114、あやとり少女
あやとりはインドアな遊びと考えられている。
確かにあやとりを極めるために毎日走り込んだり腕力をトレーニングしたりする人は少ないだろうが、弓奈に言わせてみればあやとりは屋外の事物に対して非常にフレンドリーな遊戯である。精神の内側に心地よく落下していく魅力的パズル性を持ち、その集中力に支えられた排他性を見いだすことすらできるというのに、完成した手の中の絵のなんと柔らかで透明なことか。花にかざせば花の色に、空に向ければ空色に染まるその絵は、まさに移りゆく季節をそっと宿すステンドグラスのようである。お気に入りの綾が手の中で出来上がったら、めくるめく季節の色が咲く外の世界へ飛び出したくなること請け合いなのだ。
「よーし!」
今日は3月29日、弓奈の大切な人の誕生日である。
先程三年生寮への引っ越しに使うリユース段ボールを体育館で貰ってきた弓奈は、荷物を整理する振りをして部屋に籠りカーテンも閉めて、紫乃へのプレゼントを作るためにあやとりを始めることにした。あやとりなんかで彼女が喜ぶのか疑問なところだが、去年は割と喜んでくれた様子だったのでネタが被らないようにケーキ以外のものをあやとりで作ることにしたのだ。そもそも普通あやとりと言えば橋や蝶々などを作るものなので、誕生日ケーキの模様を織れる時点で弓奈の技能の高さが窺い知れる。今年もそれなりにすごいものを作ろうとはりきっている弓奈は、机に向かってお気に入りの桃色紐を指に通しあやとりを始めた。
弓奈が初めてあやとりをしたのは彼女が小学校に上がる前の年である。
弓奈は今でこそ運動神経抜群の女に育ったが、昔は小児ぜんそくのせいで街の総合病院との縁が非常に深い生活を送っていた。幸い弓奈のぜんそくは物心つくかつかぬかという時期にそのピークを過ぎたため、幼稚園年長の頃には発作で入院しても本人がそれを大きな苦痛に感じるようなものではなかった。ちなみにぜんそくの発作は簡単に言うとせきが止まらなくなる症状である。
当時の弓奈の入院中の日課は端から見れば非常に退屈なものだったに違いないが、弓奈自身は病院を楽しんでいたところがある。その日も弓奈は病棟の子ども部屋のスリッパを整えておせっかいを働き、看護士のおねえさんに頭を撫でてもらった後、点滴スタンドをきゅるきゅると引きながら小児科の待合室へ出掛けた。テレビで上映されている湯煙妖精草津ちゃんの映画のDVDを見るのである。
ちなみにこの草津ちゃんは和風魔法少女アニメの金字塔と呼ばれる長寿アニメで、現在も毎週放送されている。エンディングのスタッフロールに合わせて草津ちゃんが突如視聴者にじゃんけんを仕掛けてくるシーンがあるのだが、彼女はほぼ間違いなくパーを出してくるので、テレビの前でチョキを出せば95%彼女に勝てるのだ。この原因は諸説あるが、「全国のお茶の間がピース、つまり平和にあふれた場所になるように」という制作者の願いが込められているというのが定説である。なかなかいいお話なのだが、草津ちゃんは年に1、2回グーを出してくるので注意が必要だ。世の中そんなに甘くないというメッセージに違いない。
草津ちゃんが特大湯桶を頭から被って長い長い変身をしているときに、弓奈の隣りの席に小学校高学年くらいのおねえさんが現れた。
「こんにちは」
弓奈がご挨拶すると、少女は白い頬をちょっぴり染めて頭を下げた。
「こんにちは・・・きみ病院の子?」
服と点滴を見れば弓奈が入院中であることは一目瞭然である。弓奈は元気にうなづいた。
「そうなんだ。私・・・入院することになるみたいだから、これからよろしくね」
少女は細い手をひらひら振って挨拶してくれた。
弓奈は別にずっと病院で生活をしていたわけでなく、短いときは一晩の治療だけで退院していたライトな患者だったので、その少女とずっと一緒に遊べるわけではなかったが、重い発作があると必ず同じ病院にお世話になったのでその時は彼女の病室にお邪魔して一緒に過ごした。
「ゆみちゃん」
「なぁに?」
「ゆみちゃんは将来何になりたい?」
少女のベッドの上にはいつも、彼女が自宅から持って来た動物の図鑑が散らばっていた。
「気球」
「え?」
「気球」
「そ、そうなんだ・・・気球になりたいんだね」
「うん」
弓奈は当時気球に憧れていた。
「おねえちゃんは、何になりたいの?」
「んー・・・動物園で奇麗な鳥さんたちと一緒に歌うお仕事かな」
少女は図鑑を細い腕の中にぎゅっと抱きしめて笑った。少女はなぜかあごの下あたりと左の鎖骨にピンク色のあざがある。
二人は広い外来受付の奥にある売店を訪れていた。
本やお菓子だけでなく細かい雑貨も取り扱っているこの店で、少女はもみじ色の毛糸玉をひとつ買った。
「ふわふわー!」
弓奈は売店前の長椅子に座ってネコのように毛糸玉とじゃれた。
「さあ、ゆみちゃんに問題です。おねえちゃんはこれからこの毛糸でなにをするでしょうか」
少女はペリカンの形をしたプラスチックのはさみで糸を切りながらクイズを出してきた。
「こんぽー」
「え?」
「こんぽー」
「お、おしいなぁ・・・梱包じゃないよ」
弓奈の家では花束の梱包にラフィアと呼ばれる毛糸のような紐を使うのである。
「毛糸は輪っかにして、こうしまーす」
毛糸をかけたおねえさんの細い指が何度か交差したかと思うと、あっという間に彼女の手の中に毛糸の絵が出来上がっていた。
「これなーんだ」
「お日様?」
「正解! じゃあ次は・・・」
少女はさらに指を交差させる。
「じゃーん」
「お星様!」
「正解! じゃあ、お日様やお星様に会いに行くのに必要な乗り物はなーんだ」
少女はまたまた指を交差させ始めた。今度はちょっと時間がかかるようである。
「国際宇宙ステーション?」
「あ・・・おしいなぁ。よくそんなの知ってるね、今組み立ててるんだっけ」
彼女が手の中で描いたのはもっと古風で丸っこいものだった。
「じゃーん」
「気球!」
「正解ー!」
少女は手をゆっくり持ち上げて気球を病院の廊下にふわふわ飛ばした。弓奈は少女が魔法使いみたいに思えて大いにはしゃいだ。
「あやとり、ゆみちゃんもやってみる?」
「あやとり?」
「そう、あやとり」
「やる!」
おねえさんから毛糸の紐を貰った弓奈は彼女の膝に乗ってあやとりを習った。弓奈は始めて自分の手の中で作り上げたほうきを、病棟の看護士さんに見せて回ったりした。
イチョウの木がキツネのしっぽみたいな色になったある日、弓奈は久しぶりに発作を起こして入院することになった。
お薬の吸入を終えた弓奈はさっそくあやとりのおねえさんの部屋を訪れることにした。弓奈は家に帰ったあともあやとりをたくさん練習してきたのでそれを披露したいのである。この頃の弓奈はお薬も点滴もすっかり慣れっこだったのだ。
「こんにちは」
弓奈の声に少女はベッドの上から白い手を振って笑ってくれた。
「ゆみちゃん、また来てくれたの?」
「ただいま!」
「嬉しいけど、ただいまって言われると複雑かも」
少女は弓奈のような少女に病衣は似合わないと思っているのである。
弓奈は彼女にたくさんのあやとりをやって見せた。なかには少女の知らないような弓奈オリジナルのよく分からないものまで混ざっており、彼女は終止笑顔を絶やさなかった。
「ねえゆみちゃん」
「なぁに?」
窓辺のパイプ椅子に腰掛けてあやとりをする弓奈に少女はぼんやりとした声をかけた。
「ゆみちゃんはお友達いっぱいいる?」
「うん!」
幼稚園の組だけじゃなく最近は公園で偶然会った女の子ともお友達になったくらい弓奈は友人関係に恵まれている。
「そうなんだ・・・うらやましいなぁ」
少女は目をそっと閉じた。
「私は・・・ゆみちゃんと、お姉ちゃんくらいかな・・・友達」
弓奈はあやとり少女のお姉さんを一度だけ見た事がある。声が大きくてスポーティな女子高校生である。少女は姉のことを心から慕っている様子だった。
「でも、自分の姉妹って友達でカウントしちゃだめなのかな」
少女は白いお布団の中で目を閉じたままそよ風みたいに笑った。
「どこからがお友達で、どこまでがお友達なんだろうね」
少女の独り言に近い質問に弓奈はあやとりをしながら黙って首をかしげて答えた。
「お姉ちゃんは私のお友達にはなれなくて、私のお友達はお姉ちゃんみたいにはなれない。だったら・・・」
少女はそっと目を開けて弓奈を見つめた。
「ゆみちゃん、私の妹になってくれる?」
弓奈は困ってしまって、黙ったまま再び首をかしげた。少女はそんな弓奈の様子を見てくすくす笑った。
「えへ、冗談だよ♪」
少女の花のような笑みにつられて弓奈も笑った。少女は微笑んだままそっと目を閉じると、小さい声で童謡の最後の部分だけを歌った。
「はーぜの葉赤くて入り日色・・・」
細くて美しい、彼女自身の魅力が溶け込んだ奇麗な歌声だった。
「小さい秋、小さい秋、小さい秋みぃつけた♪」
弓奈はそれ以来症状がどんどん軽くなり、しっかりお薬を飲んで家でも一日二度の吸入を続けたので、入院をしなければならないような重い発作は起こらなくなった。幸運なことに彼女の小児ぜんそくは小学生のうちに完治し、家族からの愛による不器用なまでに規則正しい生活習慣と、貧しいながらもそれに負けぬ母の小器用な毎日の献立づくりが弓奈を健康な女子高生に育ててくれたのだった。入院先の総合病院に縁の無くなってしまった弓奈は、あやとりの少女があの後どうなったのか全く知らない。
「どこからが友達で・・・どこまでが友達・・・」
そう呟いてから我に返った弓奈は自分の手元に目を遣った。どうやら彼女はほとんど覚えてもいない過去について思い返しているうちにいつの間にか気球を作っていたらしい。あやとり製の空飛ぶでかい風船なんかを紫乃ちゃんに見せてもしょうがないが、せっかく無意識のうちに作り上げたものをすぐにほどいてしまうのも惜しい気がしたので、手の中の気球はそのままキープしつつ弓奈はぐーっと伸びをした。
「んーっ!」
非常に背中が気持ちいい。今日中にあやとりを仕上げないと紫乃の誕生日が終わってしまうので頑張らないといけないのだが、たまには息抜きが必要である。弓奈は席を立つと、ひじだけを使って器用にカーテンと窓を開けた。
とても久しぶりな感じがする春の香り・・・。管理棟の脇に雲のようにモコモコと続く薄紅色の桜並木と小川色の空がとても鮮やかで眩しかった。その温もりに目を細めた弓奈は、手の中の気球をそっと空にかざしてみた。
友達とは一体なんだろう、そんな考えたこともないような疑問を弓奈に抱かせたのは、春霞のようにぼんやりとした記憶の中の少女である。友達と呼ばれるものの外の世界、恋や人の心について一生懸命考え始めた今の弓奈が、あやとりの少女と思い出の中で再会したのはおそらく偶然ではない。
あの時「妹になってあげる」と一言言ってあげれば良かったなと、弓奈の胸は少しだけ痛んだが、わるい気分でもなかった。弓奈の手の中の柔らかい気球が、春空の透き通るような青で満たされていたからである。あの日病院のせまい廊下で飛び立った気球は、とうとう大空にたどり着いたのだ。




