125、姿見の二人
コーンスープの甘い香り。
紫乃はその湯気の中にそっと顔をつっこんで夕餉の温もりを肌で味わっていた。かなり怪しいポーズだが甘い誘惑には叶わない。紫乃は弓奈が食堂にやってくるまではこうして待っている所存である。
「紫乃ちゃん、遅くなってごめーん!」
弓奈がやってきたので紫乃は慌てて背筋を伸ばして前髪を整えた。
「遅いです。お茶を買いに行くのに3時間は掛かり過ぎです」
「ごめんごめん、ちょっと色々あって」
紫乃に呆れられないように弓奈は急いで学園に戻って来たつもりだったのだが、やはり制服に着替えるためにアパートまで戻ったことが大きなタイムロスになった。
「さ、ごはん食べよう」
「はい」
「あれ、あかりちゃんたちもう先に食べ終わっちゃったかな」
あかりと美紗は夏休みに入ってからも毎晩一緒にごはんを食べていたのに今日は姿が見えない。
「お二人は今日からしばらく合宿だそうです」
「が、合宿?」
「なんでも体を鍛えるとかで」
そういえば美紗ちゃんがそんなことを言っていたのを弓奈は思い出した。おそらく雪乃ちゃんと仲良くなるための修行であり、あかりが適当なことを美紗に言って企画したものだろう。
「美紗さんはちょっと挙動不審ですがかなりまともな人なので、あかりさんがわるい影響を与えてしまわないか心配です」
「だ・・・大丈夫だと思うよ」
たぶん大丈夫じゃないだろうなと弓奈は思った。
「そういえば紫乃ちゃん」
食器をカウンターに返却しながら弓奈は紫乃の背中に話しかけた。
「なんですか」
「プレゼントがあるんだけど」
「えっ」
紫乃はまるで物音に驚いたネコのように肩をすくめて振り返った。
「プ、プレゼントですか?」
「うん」
「ゆ、弓奈さん・・・私の誕生日は年に一回しか来ないんですよ」
「いや、それは知ってるんだけどね、お茶買ったら福引きが出来てさ、面白いものが当たったの」
まあ当てたのは石津さんなのだが弓奈は長くなりそうな説明は省く女である。
「ホントはあかりちゃんと美紗ちゃんにも渡したかったんだけど、あの二人はまた今度でいいや。紫乃ちゃんこのあと私の部屋寄っていってくれる?」
「わ、わかりました」
紫乃はわくわくすると歩幅が小さくなってちょこちょこ歩くくせがあり、それを自覚している彼女は意識して胸を張りゆっくり歩いた。紫乃は一体どんなプレゼントを貰えるのだろうかと色んな想像をしてしまったが、もしも大したものじゃなかった時にがっかりしないように控えめの予想を立てることにした。
(弓奈さんがくれようとしているのはポケットティッシュ・・・ポケットティッシュ・・・ポケットティッシュ・・・)
誰もが幸福になれる魔法の呪文に違いない。
「どうぞ、入って」
「し、失礼します・・・」
紫乃はほとんど弓奈の部屋に入ったことがないので非常にドキドキした。
足を踏み入れたとたん紫乃の鼻をくすぐるいい香り。例えるならば、せっけんの国の花屋の軒先で虹のミストを浴びた感じである。
隣り合った部屋の間取りはなぜか左右逆になっており、お風呂の場所もベッドの位置も紫乃の部屋とは違うのでとても新鮮である。紫乃はどこに立っていいか分からずキョロキョロした。
「あ、適当にベッドとかに座っていいよ」
弓奈もドキドキしていた。大好きな人と静かな自室で二人きりだなんて距離感が麻痺してしまう。ここは食堂や廊下と違って物音がしないので二人の間にふいに訪れる沈黙が重く弓奈の胸にのしかかるのだ。
「プレゼントっていうのは、これなんだけど・・・よいしょ!」
弓奈は少し大袈裟な声とアクションで大きな紙袋からビニールに入った大量の浴衣を取り出し、ベッドの上に並べた。
「じゃーん浴衣でーす」
色とりどりの浴衣が布団を虹色に変えて輝いている。紫乃の小さな胸はときめいた。ポケットティッシュの比ではない素晴らしいプレゼントである。
「好きなもの選んで。フランスのメーカーが作ったらしくてサイズの表示がよく分かんないから袋から出してよく見てね」
紫乃は頬を染めて黙ったままベッドの上で浴衣の吟味を始めた。紫乃は喜ぶと無言になるくせがある。
「私のオススメはね、これかな」
弓奈が紫乃に差し出したのは、フルール・ド・リスとかいうフランス王家の花紋章を散りばめた藤色の浴衣である。やはり紫乃には紫系統が似合うと弓奈は思ったのだ。
「わ、わるくないですね・・・」
紫乃もこの浴衣の色柄は非常に好みである。気取っていないのに、他とは違う高貴な香りをひっそり漂わせているからだ。
「サイズ見てみる?」
「はい」
紫乃はベッドからぴょんと飛び下りて弓奈の部屋の姿見の前に立った。肩のあたりを合わせてみると、浴衣の裾は床についた。
「・・・少し大きいですね」
「ん、これくらいならおはしょりすれば大丈夫だよ」
「お、おはしょり?」
「うん」
二人は見つめ合ったまま黙った。
「・・・紫乃ちゃん、もしかして浴衣着たことない?」
「あ、あります! もちろんあります」
本当は着たことがなかった。鈴原家はとにかく洋風な慣習のもとに暮らしてきた一族なので盆だろうが正月だろうが和装をする事がほとんど無かった。
「あ、今着てみる?」
「え」
「たぶんサイズ合うと思うよ。五分くらいで着られるし、お手伝いするよ」
「わ、わかりました」
紫乃は弓奈に着付けを手伝ってもらうことにした。
自分から「手伝うよ」と言った弓奈だったが、すぐにその事態の重みに気づいた。こんな二人っきりの空間で大好きな人の着替えを手伝うなんて、人間の心臓を持っている者であればドキドキは避けられない。
紫乃はとりあえずブレザーを脱いだ。あまりためらわずに動かないと浴衣を着た事が無いのが弓奈にバレるかも知れないので紫乃は大胆にならざるを得ない。
「それで・・・どうしますか」
「あ、えーと、シャツも脱いで」
紫乃は耳を赤くしながら弓奈に背を向けて脱ぎ始めた。
「下着、何着てる?」
「え・・・普通のやつです」
「そっか。ちなみに今度浴衣着るときは下はカップ付きのキャミソールでいいかも」
「わ、わかりました」
ゆっくり脱いでいく紫乃の背中を鏡越し見ていた弓奈は胸の高鳴りに耐えきれなくなって浴衣を紫乃の肩に被せた。
「わ」
「エアコン効いてて寒いからもう被っとこう!」
紫乃もこれには助かった。恥ずかしくてシャツのボタンを外したり留めたりを繰り返していたからだ。
「ちょっとここ押さえててくれる?」
「はい・・・」
「ここはちょうちょ結びの片っぽバージョンで結ぶの」
「はい・・・」
「ここから手を入れて、そうそう、奇麗に伸ばしてね」
「はい・・・」
「紐きつくない?」
「はい・・・」
「帯はこのあたりかな」
「はい・・・」
「ここで結びまーす」
「はい・・・」
鏡の前で寄り添い合う二人の時間はとてもゆっくり流れた。弓奈は紫乃の腰に手を回す時、鼻先に迫る彼女の髪のにおいに胸をきゅっと締め付けられ、このままぎゅうっと抱きしめることができたらどんなに幸せだろうと思った。紫乃も真っ赤になった自分の耳元で響く弓奈のやさしい声を全身で感じながら、腰に回された大好きな人のすべすべの腕にこのままむぎゅっと抱きしめられたら他になにも要らないなと思った。二人はこんな時間がずっと続けばいいのにと願ったのだった。
弓奈がわざとゆっくりやったこともありかなり時間がかかったが、紫乃のお着替えは完了した。
「かんせーい。どう? ぴったりでしょ」
浴衣を着た鏡の中の自分を見て紫乃はびっくりした。てっきり自分はゴシックな洋装しか似合わない女かと思っていたのにかなりいい具合である。サイズもばっちりだ。
「似合ってるよ」
「そ、そうですか?」
「うん。それあげるね」
弓奈は袋を片付ける振りをして紫乃に背中を向けてから、ちょっと小さい声で「可愛いよ」と付け加えておいた。とても面と向かって言えるセリフではない。
それを聴いた紫乃は嬉しくって鏡の前で浴衣のたもとをペンギンの子どものようにひらひら振った。
「くし」
今のは紫乃のくしゃみである。紫乃はくしゃみがやたら小さい。
「あ、部屋戻ったらすぐ普通の部屋着に着替えたほうがいいよ。風邪引いちゃうから」
「わ・・・わかってます」
寮はしっかりと空調が効いているので夏だからと言って浴衣のような薄着を続けていてはいけないのだ。紫乃は浴衣姿のまま制服とカバンを抱えた。
「そ、それでは・・・」
「うん。また明日ね」
ベッドに腰掛けて手を振る弓奈に紫乃はお礼を言いたいがなかなか口から出て来ない。紫乃はもう一度浴衣の話をしてもらおうと帯のあたりをいじりながら弓奈を見た。
「似合ってるよ」
「・・・ありがとうございます」
言えた。紫乃はクールな表情を残して弓奈の部屋を無事に去ったのだった。
弓奈はベッドに背中からひっくり返って仰向けになった。
「ふー・・・」
天井に向かって幸せなため息をついた。まだ腕の中に残っている紫乃の体の感触に弓奈の胸は熱くなった。とても幸せなのだが、心の準備もなく軽い気持ちで自分の部屋に紫乃を呼ぶと大変なことになると弓奈は今日学んだのだった。
弓奈はしばらくぼーっとしていたが、制服にしわが出来そうなのでベッドから起き上がった。一人っきりの静寂の中でひときわ輝いて見えるのは先程の鏡である。弓奈は何気なく姿見の前に立った。
一人だけが映るにはちょっと大きすぎる鏡だなと弓奈は思った。




