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128、後ろ髪

 

「紫乃ちゃん、お部屋入るよ」

 返事がない。隣りの部屋であれだけ騒いでいたというのにどうやら紫乃は熟睡を続けているようである。弓奈は彼女を起こさないようにそっと部屋に入ることにした。 

「・・・おじゃましまーす」

 紫乃はまたうつぶせになっていた。彼女はうつぶせが大好きらしいが少々苦しそうだしおそらくかなり暑いので弓奈はまた仰向けにさせてあげることにした。

「紫乃ちゃん、ごろーんしよう。ごろーん」

 そう言ってやさしく肩を押すとちゃんと紫乃は素直に寝返りをうってくれた。寝ぼけているときに何かをお願いすれば案外なんでもしてくれそうである。

 二人の様子を部屋の端から黙って見ていた竜美さんがおそるおそる紫乃に近づいてきた。騒いだら困るので弓奈は改めて人差し指を自分の唇に当てて「静かにね」と竜美さんにジェスチャーを送ったが、そんな必要ないくらいに彼女は大人しい。竜美さんはベッドサイドにしゃがんで紫乃の顔をまじまじと見つめた。まるで初めて家にやってきた子犬に興味津々な少女のようである。

「こいつが紫乃か」

「あ、はい・・・」

 竜美さんは紫乃の熱っぽい桃色のほっぺにそーっと指を伸ばして触れ、すぐに引っ込めた。噛み付いたりしないかどうかを確認しているのだろう。

 いつのまにか犬井さんまでもが紫乃の部屋にやってきており、音も無く紫乃の勉強机の椅子に腰掛けていた。もう少し気配を出しながら生活して欲しいものである。

「なるほどのう・・・」

 妙に大人しい竜美さんはそう呟いて床にしゃがみ込み、ベッドにもたれた。

「弓奈・・・祭は諦めたぞ」

「え・・・いいんですか」

「仕方あるまい。誰かがそばにおらんとこいつは一生夢から覚めんぞ」

 随分とこわいことを言ってくれるが、誰かが看病する必要性があることは分かってくれたようで弓奈はほっとした。

 しかしこの後の竜美さんの落ち込みようといったらない。ぐったりしたままカーペットの繊維を一本一本引っこ抜いたり、紫乃の布団の端におでこをこすりつけたりした。弓奈はそんな彼女を非常に気の毒に思った。なにしろ一年間も楽しみしていたお祭りなのに、しゃべったこともない見知らぬ少女の体調不良が原因で中止になってしまったのだから。「いいや、私は行くぞ!」と駄々をこねてくれればまだ良かったものを、このようならしからぬ聞き分けの良さを見せつけられてしまったら尚のこと弓奈の胸は痛い。弓奈が小さい子どもと接する時に稀に抱く不思議な切なさがトゲのようになって彼女の心をちくちく刺すのである。

「あの・・・竜美さん、ちょっとだけなら行っても大丈夫かもしれません」

 色々迷った弓奈がそう切り出したが竜美さんは乗り気でない。

「あほ。そんなことをしたらこの紫乃はどうなる。ベッドと同化するぞ」

「そう、ですよねぇ・・・」

 すっかり気分の沈んだ竜美さんは眉をひそめたまま頬をふぐのように膨らまし、紫乃のスリッパを履いて天井を仰いだ。弓奈の代わりにこの部屋で待機し、紫乃を看てくれるような人間がいないものかとこの時の竜美さんは考えていたのだが、その答えは彼女のすぐそばの椅子に腰掛けていた。

「んあ!」

 突然竜美さんが声を上げたので弓奈は紫乃が起きてしまうのではないかと冷や汗をかいた。

「そう言えば犬井は祭には興味がないと言っておったな!」

 犬井さんは急に話題が自分へ向かったことに少々驚いた様子である。

「その通りですが、それがなにか」

 そう、紫乃の看病を犬井さんに任せるという手があったのだ。

「おい弓奈、やっぱり私は頭がいいのう!」

「もしかして・・・犬井さんにお留守番をお願いするんですか」

「その通りじゃ!」

 弓奈は犬井さんのことを信頼しているが、なんだか彼女が人を看病をするところなど想像できない。彼女に適したお仕事はおそらく用心棒とかである。

「犬井、よいな! 私と弓奈が帰ってくるまではお前が紫乃の面倒をみるのじゃ」

「ちょ、ちょっと待って下さい! そんなの犬井さんにわるいですよ・・・」

 犬井さんはしばらくよく分からない間を置いたあと実にクールなお返事をした。

「かまいません。お二人は安心しておでかけなさって下さい」

「そうか! やはり犬井は話が分かるの!」

 優秀な付き人である。せっかく京都から来てくれた竜美さんを笑顔にさせることが出来るようで弓奈は嬉しかったが、紫乃のことが気がかりでならない。

「い、犬井さん、本当にお願いして大丈夫なんでしょうか」

「問題ありません」

 問題ないらしい。気にな点はあるがここは犬井さんの力を借りるのもありだなと弓奈は思った。



 弓奈の部屋に浴衣がたくさん仕舞われていることに気づいた竜美さんは当然これを着たがった。

「よし、わくるないのう。犬井に見せてくるぞ!」

「あ! 竜美さんまだ帯がっ」

 竜美さんは子どもサイズのえんじ色の浴衣を羽織って紫乃の部屋に行ってしまった。このように頻繁に廊下へ飛び出していたら誰かに目撃されてしまうおそれがある。別に見られても問題はないのだが、なにかトラブルが起こる予感がするのだ。

 彼女を追って再び入った紫乃の部屋では、犬井さんが先程と全く同じ姿勢で椅子に腰掛けていた。犬井さんはほっとくと一日中置き物のように固まっているのかもしれない。

「犬井、どうじゃ! 私は浴衣も似合うじゃろう!」

「はい。素晴らしいです」

 弓奈は「あなた目隠ししてるじゃーん」とツッコミを入れたかったがあまりこの部屋で騒ぐと紫乃ちゃんがうなされそうなのでやめた。

「はい竜美さん、帯しめますよ」

「なにか足らないと思っておったら、そうじゃ帯じゃ! 早くしろ」

 普段和装制服を着ているせいか竜美さんは浴衣が非常によく似合う。竜美さんをモデルにした斬新な日本人形が発売されたらきっと世界中で売れるだろうなと弓奈は思った。

「はい、できました」

「おお! どうじゃ弓奈、似合うか」

「はい。かわいいです」

 かわいいですと言われた竜美さんは目を輝かせてぐいっと胸を張った。

「そうじゃろう、かわいいじゃろう。おい犬井」

「はい」

「私はかわいいそうじゃ。よく覚えておくのじゃ」

「かわいい・・・?」

「なんじゃお前、かわいいも知らんのか」

「申し訳ございません」

「弓奈、犬井のためにかわいいを説明してやるのじゃ」

 なにかの哲学的難題でもぶつけてきたのだろうかと弓奈は警戒したが、どうやらそのままの意味の質問らしい。

「いや・・・かわいいっていうのは普通に、抱きしめたくなるっていうか、その人をぎゅってしてあげたくさせる様子ですよ」

「なるほど。犬井、勉強になったな」

「抱きしめたくなる・・・」

「なんじゃ、まだ納得いかんのか」

「申し訳ありません」

 本当に変な二人である。



 まだ早い気がしたが「お前もはよ着替えろ」と竜美さんがせかすので弓奈も自分の部屋へ戻って浴衣姿に変身することにした。はしゃいだ竜美さんは弓奈の腰にしがみついたり、帯を布団の中に隠したりして着替えの邪魔をした。

「犬井! それでは我々は祭に行ってくるぞ!」

 犬井さんは椅子に腰掛けたまま「お気をつけて」と返事をした。動かざること山のごとしである。

「あの・・・犬井さん。私たちなるべく早く戻ってきますから、よろしくお願いしますね」

「はい」

「8時過ぎには戻りますね。紫乃ちゃんの晩ごはんは私が作りますから大丈夫です」

「わかりました」

 後ろ髪を引かれるとはまさにこのことだと弓奈は思ったが、紫乃ちゃんへの心配をあまり顔に出しすぎると竜美さんが可哀想なので、お祭りへはなるべく笑顔で出掛けることにした。実際弓奈もお祭り自体はとても楽しみである。



 東の空から夏の宵の香りが漂ってくる。

 弓奈はかなり珍しい浴衣姿で歩いているし、妙な少女も連れているためあまり人に目撃されない道を選んだほうが何かと面倒を避けられると判断し、グランド脇にある小さな通用口からこっそり外に出ることにした。お祭りが行われる青葉町は学園の裏側から向かったほうが近いので一石二鳥である。

「虫除けスプレーしますか」

「なんじゃ」

 弓奈はフォカッチャドルチェで購入できるスプレータイプの強力虫除け「虫さんゴメンネ」を竜美さんの腕に吹きかけてあげた。

「うわ! いきなり何をするんじゃ!」

「虫除けです」

「私は虫ではないぞ!」

「分かってますよ。蚊に刺されないようにです」

「私は生まれてこのかた蚊になど刺されたことないわ!」

「じゃあその記録が続くように、シュ!」

「うわあ!」

 竜美さんは仕返しがしたいらしく弓奈の手から虫除けスプレーを奪おうと必死だが、薬品を彼女に渡すと厄介なので弓奈は背伸びをしながらスプレーを一番星の輝く空へ高く掲げた。これでは体の小さな竜美さんは届かない。

「卑怯者じゃあ!」

 空を目指してぴょんぴょん飛び上がりながら竜美さんはずっと笑っていた。夕焼けの残光に浮かぶ二人の影がゆっくりゆっくりひまわり畑の小道をおりていった。

 

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