126、あかりの予感
陽の透ける深緑のトンネルに二人の影が揺れていた。
「美紗ちゃーん! もう少しだぁ! がんばれぇ!」
「はい!」
美紗は汗を散らしながら一生懸命走っているが、先輩のあかりは涼しい顔で自転車を転がしている。この林道を抜けると平野を見おろす絶景の下り坂になり、そこを過ぎれば津久田家の別荘に戻ることができるのだ。
雪乃を敬愛している美紗は雪乃と仲良くなれることを期待しているわけではなく、雪乃に迫り得る魔の手からこっそり彼女を救うべく体を鍛えているのである。体育祭での経験が彼女を修行の道へ駆り立てたらしい。一方あかりはこの流れに便乗し、夏休みを素直な後輩と一緒に楽しく遊んで過ごそうと今回の合宿を企画したのだった。もちろんあかりは弓奈や紫乃とも一緒にここへ来たかったが、彼女たちは三年生なので勉強が忙しいはずだから今回は誘うのをガマンしたのである。
「ゴール! よくやったぁ美紗ちゃん! かき氷でも食べよう!」
「いいえ、私はもう一周走って参ります!」
「え、もう一周!?」
美紗の細い背中が湖の畔へ下りていく。美紗はそもそも運動が得意なタイプの女ではないのでかなり無理をしているようだ。あかりは美紗のために作った特製のスポーツドリンクを抱えてもう一度自転車にまたがり彼女を追い始めた。
「水分補給はちゃんとしなきゃだめだぁー!」
「はいぃ!」
湖面のまぶしさに細めたあかりの目には、もう美紗の背中が見えなくなっていた。
「美紗ちゃーん! 水分補給ー!」
「はいぃ!」
「止まってよお!」
「津久田様、これは・・・!」
「足らなかった言ってね! また電話するから」
津久田家の別荘の夕食はお寿司の出前だった。普通こんな山奥に出前など来てくれないのだが、津久田財閥系の有名寿司店『魚姉』より大型バイク便で取り寄せたのだ。はやり津久田家はやることがひと味違う。
「つ、津久田様・・・私にはこのような立派なお食事勿体のうございます・・・」
「遠慮はいらない! さあ食べよう!」
二人は運動をしたあと仲良くシャワーを浴びたのだが、板で仕切られたはずの美紗のシャワールームに素っ裸のあかりが平気で入ってきて水遊びをするので美紗は終止慌てていた。
「美紗ちゃん、どうしてカッパ巻きばっか食べてるの?」
美紗は脂の乗った魚の錦の中からきゅうりだけを選んで食べている。
「魚も食べないと泳ぎはうまくならないよ!」
泳ぎは関係ない。
「津久田様・・・私にお魚は食べられません・・・!」
「ど、どうして?」
美紗はきゅっと目を閉じて赤面した。
「雪乃さんが・・・お魚を大切にされているからです!」
一瞬あかりには美紗がなんのことを言っているのか分からなかった。
「ゆ、雪乃ちゃんがお魚をって・・・それぬいぐるみじゃないの」
「はい・・・」
美紗はさらにカッパ巻きを口に入れた。一応お腹は空いているようである。
「み、美紗ちゃん。雪乃ちゃんも魚は食べると思うよ。それにあのバニウオっていうぬいぐるみは半分ウサギみたいなもんだし」
「それは・・・そうなんですが、やはり私には・・・」
せっかく美味しいお寿司を用意したのにかわいい後輩に食べてもらえないのはあかりとしても少々淋しいものがある。あかりは腕を組んで首をかしげた。
「そうだ、ちょっと待ってて!」
「え・・・?」
ダイニングを出て廊下の固定電話の受話器を持ち上げたあかりは何も見ずにどこかへダイヤルした。
『はーい、体育教官室でーす』
「あ、もしもし? 香山先生ですか?」
『香山でーす♪』
なぜかあかりは学校の体育教官室に繋がる電話番号を暗記していた。妙なところで冴えている娘である。
「こんばんは! 先生って夏休みも学校にいるんですね」
『うんいるよぉ。それで、あなたどちらさまぁ?』
「生徒会のあかりです!」
『津久田さんかぁ、今日はなんの用事ぃ?』
「実はちょっとお願いがありまして」
美紗は広いダイニングに一人残されてしまって落ち着かない。仕方が無いのでテーブルに散らかった寿司桶の蓋をきれいに重ねていった。
「美紗ちゃーん」
廊下から美紗を呼ぶ声が聞こえる。美紗は返事をして廊下に向かった。
「津久田様・・・どうされましたか」
「美紗ちゃんにお電話だよ」
「私に・・・ですか?」
「うん。はいどうぞ」
電話をしてくる相手に心当たりなどなかったが美紗は受話器を受けとった。
「お電話代わりました、蒔崎美紗です・・・」
受話器から返事がない。
「蒔崎ですが・・・どちら様でしょうか?」
ここであかりが電話機の傍らにあったメモを使った筆談による衝撃のメッセージを美紗に送ってきた。
(電話の相手は雪乃ちゃんです)
「え、ええ! ゆ、雪乃さん!?」
あかりは体育教師香山先生に雪乃ちゃんを呼んできてもらったのだ。初めあかりが「雪乃ちゃん呼んでもらえますか?」と言っても香山先生には通じなかったが「小さいモードの紫乃先輩を呼んで下さい」と言い直したら納得して呼びにいってくれた。呼びにいったと言っても、先生の場合はその有り余った脚力でぱたぱたと雪乃を追いかけて捕まえてきたに近い。
(まず挨拶をしてみましょう)
あかりがメモで最初の指令を出してきた。美紗は息を飲んで受話器を握り直す。
「み、みさです・・・こんばんは」
やはり返事はない。雪乃にしてみれば突然さらわれて体育教官室に連れてこられ、顔も浮かんでこない人と電話でしゃべらされているのだからそりゃ困惑するだろう。
(バニウオちゃんは元気ですかと尋ねてみましょう)
あかりの次の指令である。美紗は声が震えないように一度深呼吸をしてからしゃべることにした。
「バ、バニウオさんはお元気ですか・・・?」
やや間があって、鈴が揺れるような小さな声が返ってきた。
『・・・うん』
「はぁっ・・・!」
美紗は耳がくすぐったくて全身が熱くなった。
(お魚は好きですかと尋ねてみましょう)
あかりからまた指示が出た。美紗は自分一人ではとてもではないが何もしゃべれないのであかりの誘導は非常に有り難かった。
「お、お魚はお好きですか?」
『・・・うん』
美紗は頬を真っ赤にしながらあかりの次のメモを待った。
(お魚は食べますかと訊きましょう)
美紗はあかりに深くうなずいた。
「お、お、お魚は食べますか?」
『・・・うん』
雪乃ちゃんもお魚を食べることが判明した。そりゃ長いウサギの耳を生やしたよくしゃべる巨大なお友達バニウオと食卓の魚は別物だろう。
(お魚はおいしいですかと尋ねましょう)
あかりのメモが続く。
「お、お魚はおいしいですか」
『・・・うん』
あかりはメモ帳からはみ出るような大きな字で最後の指令を書いた。
(私もお魚を食べますと元気に宣言して電話を切りましょう)
「わ、私も雪乃さんを見習ってお魚を食べます! ありがとうございました・・・! よ、よいお年を!」
あかりの作戦は大成功である。こうして二人は仲良く美味しいお寿司を食べたのだった。
夜も更けたのであかりたちは寝具を抱えて最上階の寝室へ向かった。
「電気消すよー」
「お、お待ち下さい!」
まだ何もしていない美紗は急いで目覚ましをセットし始めた。早朝に走りたいのでアラームは夜明け前にセットするつもりである。
「んー、なんか美紗ちゃん遠いね」
目覚まし時計をいじる美紗の傍らであかりは自分のベッドをグイグイ押し、美紗のベッドにピッタリくっつけた。
「つ、津久田様・・・」
「電気消すよー!」
「お、お待ちください・・・!」
「えい」
電気が消えると、寝室は夜空の中にあった。この部屋の大きな天窓には夏の星座が広がっていたのである。
「津久田様・・・美しいです」
「私?」
「い、いえ、この星空のことを申し上げたのでして・・・」
「私じゃないんだ・・・」
「あ! いえ、でも津久田様ももちろんお美しゅうございます!」
「冗談だよ美紗くん!」
あかりは美紗のベッドに潜り込んで彼女に強制的な腕枕をした。もはやベッドを寄せた意味などない。美紗はしばらく頬を染めたままあかりの腕を逃れるためにもぞもぞ動いていたが、やがて諦めて大人しくなった。
「美紗ちゃん、なにかお話してあげようか」
美紗がぼんやりと意識を星空に浸しているとあかりが耳元でささやいてきた。
「お話・・・ですか?」
「色んな面白いお話があるよ。私は色んな噂を収集してる情報通だからね」
あかりは美紗の柔らかい髪を指先でくるくる巻き始めた。翌朝の美紗は寝癖が酷そうである。
「んー例えばね・・・学園に出る幽霊の噂」
「ゆ・・・!」
美紗は露骨に怯え出した。
「ゆ、幽霊ですか・・・?」
「あれ、美紗ちゃんは幽霊苦手?」
「幽霊の話なんて・・・にわかには信じられません・・・」
美紗は心優しい娘であるので、出会った相手に理不尽な恐怖を与えるオバケの類いがあまり好きではないのだ。
「うん、私も信じられないんだけどね、学園でも目撃情報がかなり多いんだよ」
「な、なにかの間違いではありませんか・・・」
せっかく星が奇麗なのだからもっと爽やかな話をすればいいのにあかりはマイペースである。
「目撃というか・・・正確に言えばね、聴いたの」
「聴いた・・・?」
「ちょうど今くらいの時期にね、学園のどこからともなくヴァイオリンの音色が聴こえてくるの」
「ひいっ・・・!」
「一体誰が弾いてるのか、誰にも分からないの。夏休みだから学園を見に来た外部の人かもしれないって意見もあるんだけど、それもなんか不自然でしょ。これはまちがいなく・・・オバケだよお!」
「はあっ!」
美紗は布団をすっ被ってしまった。先輩の威厳みたいなものを気にしておきながら、このようにわざわざ後輩を怯えさせていじわるしていてはどうしようもない。
「怖がらせてごめーんね♪」
あかりは美紗の脇腹をくすぐりながら謝罪した。相手を必ず笑顔にできる魔法の謝り方である。
「お詫びになにか明るい話してあげる。何の話を聴きたい?」
「明るい話・・・ですか?」
眠らせて欲しいという希望は通りそうにない。
「うん。何でもいいよ、やっぱり雪乃ちゃんの話がいいかな?」
リクエストされたどんなお題に関しても明るい話ができるなどという自信がいったいどこから来るのだろうか。あかりは以前雪乃の好みについて美紗に適当なアドバイスをしてややこしいことになったという記憶を失っているようである。
「でしたら・・・みなさんのお話を教えて下さい。生徒会のお三方のお話」
「生徒会のお三方って、私と弓奈お姉様と紫乃先輩かぁ・・・うーん」
意外なお題にあかりも悩んだ。灯台下暗し、自らの日常に深く根ざした話題にあかりは疎い。仕方ないので彼女は普段なんとなく感じている些細なことをしゃべることにした。
「んー、これはお話というか・・・私の予感なんだけど」
「予感ですか?」
「うん。生徒会室にいるとね・・・なんかこう、感じるの。誰かの恋心ってやつ」
「こ、恋心・・・ですか」
「うん。まあたぶん私たち三人とは関係ないと思うんだけど、でもなんか・・・誰かが誰かに恋してるみたいな・・・何かが起こる予感っていうか・・・何かが始まってる予感・・・うーん、あの感じはなんなんだろ」
割と真剣なあかりの表情に美紗も何も言えなくなって天窓を眺めた。遠くで歌う虫たちの声が星と星のあいだで涼し気に響き合って星降る夜の深まりを美紗に告げている。まどろみかけた意識の中で美紗はあることをひらめいた。
「あの・・・津久田様」
「なに?」
「生徒会室で感じられるその恋心って・・・もしかしたら津久田様自身がお持ちになっている倉木様への恋心では?」
「え?」
あかりは薄暗闇の中でまんまるお目々をぱっちりあけて美紗と見つめ合ったあと、いつものマイペースな笑顔を取り戻した。
「なるほど! 解決!」




