113、熱い視線
その日の午後、弓奈は雪乃ちゃんと二人で隣町のプールへ来ていた。
随分前に弓奈は「今度涼しい時に一緒にプール行こうね」と雪乃と約束していたからである。春休みのスイミングラグーン・シャランドゥレは温水仕様となっており、夏ほどの混雑はないようだ。
「ロッカー、一緒でいい?」
「うん」
紫乃も誘ってみたのだが、「や、やめときます!」と思い切り断られてしまった。まあ弓奈のほうも水着状態で半日も紫乃となにをおしゃべりしていいか困る気がしたので少しほっとしていたりする。
「水着、着られる?」
返事がないときは大抵困っているのである。弓奈は雪乃ちゃんのお着替えを手伝ってあげた。フリフリ付きライトブルーのワンピース水着に身を包んだ彼女を見て、紫乃ちゃんも小さい頃はこんな感じだったのかなぁと弓奈は想像してしまった。
「雪乃ちゃん」
「なに」
「水着、似合ってるよ」
髪を撫でられた雪乃は子猫のように照れて弓奈の手に頬擦りした。弓奈は本当は「かわいいよ」と言いたかったのだが直截的すぎる気がしてやめたのだ。
こうして雪乃ちゃんを見ていると弓奈は自分の幼少時代を思い出してしまう。
弓奈は昔からモテたため、雪乃ちゃんくらいの年齢のときにも年上の女性からたくさんのアプローチを受けていた。かつては奇麗なおねえさんと一緒に遊べることを無邪気に喜んでいた弓奈だったが、思春期に入り恋の仕組みや欲求について考えた結果自分がとんでもないことをされていたと気づき、恋を疎むようになったのだ。
ところが、今の弓奈は同性に恋をしているという点で彼女たちと同じなのである。くやしいけれど、雪乃ちゃんのような女の子をぎゅっと抱きしめたくなる気持ちは少し分かるのである。恋の対象である紫乃ちゃんに顔が似ているせいもあるのだろうが、とにかく弓奈は気をつけて彼女と接しないといけない。雪乃ちゃんに迷惑は掛けたくないのだ。
ふと、弓奈は誰かの視線を感じた気がして辺りを見回した。モテまくりの弓奈は人からの視線に慣れているところがあるのだが、この時感じたのは少し異質な視線だった気がしたのだ。しかし、彼女たちの周りにはひと気のないロッカーがお澄まし顔で整列しているばかりである。
「どうしたの」
「あ、ううん。なんでもない。行こっか」
「うん」
雪乃ちゃんは魚柄の浮き輪を片手に弓奈の手をきゅっと握って歩き出した。
室内プールだが日差しは天井の大きな窓からキラキラと入ってくるので太陽に弱い雪乃ちゃんは気をつけなくてはならない。
「雪乃ちゃん、こっちの方は浅いよ」
雪乃ちゃんはとても無口だがたまに笑うと天使のような顔をする。
(紫乃ちゃんもこんな顔するのかなぁ・・・)
弓奈は雪乃ちゃんと遊びながらも妄想に忙しい。
弓奈が水に潜り、浮き輪でぷかぷか浮かぶ雪乃ちゃんの周りで「ばあ!」っと顔を出す遊びをしていると、弓奈は再び背中に視線を感じた。振り返ってみると大学生くらいのおねえさんが二人、頬を染めて弓奈をぼんやり見つめていたが、弓奈が感じた視線はおそらく彼女たちのものではない。もっと純粋で執念深く、それでいて気弱な感じがする不思議な視線がどこかにある筈なのだ。
「弓奈」
「ん?」
「どうしたの」
「いや、気のせいみたい」
弓奈は雪乃ちゃんを心配させないようにもう一度潜って彼女の前へ飛び出してみせた。気のせいだと自分に言い聞かせながらも、弓奈は背後への警戒を続けることにした。
プール内二階のレストラン前では美味しそうなアイスクリームが売られていた。温水プールであるせいもあってなかなかにホットになっていた弓奈はぜひこれを食べたいと思ったのだが、当然自分だけ食べるわけにもいかない。
「雪乃ちゃんどれ食べるー?」
抱っこしてあげると彼女の肩に掛かった水色のラップタオルからふんわり甘い香りがした。雪乃ちゃんはしばらく足をぶらぶらさせて考えたあと「ミント」とつぶやいた。結構大人っぽい選択をする娘である。
「すみません、ミントソフト一つと苺ソフト一つ下さい」
「はーい」
コーンにアイスをしぼっていく店員さんの手元をじっと見つめる雪乃ちゃんの横顔を見て弓奈はそっと微笑んだ。
その時、三たびあの視線が弓奈の背中に突き刺さった。弓奈の運動神経をなめてはいけない。今度こそは見逃したりはしないのだ。
「誰?」
そこには弓奈の素早い振り向きに対応しきれなかった視線の犯人の姿があった。
「ひっ!」
古風なリアクションと共に少女は柱の陰に身を隠したがもう手遅れである。彼女は弓奈に思い切り発見されてしまった。
弓奈は誰かに見られていることに慣れているのだが、どうもその少女は事情が違うような予感がしたので色々迷った挙げ句彼女と話をしてみることにした。
「ちょっと雪乃ちゃん待ってて」
「うん」
「すみません店員のおねえさん。この子が迷子にならないように見てていただけませんか」
「え! あ、はい」
弓奈は雪乃ちゃんをアイス売り場に残して少女を追い始めた。
「あのー」
階段を下りたすぐ脇の観葉植物の陰に彼女はいた。
「あのー、私たちになにかご用でしょうか・・・」
頭隠してなんとやらである。少女はモンステラの葉に頭だけを隠して震えていた。
「べ、別に! これと言って用事はありません! はい!」
すごい高い声だなと弓奈は思った。
「いや、なにかあるなら言ってもらって構わないんですけど・・・たぶん今日ずっと私たちのこと見てましたよね」
少女は葉っぱの陰から恐る恐る顔を出した。
「倉木様は・・・私のことを怪しまないんですか?」
正直なところかなり怪しんでいる。だいたいなぜ弓奈の名を既に知っているのか。
「あ、怪しんでなんかいないよ! なにかあるなら、お話してくれませんか」
少女は弓奈の目をじっと見つめてから立ち上がった。
「私、美紗っていいます。蒔崎美紗。よろしくお願いします」
美紗はちょっと変わった少女だった。
この小洒落たプールに『みどり中3年 まきざき みさ』と書かれたスクール水着で現れ、防水の腕時計をなぜか両手に付けている。二人は階段の踊り場で会議を開いた。
「倉木様・・・実は私・・・」
「う、うん」
美紗はおさげ髪をいじりながら一分程もじもじしてから口を開いた。
「私・・・雪乃さんが好きなんです」
「え?」
「はぁ! やっぱり私、変ですよね」
「いやぁ・・・なんていうか・・・」
お気持ちは分かるのだが随分はっきりとすごいことを打ち明けてくれたものである。
「倉木様は大変お心の広い女性とお見受けしております。僭越ながらお話をさせて下さい」
「は、はい。分かりました」
非常に光栄だが緊張してしまう。
「あ、ところでお時間よろしいですか」
「あ! うん。平気」
どうして腕時計を二つ付けてるのか弓奈は尋ねたかったがタイミングを完全に逃してしまった。
「・・・あれはおよそ9ヶ月前、中学三年の私がサンキスト女学園の体育祭を見学させていただいていた時のことです。一人きりではなにもできない私は友人たちと一緒にグランドを訪れておりました」
去年の春の体育祭に来ていたらしい。
「私の友人は皆倉木様に興味がありサインを貰おうと躍起になっていて、その日も駅前の文具屋で買ってきた20枚あまりの色紙を大事に抱えながら見学をしておりました」
20枚あまりの色紙・・・そう聴いてなんだか弓奈は記憶の中に彼女の友人たちの影を見た気がした。
「確か借り物競走だったと思いますが、その途中で倉木様が偶然近くにいらしたので、友人たちがサインを求めたところあなたは快く『ゆ』と書いて下さいました」
あの子たちの中に美紗ちゃんいたんだぁと、妙に弓奈は感慨深くなった。再びこうして出会うことになるならお友達にもっとちゃんとしたサインを書いてあげれば良かったと弓奈は思った。
「そこまでは良かったんです。私の友人たちは倉木様からサインをもらえて、私もあなたの優しさに癒されて、それで全てが丸く収まるはずだったんです。ところが」
「・・・ところが?」
「あの人に会ってしまったんです」
美紗はきゅっと目を閉じて赤面した。
「私は雪乃さんのお名前を知るまで、彼女を日傘のエンジェルと心の中で呼んでおりました。まさにあの人は・・・天使なのです」
美紗は本気で雪乃に憧れているらしい。なんだか雪乃ちゃんのほうが年上みたいである。
「そして、文化祭での出来事です」
「あ、うん」
まだ続くらしい。
「色々とお調べさせて頂いた結果、雪乃さんがサンキスト女学園の学園長先生のお子様であるということや、彼女のお姉様が同学園生徒会の中核を担っていることなどが分かりましたので、文化祭で雪乃さんのお顔を拝見できる可能性があるのは生徒会主催のイベントだと思ったのです」
伝説の病欠シンガー石津さんのコンサートのことである。
「そうしたら・・・まさか! 雪乃さんのお歌をお聴きできるなんて! あの水のように澄んだお声が私の鼓膜を撫でたあの日から、私は雪乃さんのことを日傘のエンジェル風歌姫とお呼びしています」
「エンジェル風・・・」
「はい。とても・・・素敵です」
その結果、このような追っかけ行為をしているらしいのである。
今の弓奈であれば美紗の気持ちも分からないでもない。大好きな人のことを考えて夜も眠れなくなり、勉強をするときも、ご飯を食べるときですらぼーっとしてしまうあの感覚を美紗ちゃんも味わっているに違いないと思ったのだ。できれば無難な春休みを過ごしたいところだったが、いじらしい美紗ちゃんのために弓奈も人肌脱いであげようと思った。雪乃ちゃんは大変な人見知りだが、うまくいけば友達くらいにはなれるかもしれない。雪乃ちゃんに友達が増えることは弓奈にとっても喜ばしいことである。
「美紗ちゃん、もし良かったら雪乃ちゃんに紹介しようか」
「えっ! そんな! 私はただの脇役ですからっ!」
声高いなぁと弓奈は思った。
「大丈夫。サクラソウはサクラソウなんだよ」
「え?」
「行こう、きっと大丈夫だよ♪」
「は、はい」
溶け始めた弓奈の苺アイスが薬指についたので雪乃は指を舐めてみた。
(弓奈・・・)
弓奈のことを考えながら舐めた薬指は甘酸っぱい味がした。ミント味と比べてとても美味しいので、雪乃はもうちょっとだけ舐めたかったが、今度はなかなか指にたれてこない。仕方がないので雪乃はわるいこととは知りつつも弓奈のアイスの端っこにカプっと小さく食いついた。すると苺の春色のフレーバーが雪乃の口いっぱいに広がったのだった。
「雪乃ちゃん、お待たせ」
弓奈の声である。口の周りをそっと拭いてから振り返った雪乃の瞳に、弓奈と一緒に立つ中学生くらいの見知らぬおねえさんの姿が映った。
「だれ」
「あのね、この子は美紗ちゃん。私の友達なの。今日はたまたまプールに来てたから、雪乃ちゃんもご挨拶したいなーって」
無難な紹介をしてくれた弓奈の脇に控える美紗の瞳とハートに突き刺さる雪乃の真っ直ぐな視線。美紗の頭の中はもう真っ白だ。
「美紗ちゃん・・・ねぇ、美紗ちゃん」
もはや彼女は弓奈の呼びかけにも答えられない。
「ゆ・・・雪乃さんの視線が・・・私だけに・・・私だけに注がれて・・・」
美紗は泣いているのか喜んでいるのかよく分からない顔で悶えたあと、「し、失礼しますっ!」と高い声で叫んで走り去っていった。プールサイドでは決して走ってはいけない。
「な、なんかね、今日は美紗ちゃん忙しいみたい。今度会ったときに仲良くしてあげてね」
「うん」
恋とはやはり簡単に歩み寄ってステップアップ出来るようなものではないのである。弓奈は大好きな紫乃と、親友という形で毎日のように一緒にいられるのだからそれだけでかなり幸運なのかも知れない。
「弓奈」
「ん?」
「アイス」
「あ! ごめんね、ずっと持たせてた! ありがとう」
溶けかけたソフトクリームはお昼寝のまどろみみたいに優しくて、それでいて朝の窓辺のように爽やかだった。
「美味しいー!」
そう言って微笑む弓奈の横顔に、頬を染めた雪乃はこっそりと熱い視線を送っていたのだった。




