120、花より林檎
弓奈はアジサイよりもガクアジサイのほうが好きである。
ガクアジサイのガクとは絵画のフレームを表す額の意味が掛けられた萼のことで、この装飾花がメインのお花部分を囲うように彩っている植物なのである。明らかに額のほうが派手で鮮やかなのだがそれでも引き立て役に徹しているあたりに花言葉通りの謙虚さといじらしさがうかがわれる。
「雨やみませんね」
「うん。そうだね」
体育祭が雨により一週間延期になったので、弓奈と紫乃は昼休みを利用して本部席に出す予定だった機材を待機所から校舎内の倉庫に戻す作業をしていた。あかりは五時間目が体育だからという理由でこのお仕事には参加していない。おそらく本日限定で販売されているアップルパイの列にでも並んでいるのだろう。
あの日から弓奈は非常に頭を使った。おそらく人生でもっとも考え事をした数週間だったろう。どうすればこの圧倒的不利な片想いを実らせることができるのか、中間試験の勉強もそっちのけで悩み続けたのだ。こっそり駅前の本屋へ出掛けて恋の教則本などを立ち読みしてみたが、弓奈がおかれている状況があまりに特殊であるためなんの参考にもならなかった。かと言って恋愛の全形態に対応している思われる心理学系の本はあまりに専門的すぎて弓奈には読解不能だった。あんなものをマスターしようとしていたらあっという間に卒業式がやってきてしまう。
「雨やみませんね」
「あ、うん」
二度目の会話である。紫乃は湿気で髪型が乱れるのが相当イヤらしい。
「紫乃ちゃんはさ、何か好みとかあるの?」
「好み?」
試しに質問をしてみることをした。決して恋心を悟られてはならない。
「べ、別にアップルパイは好きじゃないです。あんなものは子どもの食べ物ですから」
「あ・・・食べ物の話じゃなくて」
「え、何のお話ですか」
「・・・いや、やっぱり何でもない」
「そうですか」
やはり紫乃の恋愛観を本人に尋ねるのは無理である。自力でこのお嬢さんの好みを研究するしかないようだ。
「えーと、やんごとなし・・・身分が高く高貴である、捨てておけない・・・え、なんでそうなんの」
その頃、今年も体育祭で弓奈たちに喧嘩を売ってきたテニス部の舞は食堂で買って来たアップルパイを片手に廊下をぶらついていた。
「ねえ舞」
「わ、あんたいつからいたの」
「ずっといたよ・・・」
舞の友達は存在感が非常に薄い。
「今年の体育祭はどうするの?」
「どうするって、出るに決まってんじゃん」
「そうじゃなくてさぁ・・・対抗リレーのことだよ」
舞の友達は舞のことが好きなので平気だろうが、一般人であれば遥か昔に疲れて舞とのコミュニケーションを諦めているだろう。
「あーリレーね。大丈夫今年は絶対勝つから」
「絶対勝つ?」
「うん」
どうせまた卑怯な手を使うんだろうなと舞の友達は思った。
弓奈たちが畳んだパイプ椅子を倉庫にしまっていると、廊下から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「舞ちゃんかな」
「きっとそうです。この知性のかけらも感じられないしゃべり方は彼女に間違いありません」
紫乃は大好きな弓奈に毎年からんでくる舞がとにかく気に入らないのだ。
「ちょっと注意してきます」
「え?」
一体何を注意するのか弓奈には分からなかったが、紫乃は廊下に出て行った。
「こんにちは」
「あ、鈴原じゃん。なにしてんの」
「なにしてんのじゃないです。こんにちはくらい言わなきゃダメです。挨拶もできないようでは・・・」
ここで紫乃の目に飛び込んで来たのは舞の手の中のアップルパイだ。
「はっ、それは・・・」
「ん? りんごパイ。うまいよ」
「ろ、廊下で食べ歩きなんてダメです!」
「うわ! なんだよ急に・・・」
紫乃は髪の乱れを整えてから舞をじとっとした目で睨みつけゆっくりとしゃべった。
「食べ歩きはダメです。今すぐやめないと今日じゅうに画鋲を踏みますよ」
「が、画鋲・・・!?」
「二個踏みますよ」
「わ、分かったよ食べなきゃいいんでしょ・・・なんか最近こういうの多いわ」
ここで紫乃の様子が気になった弓奈が廊下に顔を出した。
「こ、こんにちは」
「わ、な、なんだ。あんたもいたの」
舞は少し慌てたような顔をしたが、すぐに冷たくそっぽを向いた。
「手紙読んだのか知らないけど、来週覚悟しときなよ」
「あ、はーい・・・」
「まぬけな顔して。調子に乗ってると痛い目を見るよってずっと言ってるけど、今年こそ見せてあげるから。じゃあね」
舞は足元に気をつけながら去っていった。
「本当に、無礼を絵に描いたような人です」
紫乃はそのあとしばらくぷんぷん怒っていた。彼女は小柄なので怒っているからと言って力仕事への適正が増すわけではないらしく、大きな段ボールとしばらく格闘していたがやがて諦め、悔しそうにじっと箱を睨んだあと小さな手でペチっと叩いていた。なんだか可愛いので弓奈はずっと見ていたくなったが、マジメに働いて少しでも好印象を与えるほうがいいと判断した。
「私が運ぶね」
「お願いします」
どうやら運んで貰えるのを待っていたらしい。
「ああいう人が原因で学園が乱れるんです。あ、ほら、今このガムテープが落っこちたのもあの人のせいです」
弓奈は思わず吹き出してしまったが、笑うと怒られそうなのでうつむいて顔を隠した。ご機嫌がなおるまではそっとしておくのが一番である。
作業が一通り終わったころ、体操服姿の少女が倉庫前にやってきた。
「弓奈おねえさま! 紫乃先輩! こんにちはー!」
あかりちゃんである。彼女は例によって美紗ちゃんを連れている。
「こんにちはーじゃないです。挨拶をするのはいいことですが、廊下を走りながら大声を出すなんて二年生のすることじゃないです」
「ごめんなさーい♪」
「それに蒔崎さんをそうやって無理矢理連れ回して、かわいそうです」
「そんなことないですよぉ、美紗ちゃんは友達です。ね、美紗ちゃん」
「は、はい・・・!」
「言わせちゃだめです」
ご機嫌斜めな紫乃ちゃんはとても厳しいのだ。
「もう作業って終わったんですかぁ?」
「終わりました。私と弓奈さんで全部やりました」
「えへ、参加できなくてごめんなさい」
「別にいいです」
「おわびにこれ、美紗ちゃんと二人で並んで買って来ました! お姉様方に食べてもらいたくて」
「えっ」
あかりが差し出した仏字新聞の紙袋。それはシナモン香る甘いリンゴのパイが包まれた夢のような袋だった。
「あのお菓子屋さんは滅多に来ませんからね、今日限定のアップルパイなんですよ。どうぞ!」
あかりの紙袋を受け取った瞬間から紫乃が妙に大人しく無口になったので弓奈が代わりにお礼を言った。
「すっごい美味しそうー! ありがとうあかりちゃん! 美紗ちゃん!」
「いえいえ! それじゃあ私たちは行きまーす! さよなララー!」
「さ、さよなララー」
時々あかりちゃんは弓奈が聞いた事もないような妙な言葉を使うことがあるが、テレビで流行っている言葉だったりするらしい。流行には敏感な少女なのである。
「紫乃ちゃん、どこで食べよっか」
「あっちのベンチにしましょう」
紫乃はアップルパイの袋をぎゅっと抱きしめたまま、歩幅小さくちょこちょこと歩いて階段手前のベンチに腰掛けた。
「紫乃ちゃんはこのアップルパイ好きなの?」
「いえ、別に」
別にと言っておきながら明らかに先程までと態度が違う。ちょっとほっぺを赤くして、足をぶらぶらさせながら紙袋の中に顔をつっこんでくんくんしている。これはまちがいなく大好物である。
「いただきまーす」
弓奈はそういってアップルパイを頬張りながら、横目で紫乃を観察していた。彼女は長方形のパイのはじっこをうっとりとした表情ではむはむしている。弓奈はこれで紫乃の好みをひとつ入手した。このアップルパイのような美味しい美味しい洋菓子である。弓奈は元々料理が苦手なほうではないので、頑張ってお菓子作りを勉強すればもしかしたら紫乃ちゃんに気に入られるかもしれない。
「紫乃ちゃん」
「なんですか」
「おいしい?」
じっと顔を見られていたことに気づいた紫乃は少し照れてからそっぽを向いた。
「ふ、ふつうです」
ほっぺにリンゴのジャムが付いていた。




