 チャイムの音が目覚まし時計のように二人の夢の時間に終わりを告げた。

「紫乃ちゃん、ありがとう。助かったよ」

 熱い顔を急いで冷ましたくて立ち上がった紫乃に弓奈は声をかけた。

「は、はい。次からは気をつけなきゃだめです」

 そう言いながら紫乃は、これからは毎日忘れ物して欲しいなと思った。

「はい! 気をつけます。ホントにありがとう」

 弓奈がカバンにノートを仕舞いながらふと紫乃を見ると、彼女の頬は林檎みたいに赤く染まっていた。

 冷静な判断のできる人間であれば、この顔色を見て紫乃も弓奈と同じ気持ちを味わって授業を受けていたのだと気づくに違いないが、見事に恋を患っている弓奈は紫乃の可愛さにうっとりとしただけだった。

「ぼ、ぼーっとしてないで早く机を元の位置に戻して下さい・・・」

「あ、そうだったね」

 紫乃は小さな手のひらで自分の顔をぱたぱた仰ぎながらクールに注意してくれた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ