132、ミルクとコーラと氷水
紫乃は牛乳を飲んでいた。
シャワーのあとはバスタオルを首にかけたままぐびぐび低脂肪乳を飲むに限る。
「ふー・・・」
紫乃は疲れていた。もともと勉強で忙しい時期ではあるが、それに学園祭演劇のお稽古が加わったので放課後はてんてこ舞いである。今日も晩ご飯の後に寮の広間に主要キャストが集合し、台本の読み合わせを一時間程していたのだ。紫乃は監督としてメンバーをまとめてセリフの解釈にも積極的に意見を出した。
「はぁ・・・」
紫乃はちょっと不思議なオリジナルのストレッチで背筋を伸ばしながら小さなため息をついた。劇についての悩みは尽きないのだ。
台本は数名の合作であるため実はまだ整えられきっていない未完成な部分があり、特にラストシーンについてはおおまかな展開のみが決定しているだけで今のところ細かい記載が一切されていない。全ては監督の紫乃に任されていると言ってよい。これがもし配役に知り合いのいない、何の思い入れもない舞台であれば紫乃のちょっぴりいじわるでキレのある発想力によってそれなりに面白い展開を放り込むことは容易だが、この演劇ではそうもいかない。毎晩夢に見るほど大好きで大好きで仕方ない弓奈さんと、がさつでうっとうしい同級生安斎舞の二人がヒロインと王子様役なのだから。
読み合わせにやってきた舞はなぜか大人しく、「だーるーいー」などと文句を言ったらご希望通り役から降りて貰っちゃおうと紫乃は思っていたのだが、「うちで大丈夫かよぉ・・・」とちょっと弱音を吐いただけでほとんど真面目に稽古をしてくれた。これではわるいようにはできない。
紫乃は胸のざわめきを感じていた。脚本の中の世界とはいえ弓奈さんが誰かといい感じになるような劇を毎日のように練習していたら、本当にその人と仲良しになってしまうのではないかという予感である。紫乃は別に舞のことを嫌っているわけではないし、むしろ信頼できる点がいくつもあるので遠巻きに親交を深めるにやぶさかでないが、恋が絡んでくるとそう気軽に方針は打ち出せない。今のところ弓奈さんにとっての自分は学園内でもトップクラスの親友であると紫乃は信じているのだが、そんなものはあっという間に塗り替えられてしまいかねない魔力を、紫乃は一般的な恋の世界に感じている。万が一弓奈さんが舞にときめくようなことがあったら・・・そう考えると夜も眠れなくなってしまいそうである。
そんな自分勝手なことを考える自分の心がちょっぴり汚れているようで、紫乃の小さな胸はきゅっと締め付けられた。
「ん・・・ん・・・」
紫乃はいろんな悩みをミルクの白に溶かしてそれを一気に飲み干した。
「ぷは」
舞はコーラを飲んでいた。
シャワーのあとは腰に手を当てて炭酸ジュースをごくごく飲むに限る。
「んー・・・」
舞は考えていた。流行には決して疎いほうではない彼女も、自分を取り巻く環境やら、運命のいたずらにはついていけない時もある。この秋の出来事は舞を大混乱させるだけのパワーを充分に秘めていた。
文化系クラブの部員たちはそれぞれの発表に全力を注ぐことになるため、学園祭の劇は自然と元運動部員たちに役割が与えられることが多い。夏の大会までテニス部の部長として集団をまとめていた舞もこのことを知っていたのだが、まさか主役級のキャストの依頼が自分の元に舞い込んでくるなんて思ってもみなかったのだ。舞は自分の人気にあまり気づいていない。
「あー・・・」
先程も寮のコモンルームで台本の前半を読み合わせるセリフのみの練習をしていたのだが、舞はちょっとアガっていた。舞はスポーツを通じてならばある程度素直になれるのだが、演じるという手法を通じて自分を表現することは下手である。まあ役になりきるわけだから舞自身をアピールする必要など全くないのだが、今のところ共演者とのコミュニケーションにすら苦心している。よりにもよってお相手が弓奈なので、本当は「だーるーいー」みたいな文句のひとつくらい言いたい瞬間もあるのだが、そんなことを言う気にならないほど気持ちがいつもふわふわと浮かんでいる。とっても幸せなのだが、どうしていいか分からない不思議な胸の高鳴りである。普段は胸の真ん中にどっしりと座っているはずの自分のハートが、弓奈に向かって絶えずぐらぐらと揺れ動いているのだ。お陰でセリフもなかなか頭に入って来ない。
「・・・うま」
指に跳ねたコーラをちゅっと吸いながら舞はベッドに腰掛けた。ちなみに舞は尖った白い歯が目立つので小学生の頃のニックネームはミス・ドラキュラだった。
自分の恋に素直になるチャンスは、もしかしたら今なのかもしれないと近頃舞は思い始めた。素直になれないことによって生じたスポーティーなわだかまりは体育祭で清算したつもりなので、次のステップがあるとすればいよいよ恋の世界への一歩ということになる。
しかし、その壁はテニスのネットより遥かに高い。恋した相手は学園の女神様なのだから。演劇の舞台の魔力でちょっとお似合いなお二人に見えたところで、そんなものが二人を結びつけてくれるだなんてさすがの舞も思っていない。自分のことを、恋に悩んだりするいじらしいキャラだと思っている人間がこの学園にいないことも舞は気づいている。現状孤立無援である。
強いて相談相手の候補を上げるとするならば、例の存在感の薄い友達と生徒会長鈴原紫乃の二人だが、弓奈に近い人物のほうがもしかしたらうまい事取りはからってくれるかも知れない。舞は機会があれば紫乃に素直に相談してみようと思った。舞と紫乃は普通に暮らしている限りあまり気の合う二人ではないかも知れないが、正直舞は紫乃をそこそこ尊敬しており、恥ずかしい自分の恋の悩みの核心を打ち明けるだけの信頼に足る少女だと考えている。
不思議なことに弓奈に告白をしたところでうまくいく気があまりしないのだが、これを悲しいとも思えなかった。
「んっ・・・んっ・・・!」
舞は木目麗しい秋色の天井を見上げながら缶に残ったコーラを一気に飲み干した。
「くー!」
弓奈は冷水を飲んでいた。
ゆっくりお風呂に浸かった後はキンキンに冷えた天然水をたっぷり飲むに限る。
「ふー・・・」
弓奈はそこそこ充実していた。英語とフランス語の宿題も仕上げたし、姉妹校のみんなへのお手紙も書き終えたし、演劇の稽古も想定よりスムーズに進められたしで今日は割とご機嫌である。グラスの中で踊る氷もいつもよりきらめいて見える。
舞とは体育祭以外の場所での絡みがあまりないので一体どうなるのか不安だったが、別に意地の悪いことを言うわけでもなく、練習をサボるわけでもなかったので、元運動部員らしい「やる時はやる」の精神を見せてもらえた気がして弓奈はまた彼女にちょっと好感を持てた。
しかしここまでは日常のほんのひとコマ、絵日記にすれば最初の一行目かはじっこのちょうちょくらいのささやかな出来事である。弓奈の胸は今、もっと大きな何かに向かって高鳴っているのだ。
「よぉし・・・」
弓奈は基本的にお手紙のようなものを学外に郵送してもらうときは、妙な噂が立つのを防ぐために学園の郵便ポストではなく駅前のポストまで一人で出しに行く癖がある。なので姉妹校の方々へのお礼の手紙を出しに行くついでに石津さんに会いに行き、またちょっとした相談をしようと弓奈は思ったのだ。石津さんへの相談となるとやはり恋の相談になるのだが、今回はもう少し深い話をしてみたいと思っている。恋に向き合っていくつかの季節を過ごしたが、その間に弓奈はいろんなことを考えた。恋に限らず様々なものにおそらく共通することだと弓奈は思っているが、現実性のある小さな目標の積み重ねが重要だと気づいたのだ。限りなく不可能に近い「紫乃ちゃんのハートをゲットする」というビッグな夢を叶えるためには、熱意のみならず冷静で現実的な論理の世界にも感覚を研ぎすます必要があるに違いないのだ。
ぜひ次の石津さん宅訪問で、具体的な告白の機会について指導を仰ぎたいものである。石津さんとて恋の街角で迷走中の身であるから、素晴らしく的確なアドバイスを頂ける可能性は決して高くないし、そんなことを訊いても彼女の迷惑になってしまうかもしれない。けれど弓奈には恋の話をできる人が石津さんと竜美さんくらいしかいないのでどうしてもこれを相談したいのだ。頼れる人が近くに一人でもいて弓奈は幸せである。
恋心そのものと覚悟は弓奈の温室のように温かい胸の中ですくすく育っているから、あとは目に見える場所にきっかけが欲しいのだ。本当は怖くて仕方が無いはずなのに、一世一代の大勝負が少しずつ近づいていることに弓奈は興奮を隠しきれない。
「よぉし・・・!」
弓奈は氷をからんからんいわせながらお水を一気に飲み干した。
「はぁー!」




