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118、青い春の空へ

 

 弓奈はよく夢の中で紫乃の背中を見る。

 その背中はいつだって弓奈を冷たく突き放していた。

『見損ないました弓奈さん。さようなら』

 目が覚めても彼女の言葉が耳の底に染み込んで弓奈の胸をきりきり締め付ける。全ては弓奈が抱える恋心への罪悪感が生み出した幻だが、概ね真実だと彼女は思っている。好きだという気持ちがバレてしまった瞬間に全てが壊れてしまう友人関係、弓奈の理解はそんな感じである。



「弓奈さん、聞いてますか?」

「あ! ごめん、なに・・・?」

 お昼の食堂のにぎわいが、ぽっかり空いていた弓奈の意識にどっと流れ込んだ。

「もう、しっかりして下さい。もうすぐ体育祭なんですから。生徒会も仕事がいっぱいですよ」

「ごめんごめん!」

 紫乃に優しく睨まれると弓奈は耳がふわふわ、頬がじんじんする。弓奈はそんな顔色を隠したくて手で前髪をいじるくせがついた。

「それにしても香山先生のドジっぷりには参ったものです」

「なにかあったの?」

「体育祭の得点板をまた廃棄してしまったらしいです」

「へー」

「毎年使うものなのに・・・本当にもったいないです」

 あれ、こんなこと前にもあったぞと弓奈は思った。

「紫乃ちゃん」

「はい」

「もしかして、新しい得点板を作るのに必要な金具のサイズが分からないとか?」

「そう・・・ですね。以前計測したときのメモでも残っていれば良かったのですが」

 そう言って紫乃もはっとした。二人が初めてしゃべった日もこんな感じだったのである。紫乃は急に無口になってうつむきナポリタンに刺したフォークを必要以上にくるくるくるくる回した。彼女もドキドキしているのである。

「なんか、懐かしいね」

「そ、そうですね」

 食堂の柱時計はいつの間にかこの学園に二年の月日を刻んでいた。小さな偶然を重ねて交わったそれぞれの運命たちに柱時計は等しく穏やかな時間をプレゼントし続けてくれているが、それが限りある贈り物であると意識したとき、少女たちの胸に大人の世界への扉がその影をぼんやりと現すのだ。

「放課後に行こっか。屋上」

「は、はい・・・一緒に行ってあげます」

 ナポリタンが竜巻みたいになっていた。



 空はなぜ青いのか。

 光の波長の長さがどうとか分散がなんたらとかいう解説をよく科学の本で見かけるが、簡単に言えば「空は青い」と言う人たちがたくさん住む世界に暮らしているからである。その青という色が誰の目にも同じように見えているかどうかなんて分からないし、永遠にその答え合わせはできないのだ。ただし、その色を見た感動だけは一定の価値を持つ真実であり、仲間同士で分かち合うことができる。

「奇麗だねぇ。いかにも春の空って感じで」

「花粉はイヤです・・・」

 紫乃は花粉症だった。

 肩が触れ合ったり、スカートの端がちょっと当たったり、風に揺れた髪がふんわり香ったり・・・作業中はお互いのことを意識する些細なできごとが多すぎて弓奈はとても幸せだったが、緊張のせいで喉がからからに乾いてしまった。

 しばらくすると、突如階段の扉が大きな音を立てて開いた。

「紫乃せんぱーい! 学園長先生が呼んでますぅー」

 やまびこが返ってきそうな大声の主は津久田あかりである。彼女はいつだって物事の距離感と大きさをわきまえない。

「たぶん体育祭のことで相談があるんだと思いますよ!」

「ちょ、ちょっと・・・! 津久田様・・・腕を引っ張ったら痛いです・・・」

 もう一人いた。あかりは近頃後輩の美紗を連れ回している。少々強引で一方的なコミュニケーションだが、後輩ができた喜びからやってくる態度なので大目に見てあげるべきかもしれない。

「またですか。母はいつだってそうです。タイミングがわるいんです」

 紫乃はため息をついた。作業はもう少し残っているのだ。

「大丈夫だよ紫乃ちゃん。行っといで」

「でも・・・」

「残りは私が計っておくから」

 生徒会長はあらゆる方面から引っ張りダコなのでとても忙しい。

「・・・では、ここはよろしくお願いします。私は行ってきます」

「はーい」

 髪を揺らす紫乃の背中が扉の向こうへ消えていった。

「弓奈お姉様たちはここで何をされてたんですか?」

「あ、フェンスの幅とか高さとか計ってたの。もう少しで終わるけどね」

「お手伝いしますぅ!」

「いや、いいよ。もうすぐ終わるところだから」

 あかりが手伝ってくれることに抵抗はないのだが美紗ちゃんを巻き込んでしまったら可哀想だと弓奈は思ったのだ。

「だからあかりちゃんたちは遊んでおいで」

「わかりましたぁ!」

「はぁ! またそうやって背中から・・・押さないでください!」

「さあ美紗ちゃん! ボクと遊ぶのだ!」

「わ、わかりました・・・! わかりましたから、お許し下さいっ・・・津久田様!」

 仲のいい二人である。



 さて、弓奈は青い空の下で一人になった。

 とりあえず彼女はのどが乾いていたので階段脇の自販機に向かうことにした。サンキスト女学園の自動販売機には海外から輸入したハーブやらスパイスやらを使用した品のいいジュースが多いが、弓奈が好んでいるのは国内のマイナーなメーカーが作ったジュースである。有名ではないが一口飲むだけで開発者の意欲が魂を揺さぶってくるような美味しいジュースたちだ。

「んー・・・」

 弓奈のおススメは『モモの狂喜乱舞』。腰に手を当ててグビっと飲めばお口の中は桃の園、頭の中さえパラダイスになる一本なのだが残念なことに売り切れだった。仕方なく弓奈は『リンゴのいけす』を買った。水槽のようなデザインが描かれた妙な飲み物だがこれもなかなかに美味しい。

 屋上を独り占めし、青空を見上げながら飲むジュースは格別である。活きのいいピチピチのリンゴが弓奈の喉を潤す時、太陽は缶のふちでまぶしくきらめいた。



 街を見おろしながら弓奈はなんとなく考え事をはじめた。確か二年前の弓奈はここで初めて紫乃の手に触れたのだが、振り返ってみるとよくもあんなことを平気でできたなと自分で感心してしまう。今の自分の手は汚れてしまったのだろうかと弓奈はなんとなく手のひらを空にかざしてみたが、ふいにある人の幸薄気な横顔が脳裏に浮かんだ。

『私の心は・・・すっかり汚れてしまったようだ』

 気づいてみると弓奈は石津さんと同じような悩みを抱えていたのである。

 確か石津さんは弓奈のことを『愛の人』と呼んだ。なぜ彼女がそんな風に思ったのか弓奈にはサッパリ分からないが、弓奈の現状はそんな風に見えるのかも知れない。今の弓奈は恋心をひた隠し自分の心に嘘をつき続けることによって、決して人を傷つけることのない、贈り物だらけの聖女のような人間になっている。しかしそれは歴史の荒波の中で哲学者たちが見つけ出してきた愛の形とはほど遠く、自分自身を傷つけているという点で真の『愛の人』の姿とは根本が違う。

 弓奈はどうすれば紫乃と友達のままでいられるのかということを悩んでいる。恋に振り回され、自分一人の力ではこうした客観的な分析すらできないほどに目を塞がれたままに・・・。嘘で固め、柱時計によって終わりを約束された友人関係の鳥かごの中で苦しんでいるのである。これでは悪い夢も見るはずだ。

 弓奈の毎日を支配していたそんな切なさが悩み抜くに足る高尚なものでないと分かった以上、弓奈はこれからのことについて真剣に考えるべきである。生かされる日々から生きる日々への挑戦だ。

「んー」

 確か石津さんはこんなことも呟いていた。

『嫌われたくない・・・けれど、諦めたくないんだ。負けるのは・・・あの人に気持ちをぶつけてからがいい・・・』

 どうやら石津さんは弓奈の一歩先を歩いて毎日ギターを弾いていたようである。もう少し弓奈はあの薄着のねーちゃんを尊敬すべきかもしれない。

 愛の人になれず、欲張りな恋の人であることに悩んでいた石津さん。そんな彼女に弓奈がかけたささやかな言葉が今、池の水面に落ちた一枚の葉のように弓奈の頭の中で同心円の波紋を描いてこだました。

『そんな風に悩んでるほうが人間っぽくて素敵ですよ。人の心に誠実ってやつです。きっと』

 弓奈は胸がすっとする思いがした。弓奈はようやく自分の心に追いついた。

 訳の分からない遠回しな考え事になったが、お陰で弓奈の心は決まった。これからは恋にきちんと向き合って、胸を張って悩むことにしたのだ。どうせこのまま後ろ向きに悩み続けても嘘だらけの哀しい友達のまま卒業し離ればなれになってしまう。それなら『愛の人』みたいな顔をしていい子ぶって生きるのはやめて、思い切ってこの恋に飛び込み、紫乃に好かれるにはどうすればいいかを真剣に考え、胸を張って青春にぶつかろうと弓奈は思ったのだ。遠慮に遠慮を重ね、無難な毎日を目指す彼女の性格はおそらく一生変わらないが、人生にたった一度だけ欲張りになり、自分の信じた道を全力で駆けても決してバチは当たらないだろう。相手が同性だろうと、高嶺の花だろうと、人を好きになる気持ちに罪なんてないのだから。

 弓奈は大きく息を吸い込んだ。

「よし・・・」

 何の計画もなしに「好きです!」なんて打ち明けたら悪夢で見た通りの結末になってしまうので、今まで培ってきたあらゆる知恵とハートを武器に戦うべきだと彼女は考えた。紫乃ちゃんと恋人関係になれる確率なんて今からジュースの空き缶でヨットを作って船出し夕食の時間までに新大陸を発見して帰って来られる確率に等しいだろうと弓奈は思ったが、諦めるわけにいかない。石津さんだって連絡先も知らない初恋の人へ最高の形で気持ちを伝えるべく日夜ドーナツを貪りながら楽譜と格闘しているのだ。笑われたって構わない。全力を出す権利は誰にだってあるのだ。

「よーし!」

 ここまで覚悟を決めた恋のお相手である紫乃が、実はずっと前から弓奈のことが大好きであり、それに弓奈が全く気づいていないのは運命のいたずらと言う他ない。

「弓奈さん、遅くなりました」

「わ! 紫乃ちゃん」

 紫乃が屋上に戻ってきた。恋の細かい方針や作戦については寮の部屋に籠りながら考えようと思っていたのでいきなり彼女が現れると弓奈も慌ててしまう。第一手は悩みどころだが、とりあえず紫乃ちゃんに好かれるための最低条件、マジメで仕事をきちっとこなす生徒会員でなくてはならない。弓奈は髪やスカートを整えてから、ぴしっと背筋を伸ばして紫乃に歩み寄った。

「計測は終わりましたか?」

「あ」

 恋の道は険しいものになりそうである。

 

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