131、配役
美紗は運動が苦手である。
先程からバレーボールのサーブの練習をしているのだが一向にうまくいかない。夏休みにあんなに走って体を鍛えたはずなのに、日焼け止めを塗り損ねた袖のあたりに日焼け跡がついた以外に体の変化が一切ない。こんなことでは雪乃ちゃんが何か悪い組織に追いかけられたときに助けにいけないだろう。もっと頑張る必要がある。
「はーい、おわりでーす!」
気合いを入れ直してもう一球打ち出そうとしたところで香山先生が笛を吹いた。授業時間内でできる努力は極めて限定されている。
次の時間はお昼休みなので急いで着替える必要もないため美紗はボールを片付ける先生を手伝うことにした。
「ボールちゃんそっちは違うよ~♪ おうちはこっちですよ~」
授業中からそうだったのだが、今日の香山先生は随分とご機嫌である。
「蒔崎さーん」
「は、はい!?」
美紗は急接近に弱い。
「蒔崎さんはラッキーな人?」
「え! ええと・・・その・・・」
今こうして生きているだけで幸運とかそういう哲学のお話をしているのでない限り、美紗は特別ラッキーな人間とは言い難い。
「いえ・・・私なんかは全然」
「そっかぁ。誰かラッキーな人いないかなぁ」
美紗は基本的に学校の先生をとても尊敬しているので、その先生がラッキーな人を探すということはきっと何かすごい立派な理由があるんだろうなと美紗は思った。
美紗はツイている人には心当たりがある。この前聞いた話によると先輩の倉木様はちょっと福引きしただけで浴衣をたくさん当ててしまったらしいのだ。
「先生・・・三年生の倉木様はおそらく強運の持ち主かと・・・」
「おお! たしかに倉木さんはラッキー少女! 放課後倉木さんに会うにはどこに行けばいいかなぁ」
香山先生はお肌がとてもお美しいなと美紗は思った。
「お、おそらく生徒会室かと思います」
「んー、生徒会室ってどこだっけぇ」
「管理棟です」
「蒔崎さん一緒に行ってくれる?」
「え! は、はい。私でよろしければご一緒させて頂きます」
先生は「やったぁ」と騒ぎながら後ろ向きにバレーボールをカゴに放り込んでいた。
雪乃は放課後の生徒会室で楽譜を眺めていた。
彼女は近頃音楽室に仕舞われた古い教本をこっそり持ち出し、複雑で美しい楽譜たちをお気に入りの場所でぼんやり眺めるのにはまっている。
「し、失礼致します。倉木様いらっしゃいますか」
ドアの小窓に誰かのおでこが見えた。今は自分ひとりしかいないので雪乃は黙っていた。
「失礼します・・・」
入って来てしまった。こんなことなら鍵をかけておけば良かったと思いながら雪乃はバニウオを抱きしめてその陰に隠れた。
「はぁっ! 雪乃さん・・・! し、失礼いたしました!」
雪乃に気づいた美紗はすぐに廊下に出て行ってしまった。しかしジャージ姿の陽気なおねえさんだけは平気で雪乃に歩み寄ってくる。
「鈴原さんこんにちはぁ♪ また小さくなってるんだねぇ」
あ、またこの人かと雪乃は思った。夏休みにこの人につかまって無理矢理どこかへ電話させられたのを覚えている。数える程しかコミュニケーションをとったことがないはずの相手だが、不思議と親しみのようなものを感じていないでもない。
「倉木さん、ここに来てなぁい?」
雪乃はバニウオを横に振った。
「おおおこれはぁ! ボイジャーのゴールデンレコードに収録されて今も宇宙空間を彷徨い地球外知的生命体に発見させる日を待ちわびているバッハの無伴奏のソナタとパルティータぁぁ!」
テーブルの上の楽譜を見た先生が急に意味不明なことを言って騒ぐので雪乃は飛び上がってしまった。部屋に駆け込んできた美紗は雪乃に何度も頭を下げながら先生を廊下に引きずり出した。
「せ、先生・・・雪乃さんの前ではあまり大きな声をお出しになるのは控えて頂けると嬉しいのですが・・・」
「はぁーい♪」
生徒会室がダメとなると弓奈探しは振り出しである。とりあえず二人は手がかりのありそうな三年生寮へ行ってみることにした。
寮のエントランスがなぜかやたら賑やかである。
この学園の生徒はブレザーの刺繍をよく見ると学年が分かるようになっているのだが、ここに集まっているのは一、二年生が多いようである。
「香山せんせー! 美紗ちゃーん」
美紗たちがキョロキョロしていると何やら元気な少女がやってきた。天然マイペースな女ならもう足りているというのに類は容赦なく友を呼ぶ。
「つ、津久田様・・・こんにちは」
「津久田さんこんにちはぁ♪」
「こんにちはー! 先生と美紗ちゃんも発表聞きに来たんですか」
あかりはしゃべりながらとりあえず美紗を後ろから抱きしめた。彼女はスキンシップを挨拶の基本に位置づけている。
「発表って何の発表?」
「学園祭の劇の配役です。今ちょうど三年生のクラス委員さんたちと紫乃先輩たちが会議をしてるんです。少し長引いてますけどね」
サンキスト女学園の学園祭に存在するいくつかの伝統のひとつ、三年生オリジナル演劇。それは役はもちろん、脚本や演出に至るまで全て自分たちの力で行って作り上げる最高学年生の一大イベントである。今年はいよいよ弓奈たちの番なのだ。
「その会議ってどこでやってるの?」
「二階のコモンルームです」
「そこに倉木さんいるかなぁ」
「いると思いますよ! 生徒会の三年生ってことで会議に出てるはずです」
「おお、やっと会えるぅ!」
「先生たち、弓奈お姉様を探してたんですか!」
「うん!」
香山先生とあかりは姉妹みたいである。
「よぉし、蒔崎さんと一緒にお邪魔してくるね」
「はーい! いってらっしゃいませー」
「ええっ・・・! 今ですか・・・!」
会議中はさすがにまずいのではないでしょうかと美紗は先生を説得しようとしたが、あれよあれよという間に背中を押されて階段を上ってしまっていた。
「アンケートはあくまで資料です。これをそのまま採用していた年はないです」
紫乃は三年生に実施した配役のアンケート結果を睨んでいた。
「ですが会長、この結果はかなり妥当なキャスティングです」
B3組のクラス委員がアンケートを推している。紫乃は背筋を伸ばしたままクールにほっぺを膨らませた。
「主人公の少女が弓奈さんというのは分かりますが、王子様役が安斎舞さんなんて・・・彼女にはちょっと任せられないです」
今年の演劇の脚本は三年生の生徒たちが夏休みの宿題として書いた幾百の物語の中から3つを厳選し、それらを文芸部員の手でミックスさせたものになったのだが、このストーリーの主要登場人物にお掃除屋の少女とわがままな王子様がいる。
「体育祭での一騎打ちが盛り上がったせいか安斎舞さんの人気が高くって・・・王子様役にはピッタリだと思います。あの子かっこいいですし」
舞本人は気づいていないのだが彼女のファンは多いらしい。
「あの人が台本を覚えられるとは思えないです・・・」
「それが、ちょっと不思議なお話なんですけど、安斎さんは現代文や古典の成績が一年ちょっと前から急激に伸びているんです」
「えっ」
「表現力に関しては練習を始めてみなければ分かりませんがそれは他のキャストも同じですし、少なくとも安斎さんが台本を覚えられないってことはないと思いますよ」
舞が国語の能力を伸ばし始めた理由は、彼女がいつも携帯してる3000ページ超の百科事典にあり、彼女が時々よく分からないタイミングで読んでいた難しい本はこれである。実はこの事典は一年生の時の学園祭で紫乃が舞に渡したものであり、「これを全て暗唱できるようにして出直してくるように」という冗談まじりの紫乃の言葉を彼女はなぜか真に受けて忠実に使命を果たそうと努力をしていたのだ。普段から事典を読みまくっていればあの舞であろうと成績は上がってしまうものなのである。紫乃は二年越しの壮大な墓穴を掘ったようである。
「ぬぬ・・・」
「アンケートによると鈴原会長には演出を担当してもらいたいとみんな思ってるみたいですよ」
「・・・演出?」
「監督みたいな人です」
「まあそれはいいんですけど・・・やはり王子様役が・・・」
ほどほどに白熱する配役会議の隅っこで弓奈は発言の機をうかがっていた。王子様役を誰にするかみたいなことをみんな議論しているが、そもそも主人公の少女役が自分であることが当然のようになっているこの空気に弓奈は疑問を投げかけたいのである。弓奈は地味な照明係をやりたい。
「あ、あのー・・・お掃除屋の少女の役のことなんですけど」
私よりも演劇部の人とかのほうがいいのではと言いかけた時、誰かが脇腹をつついてきた。
「わっ!」
びっくりして思わず妙な声をあげてしまったが、つっついてきた犯人は礼儀が正しすぎると噂のいじらしい後輩美紗ちゃんである。
「倉木様、お忙しい時間に大変申し訳ございません・・・」
美紗はひそひそ声である。はいはいでこっそり部屋に入ってきたらしい。
「いったいどうしたの?」
議長席の紫乃に見つからないように弓奈もこっそりしゃべった。
「実は香山先生が至急、倉木様にお会いしたいらしいのです」
「え! 先生が・・・?」
「はい・・・おそらく非常に重要な用事です」
「先生はどこ?」
「すぐにお呼びして参ります。少々お待ち下さいませ」
はいはいして出ていった美紗ちゃんの小さなおしりと入れ替わりで、香山先生が笑顔で這ってきた。初めから先生が入ってくればいいのになぜ美紗を偵察に使ったのか。
廊下に戻った美紗は一息ついた。ようやく自分の仕事をやり遂げたという充実感が非常に心地いい。先生の用事とやらが気になった美紗はこっそり扉の隙間から先生と弓奈の様子を見ることにした。
「倉木さん・・・!」
「は、はい」
真剣な顔で弓奈を見つめる先生はジャージのポケットから葉書を10枚取り出した。
「葉書かいて欲しいの。どーしても当てたいのがあるから倉木さんのラッキーを借りたいんだ」
「け・・・懸賞かなにかですか」
「んーとねぇ。抽選?」
「なるほど・・・」
ドアの隙間から二人の話を聞いていた美紗は目が点になったが、きっと何か立派なものを目当てにした抽選葉書に違いないと思うことにした。美紗はどこまでも目上の人を信頼している。
「宛先はこれね」
「わ、わかりました。いつまでに書けばいいですか」
「今!」
「今!?」
「なんかねぇ、今日の消印までが有効みたいなの」
「ええ!」
仕方ないので弓奈は会議中にこっそり葉書を書き始めた。よりによって10枚もあるので集中して書かないといけない。
「それでは・・・仕方ないので配役はアンケート結果の通りにいきます。主人公の少女役は弓奈さん、王子様は安斎舞さんです」
書いている間に弓奈の配役が決定していた。




