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127、訪問者

 

 紫乃が風邪を引いた。

 なぜ彼女が体調を崩してしまったのか弓奈にはよく分からなかったが、紫乃本人には心当たりがあった。弓奈から浴衣を貰い、「可愛いよ」と言われてしまったあの日、紫乃は嬉しくて自分の部屋に戻ったあともずっと薄い浴衣姿でいたのだ。寮のエアコンは容赦なく効いているし、紫乃は学園でも一位二位を争う寒がりなので、しまったと思ってシャワーで温まったところでもう遅い。翌朝には熱を出していた。

「紫乃ちゃん・・・大丈夫?」

「・・・だいじょう・・・ぶです・・・」

 やはり大丈夫ではなさそうだ。朝に来てくれた保健室の先生曰く二日くらいで治るらしいがとてもつらそうである。弓奈は紫乃のおでこに貼られた冷却ジェルシート『北極の本気』をやさしく貼り替えてあげた。

「もうすぐお昼なんだけど、何なら食べられる?」

 紫乃は起きてるんだか寝てるんだか分からないかすれた声で答えた。

「・・・んもも・・・」

「ん桃ね、じゃあちょっと待っててね」

 果物なら食べられそうである。弓奈は財布を持って寮のコンビニ、フォカッチャドルチェへ向かった。

 フォッカは豊富な品揃えと地理的な利便性を売りにしているがその代わりに食堂で食べられるような生鮮食品はあまり扱っておらず、サラダのパックなどもちょっと高い。季節はばっちりなのだがここに生の桃が販売されている気配はなさそうだ。駅前まで行けば買えるに違いないがそんな遠くまで行くと紫乃ちゃんが心配なので弓奈は缶詰の桃をフォッカで買っていくことにした。

「紫乃ちゃーん、入るよ」

 紫乃はうつぶせになって布団から頭だけを出していた。

「その格好くるしくない?」

「・・・うう・・・」

 くるしくて返事もできないらしい。

「体起こせるかな。桃買ってきたよ。おかゆも作ってきたよ」

 紫乃は布団の中でしばらくアザラシのようにもぞもぞ動いてからゆっくり体を起こした。目を開けないので半分眠っている状態である。

「つらいかもしれないけどちょっとは食べたようがいいよ」

 弓奈はおかゆをスプーンですくってフーフー冷ましてから紫乃の口元に運んであげた。

「あーん」

 紫乃は素直にお口を開けた。弓奈にものを食べさせてもらうなんて紫乃に意識がはっきりあればさぞ喜んだだろうが、今彼女の心は高熱の夢の中を泳いでいるので弓奈の声も遥か遠くに聴こえている。弓奈は小さくカットした桃も食べさせてあげた。

「もういらないの?」

「・・・はい・・・」

 しばらくして紫乃はまた横になった。

「飲み物、置いておくからね」

 弓奈は天然水で少し薄めたスポーツドリンクを常温のままコップに入れてラップをした。弓奈が小さい頃に熱を出すとよく母がこんなものをベッドサイドに用意してくれたのである。

 入学したての頃にも弓奈は紫乃の看病をしたことがあるが、あの時よりも紫乃の症状はずっと重い。幸い今は夏休みなのでできれば一日じゅう看病していたいなと弓奈は思った。

 無防備になった紫乃の寝顔、彼女の柔らかそうな頬を間近でじっくり見られることは弓奈も嬉しかった。けれど今はそんなことどうでもいいから早く元気になって欲しいと弓奈は思った。大好きな人が苦しんでいる姿なんて見たくないのである。

 紫乃はしばらく悪夢にうなされていたようで鼻声でクーンクーンと鳴いていたが、弓奈がやさしく髪を撫で続けた結果なんとか深い眠りについたようだ。今ではすっかり幸せそうな顔をしている。この様子ならひとまず安心だ。弓奈は物音を立てぬようそっと紫乃の部屋を抜け出して食器を片付けにいった。

 シンクの中で水浴びをする食器たちの涼し気な賑わいと、窓の外に降りしきる蝉たちの声が弓奈の部屋で溶け合っていた。ふと窓を見れば黄色いひまわり畑の丘に目にしみるような白い入道雲が深い空の青を背負って浮かんでいた。そのあまりに整った色彩美は、まるで夏の絵を描こうとした神様が、絵の具をしぼり出したばかりのパレットをうっかり地上に落っことしてしまったかのようである。弓奈はお皿を洗いながらなんとなく入道雲を見つめて去年のことなどを思い出していた。ちなみによそ見をしながらの食器洗いは非常に危ないのでよしたほうがいい。

「あ」

 夏の空、きらめく海、遠いあの街・・・昨年の夏の記憶を辿っていた弓奈はふととんでもないことを思い出した。

 本人たちの心がどちらを向いていたとしても、運命はおかまい無しに大きなイベントを人間にぶつけてくる。「意外な出来事」なんて分析がおこがましいとさえ感じられるほどに「想定外」は人間の体内を当たり前のように巡り、心臓と一緒に鼓動しているのだ。本日弓奈が巡り会うちょっぴり特別なイベントは、言わば彼女が種を巻いた花壇に咲いたささやかな花のようなものである。

「弓奈!」

「うわあ!」

 弓奈は危うくお皿を床に落とすところだった。弓奈の名前を叫びながらノックもせずに部屋に飛び込んで来た少女は、まぎれもなく弓奈の知り合いだった。雪乃ちゃんよりはちょっと大きいかなくらいのミニサイズの体に秘められた無限大の野心と、等身大の子供心。彼女は遠い西の街からやってきた小さなお客様である。

「た、竜美さん!?」

 彼女は弓奈に気持ちの整理をする時間も与えず、真っ直ぐに弓奈の胸に飛び込んで抱きついた。

「弓奈ぁ! 久しぶりなのじゃ!」

 竜美さんは姉妹校である西風閣よろずよ学園の生徒会長である。弓奈は彼女についてほとんど知らないが、はっきりしていることは彼女が自分の大事な友達の一人だということだ。

「お、お久しぶりです! 本当に来てくれたんですね」

「当たり前じゃ」

 来年はよろずよ学園のほうから親善訪問が行く、そんな約束を去年二人は交わしこのことを弓奈は学園長にも報告をしたので、今年の生徒会長である紫乃が京都へ親善訪問に行かなくていいことになったのである。竜美さんがサンキスト女学園にやってきて何の不思議もない。

「弓奈・・・」

 竜美さんは弓奈の胸に顔をうずめたまま落ち着いてしまった。どうしていいか分からなかった弓奈はとりあえず手についていた洗剤を器用な体勢で洗い流してタオルでよく拭き、竜美さんをやさしく抱きしめ返した。よく見ると竜美さんは着物ではなく割と普通のシャツとチェックのスカートを履いている。

「倉木様、お久しぶりです」

「えっ」

 お客様は一人ではなかった。真っ白な半袖ドルマンパーカーの大きなフードをすっぽり被り、涼し気なショートパンツを履いた女性が現れたのである。

「い、犬井さん、お久しぶりです」

「またお会い出来て光栄です」

 二人とも着物を着ているイメージしかなかったためこのような21世紀の街角の香りがする私服に身を包んでいる姿は非常に新鮮である。

「なにを間抜けな顔をしておるのじゃ。親善訪問に来てやったのじゃ。早くもてなすのじゃ」

「は、はーい!」

 そりゃ間抜けな顔くらいしてしまうだろう。せめて事前に連絡をくれれば心の準備もできたというのに竜美さんたちはやることに容赦がない。

 お茶を淹れている最中、竜美さんはずっと弓奈の背中にしがみついて話しかけてきた。

「今日は新幹線に乗って来たのじゃ!」

「おおー」

「混んでおったが犬井と二人で三人席を押さえたぞ!」

「あ、指定席ですか?」

「もちろん自由席じゃ。自由が多い車両のほうが安いなんて相変わらず人間の世界は狂っておるのう!」

「そ、そうですかね」

「じゃが、バチが当たったのじゃ。三人席の方の窓からは富士山が見えなかったのじゃ」

「あ、竜美さん山が大好きですもんね」

「そうなのじゃ! なのに犬井の奴は私が富士山はどこじゃと訊くともう過ぎましたなどと言うのじゃ。私は海しか見ておらんかったのじゃ!」

「そ、そうですかぁ・・・じゃあ帰りはたっぷり見て下さいね」

「当たり前じゃ! 山ほど見るのじゃ!」

 相変わらず竜美さんの物言いはキツいがとても楽しそうである。弓奈が紅茶を淹れ終わっても竜美さんは弓奈の背中を離れず、後ろからわざと足を絡ませて転ばせようとしたりしていた。

「犬井さん、どうぞ。日本茶がなくて申し訳ありません」

「ありがとうございます。どうぞお気遣いなく」

「なぜ犬井からなのじゃ! まずは私にお茶を出すのじゃ!」

 背後から自分の腰にしがみついている少女にどうやってお茶を提供しろというのか。

「お藤がよろしくと言っておったのじゃ」

「おふじさん?」

「浴衣を来た提灯の女じゃ」

「ああ! 浴衣ちゃんですか!」

「あいつもこっちに来たかったらしいのじゃが、よろずよ学園には留守番がどうしても必要だと犬井が言うから三人でクジを引いたのじゃ」

「く、くじですか」

「結果あいつが留守番じゃ。不憫な女じゃの!」

 あの子にもお世話になったから後で手紙でも書いておこうと弓奈は思った。

 紅茶の香りに鼻をくすぐられて弓奈の頭は少しずつ落ち着いてきた。急な出来事に頭が追いついていなかったが、たった今目の前にいる二人の存在が現実のものとようやく認識できるようになってきたのである。

「柔らかい布団じゃのう! これがベッドか!」

 竜美さんはスカートがめくれるのを全く気にする様子もなく弓奈のベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねた。下の階の人が帰省中であることを祈るばかりである。

「そういえば、お二人はいつまでここにいられるんですか?」

「問題はそこなのじゃ! 犬井を説得して欲しいのじゃ」

 犬井さんにはなにか考えがあるらしい。彼女はストレートのままの紅茶のカップを両手を添えて飲みながらしゃべり出した。

「我々は明日の朝に帰ります」

「明日の朝ですか!? ちょ、ちょっと早すぎませんか」

 よく見ると犬井さんはフードの下でちゃんと目隠しをしている。さぞや東京駅で目立っただろうなと弓奈は思った。弓奈がおまわりさんだったら軽く声をかけている。

「倉木様のためにご報告申し上げますが、私は竜美様との剣の勝負に破れたため、竜美様の希望であるサンキスト女学園の訪問を許可いたしました」

「は、はあ」

 いきなり剣の勝負などと言われても困ってしまう。

「しかしその勝敗と滞在期間とは別問題です。私は二泊以上の外出は危険と判断いたしましたので明日の朝までとさせて頂きます」

 一体なにが危険なのか弓奈には分からなかった。弓奈が苦笑いしながら首を傾げると犬井さんは何か言いた気にそっと顔をあげたが、また静かにうつむいてお茶を飲み始めてしまった。

 紅茶を一気飲みした竜美さんはベッドの端に腰掛けた弓奈の膝の上に乗ってきた。

「弓奈!」

「ん? なんですか」

 こんなに近距離なのだからもっと小声でしゃべって頂きたいところである。

「たった一晩しか外出できない我々がこの日を選んでやって来たのには理由があるのじゃ!」

 竜美さんはスカートのポケットから二三個のキャラメルと一緒に、くしゃくしゃになった黄色い紙を取り出した。

「見ろ」

「ん?」

 ちょっぴり年季の入ったその用紙には「今年もやります! 青葉町夏祭り」と書かれており、どうやらこれはどこかの町の自治体が発行した夏祭りの案内らしい。

「今日はまたお前と一緒に祭に行くのじゃ!」

 竜美さんは祭のチラシを弓奈の顔にぐいぐい押し当てた。近すぎてなにも見えない。

「お、お祭りですか。でも竜美さんこれってかなり昔のチラシですし、日にちも今日じゃないので・・・」

「あほ。そんなことを確認しておらぬと思ったのか。青葉町はここから歩いて10分。今年の夏祭りは今日なのじゃ」

 弓奈は夏に学園にいないことが多かったのでほとんど知らなかったが、学園のすぐそばで毎年小さな夏祭りが行われている。開催地である青葉町は鈴原家の裏の丘の道をずっと辿った先のにあるので駅とは反対方面であり、弓奈とはなかなか縁のない地域であった。

「そういうわけなのじゃ! 今日は一緒に遊ぶのじゃ!」

「う・・・」

 竜美さんに抱きつかれて弓奈は返事に困ってしまった。たしかに弓奈は竜美さんにはお世話になっており、少々騒がしくてうっとうしいが、大好きなお友達である。一年ぶりに再会したら弓奈だって彼女と一緒にどこかへお出掛けしたい。ところが今日だけは状況が特殊であり、そうもいかないのだ。

「あのね、竜美さん・・・ちょっと言いにくいんですけど」

 弓奈は自分の友達が高熱を出して隣りの部屋で寝込んでいること、そしてその看病をする者が自分しかいないことを竜美さんに伝えた。竜美さんは「そんなこと知らんのじゃ」と怒りながら弓奈の膝の上で活きのいい魚のようにぴちぴち跳ねて暴れたが、何を思ったのか急に大人しくなった。

「弓奈」

「は、はい?」

「そいつに会わせるのじゃ」

「会わせるって・・・紫乃ちゃんにですか」

「紫乃というのか。そうじゃ。会わせるのじゃ」

 たまたま弓奈と竜美さんは相性がよかったのでこのように会話が成立するが、紫乃と竜美さんがしゃべるところなんて弓奈には想像もできないし、そもそもせっかく眠った今の紫乃を起こしてしまいたくない。病気は早く治してほしいからだ。

「何を不安そうな顔をしておるのじゃ。大丈夫じゃ。またがって遊んだりはしないぞ♪」

「あ、当たり前です・・・」

 しかしわざわざ来てくれた竜美さんを説得するにはそれなりの誠意が必要となる。紫乃の部屋で暴れないこと、もし彼女が眠っていた場合は決して起こさないことを条件に、弓奈は竜美さんを紫乃の部屋に連れていくことにした。

 

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