116、石津哲学
体育の時間のことである。
弓奈にとってスポーツテストはかなりちょろい授業であり、シャトルランなどはモテないように記録を低めに抑える思考が飛んでしまうくらい楽しかったりするので苦に感じたこともない。
強いて言えば、待ち時間が苦である。その日は立ち幅跳びを計測しており、弓奈は早々に得点10の跳躍をしてしまったため暇になってしまった。
「紫乃ちゃん」
「なんですか」
「三年生寮の乾燥室ってどこにあるの」
「二階です。中央階段上ってすぐ横です」
「そうなんだ。4月に入ってからずっと晴れてるから使ったことないね」
「そうですね」
あまりに暇なので洗濯物のことなどを考え始めてしまった。これでは体育ではなく家庭科の授業である。
ベンチから眺めるグランドには砂場でウサギのようにぴょんぴょん跳ぶ生徒たちとメジャーを振り回す香山先生が見える。空を仰げば青い世界を悠々と泳ぐマナティーみたいな雲が浮かんでおり、なんとも癒されるではないか。空き時間がある授業というのもわるくないなと弓奈は思った。
ふと、弓奈はなにか見てはいけないものを見てしまった気がした。グランドは学園全体を囲うレンガの塀に接しており基本的に外は見えないのだが、かつて通用口として使用されていた柵からは緑の丘が見えている。そしてその柵に、なにやら怪し気な人影が見えるのだ。弓奈は視力が非常に良い女なのでその姿が一体誰のものなのかすぐに分かってしまった。
「ちょ、ちょっと紫乃ちゃん、私用事があるからここで待っててね」
「え・・・あ、はい」
体育の時間に用事などあるわけがないが、紫乃に迷惑をかけるわけにいかないので弓奈はこっそりベンチを離れてグランドの隅に向かった。
「あのー・・・石津さんですよね」
「やあ、弓奈くんか。会えて良かった」
歌える貧乏神石津さんの登場である。彼女が学園付近に出没するのは珍しい。
「こんなところでなにしてるんですか・・・」
「君にこれを届けようと思って来たのだ。私の部屋の前に落ちていた。君の忘れ物だろう」
「え?」
石津さんが差し出したのは花柄のハンカチだった。実は先週弓奈は石津さんに長崎のお土産を渡そうと彼女のアパートまで行ったのだが、彼女が留守だったのでメモを添えたお土産をポストに投入して帰ってきたのである。おそらくこのハンカチは弓奈がお土産をポケットから取り出した際に落っこちてしまったのだ。
「わざわざありがとうございます・・・私のハンカチです」
「いや、礼を言うのはこちらのほうだ。君からの土産を私はすっかり気に入ってしまって、この通りだ」
石津さんはアパートの鍵につけたキーホルダーを弓奈に見せた。それは弓奈からの長崎土産『出カステラさん』のキーホルダーで、出島の形をしたカステラの人形である。カットされたバウムクーヘンに見えなくもないがあくまでもカステラのキャラクターである。
「今は何の時間だ。授業なのか」
「あ、はい・・・普通に。体育です」
石津さんは体操服が見えないらしい。
「実は君に相談したいことがあるんだ。ぜひ近いうちに私の家に来てくれ」
「相談したいこと・・・ですか」
「そうだ。待っている」
石津さんはそう言ってかっこよく微笑むとすたすたと去っていってしまった。石津さんは弓奈の他に相談相手がいないらしい。
とにかく弓奈は週末に石津さんのアパートへでかけることにした。
バスに乗っているあいだ弓奈は漢字テストの勉強をしていた。勉強しなくても訳の分からない学運によって毎回満点をとってしまうのだが、一応三年生なのでこういう細かい学力アップイベントにはちゃんと取り組んでおこうと弓奈は思っている。
アパートの前までたどり着くと、二階の部屋の窓からお風呂上がりと思われる半裸の石津さんが弓奈に気づいて手を振ってきた。
「よく来てくれた。上がってくるといい」
「は、はーい」
周りに人がいなくて良かったなと弓奈は思った。
フライパンに出迎えられて弓奈は石津さんのお部屋へお邪魔した。
「散らかっていてすまない」
「いえいえ」
慣れている。
「お茶でいいか」
「あ、はい。ありがとうございます」
石津さんは得意な顔をしてキッチンに吊るしてあったティーバッグを再利用し水と大して変わらない薄い薄いレモンティーを淹れてくれた。環境に優しいおねえさんである。
「今日君に来てもらったのは他でもない。相談があるからだ」
「は、はい」
石津さんはタンクトップが大好きなんだなと弓奈は思った。
「相談というのは、これに関することだ」
石津さんは手書きの音符で埋め尽くされた五線紙を弓奈に見せた。
「楽譜・・・ですか?」
「そうだ。例のカントリーソングだ。曲はこの通り完成した」
「おー! おめでとうございます」
「だが・・・」
石津さんは急に顔を青くしてちゃぶ台におでこをぶつける勢いでがっくりうなだれた。
「歌詞が・・・歌詞が完成しないんだ・・・!」
泣き始めてしまった。石津さんの感情の起伏の激しさを山に変換したらプロの登山家も音を上げる大山地になる違いない。
「えーと・・・この前歌詞がかけるようになってきたっておっしゃってませんでしたっけ」
「その通りだ。ほとんどが書けている。しかし・・・詞の核心になる部分で壁にぶつかってしまった・・・」
石津さんのおでこはちゃぶ台にぶつかっている。
「壁・・・ですか」
お風呂上がりらしい石津さんの濡れ髪とうつぶせ姿勢が素敵にマッチして、まるでオバケみたいである。ちゃぶ台好きのオバケだ。キューティクルと頭皮のためにも髪は正しい方法でちゃんと乾かしたほうがよい。
「私は・・・悩んでいるんだ」
「は、はい」
「音楽と・・・人の心の明日についてだ・・・」
なんだか面倒なお話が始まりそうである。弓奈は足が痺れないように正座だった足をそっと崩した。
「私は歌手として三流だ。ピッチ、声量、安定感、そして表現力、その全てが君がテレビで見かける歌手たちの平均を下回っているだろう」
弓奈はほとんどテレビを見られない生活をしているので歌手はほとんど知らない。
「だがそれらは音楽の神様が人に求めているものではなく、単なる個々人の特徴なんだ。歌手の魅力は決してこれらの力量のみで語られるべきものではないと私は信じている」
よく見ると石津さんは胸元に小さなホクロがある。
「他人の経済に割って入ろうとする職業歌手として生きることが許されるだけの歌う力、その高いハードルを越えてさえいれば、あとは本人らの指向に従って自分を鍛えればいいはずなんだ。人を酔わすほどの構造的美を曲に放り込んだり、ばらついた経験を純粋な形に整え叙情的物語として聴き手に贈ったり、全て自由だ。勿論歌唱力そのものを極めるのもいい。その方向性こそが歌手の魅力になるはずなんだ」
弓奈は体にホクロが全くないので他人の色っぽいホクロを見つけると興味津々で見つめてしまう。
「私は・・・人の心を動かす女になりたい。そのために、音楽と人の心に対して誠実いたいと思っているんだ。それが私の方向性だ」
だがよく考えると弓奈は自分の背中を見たことがないので実は一つくらいホクロはあるのかもしれない。
「私のこの目標は・・・私が追いかけているのは、まさにあの人の姿そのものなんだ・・・」
石津さんは薄いレモンティーを一気に飲み干した。さて、そろそろ弓奈もしゃべるべきかも知れない。
「あの人っていうのは、石津さんの好きな人ですか?」
石津さんは哀しそうな目で空っぽの湯のみの底をじっと見つめた。石津さんの爪は意外にもピカピカで可愛らしい桜色である。
「その通りだ・・・私が歌手になろうと志すきっかけをくれた人であり、彼女もまた音楽の道を歩む女性だった・・・」
たしか随分前に石津さんがヴァイオリンを始めたのは高校を卒業するあたりからというような話を弓奈は聴いたことがあるので、どうやら石津さんはその女の子に憧れて音楽を始めたようである。素敵な出会いもあるものだ。
石津さんはキッチン台からやかんを持ってきて自分の湯のみに二杯目のお茶を淹れた。窓からさらさらと注ぐ爽やかな春の陽が、石津さんのお部屋の時の流れを穏やかにしている。
「それで・・・相談っていうのは?」
「お、忘れていた」
なぜこの流れで忘れることができるのか。
「相談というのは・・・」
「は、はい」
「君は恋や愛についてどう考えている」
「こ、コイやアイ・・・ですか」
コイは五月の空をよく泳いでいるし、アイなら顔に二つある。
「いやぁ・・・急に訊かれても・・・困っちゃいますよ」
「その通りだ。これは難解なんだ。だが力を貸して欲しい。私はこのことでずっと頭を抱えていて、今にも病気になってしまいそうだ」
石津さんは弓奈も病気にさせようとしているのか。
「私は歌を書く時いつも考えることがある。それは、もしも自分の歌がラジオやテレビで流れた時、あの人が耳に入れてくれるのではないかということだ」
いつか有名になればそういうこともあるかも知れないなと弓奈は思った。
「つまり私には・・・下心があるんだ」
「したごころ・・・ですか」
「そうだ。歌であの人に私の気持ちを伝えたいんだ」
石津さんはケースからヴァイオリンのマリアちゃんを取り出して構えたが、別に演奏をするわけでもなく黙ったままである。あごと肩とでヴァイオリンを支えたまま両手はひざの上なので少々奇妙なポーズである。絶対鎖骨が痛くなるなと弓奈は思った。
石津さんのヴァイオリンは骨組みだけの不思議なフォルムをしているが、弓奈が以前フォカッチャドルチェの雑誌コーナーで立ち読みした『すごくバッハ』とかいうふざけた名前の音楽雑誌によると、この学楽器はエレクトリックヴァイオリンというらしい。音を響かせる空洞を持たない代わりにスピーカーに電気的に接続すると大きな音が出るのだ。
石津さんはあごの下に挟んでいたヴァイオリンを下ろして抱きかかえると、暗い顔でしゃべりだした。
「恋は恐ろしい。台風か、掃除機のようなものだ。触れるものすべてを吸い込んで壊してしまう。意図的であろうと、無意識であろうと」
「掃除機・・・」
「恋は・・・人の心を傷つける負のエネルギーなんだ」
石津さんは余程恋というものに怯えているらしい。
「ならばこの星に溢れる温かい結びつき、その姿は全てが嘘なのか、弓奈くん君は今そんな疑問を抱いているな」
「え・・・」
誘導されてしまった。
「君が信じているその絆はちゃんと存在している。だがそれは恋ではない。愛だ!」
石津さんは湯のみでバンとちゃぶ台をたたいた。跳ねたレモンティーが弓奈の彼女の鼻先についた。
「真実の愛は贈り物だ。賢人達の交わす言葉と心は全て、見返りを期待しない贈り物なんだ。例えるなら・・・これだ」
石津さんはヴァイオリンを抱いたまま窓辺の日だまりに寝転がった。
「・・・私はこの春の太陽にお金を払ったことがない。なのにこの温かさ・・・これこそが愛なんだ」
「な、なるほど」
確かにお昼寝をしたくなるような陽気である。これは春の太陽の恵みであり、季節からの贈り物とも言える。石津さんは弓奈のスカートの裾を指先でつまんで優しくくいっと引っ張った。
「君は・・・おそらく愛の人だろう。私は・・・恋の人だ・・・。あの人の声と瞳、体と心を求めて生きている・・・この呪いじみた魔力に取り憑かれて、抜け出せないんだ・・・」
「は、はい・・・」
石津さんは弓奈のスカートをいじりながらゆっくり目を閉じた。
「こんな欲張りな私では・・・音楽と人の心に誠実になれない・・・詞も書けなくなってしまって当然だ」
スカートをいじってくる石津さんの手に弓奈が何気なく自分の手を重ねたら、石津さんはそっと手を握ってきた。温かいお手々である。
「嫌われたくない・・・けれど、諦めたくないんだ。負けるのは・・・あの人に気持ちをぶつけてからがいい・・・」
石津さんの顔はほとんど眠っている。
「私の心は・・・すっかり汚れてしまったようだ」
変な話だが弓奈はこの時、この人はすごく奇麗な人だなと思った。なんとなく人ごとと思えない彼女の悩みの解決に力を貸すため気の利いた台詞のひとつくらいかけてあげたいところだったが、なにも思いつかない。普段あまり考え事をしない女が哲人の憂鬱に都合よく特効薬を処方できるはずがないのだ。
「えーと・・・石津さん」
適当なことを言おうと弓奈は思った。
「そんな風に悩んでるほうが人間っぽくて素敵ですよ。『人の心に誠実』ってやつです。きっと」
石津さんはそっと目を開けて横になったまま弓奈を見上げた。
「なるほど・・・やはり君はすごいな」
理由は分からないが褒められたようで弓奈は照れてしまった。手を握られたままなので手に汗をかいてしまったらすぐバレそうなので弓奈は頑張って落ち着くことにした。月曜までのフランス語の宿題のことなど思い出せば一瞬で平静になれる。
「私はもう少し、胸を張って悩むべきなのかもしれないな。ありがとう、弓奈くん」
「い、いいえ。私は別になにも」
ささやかな希望を得て心が軽くなったらしい石津さんは弓奈の手を握ったまま日だまりで小さくなって再び目を閉じた。余程日だまりが心地いいらしい。
「あのー、石津さん」
「なんだ」
「・・・寒いんならもう一枚くらい着たらいいと思いますよ」
「おお! その手があったか」




