111、茜色
上り坂には青空が似合うなと弓奈は思った。
グラバー園へ続く異国情緒漂う小坂を三人でのんびり歩きながら、弓奈はお土産店のカステラの香りに心を踊らせていた。
「紫乃ちゃん、誰かにお土産買ってく?」
「買っていかないです」
紫乃は風に髪をふわふわ揺らしながらおすまし顔で答えてくれた。
「雪乃ちゃんにも?」
「はい」
今日の紫乃ちゃんもクールである。
「じゃ私が雪乃ちゃんに買っていこうかな」
「え・・・」
「とにかく、一緒に見に行こっ」
弓奈は紫乃の背中を押してお土産屋に入った。
香山先生は非常に自由な生き物だが基本的に弓奈たちの回りで生命活動をしているのでほっておいても迷子になる危険はないはずである。今もこうして紫乃の肩を後ろから抱きながら彼女の頭にあごを乗せて遊んでいる。紫乃は嫌がっているが、仲良し姉妹に見えないこともない。雪乃ちゃん、あかりちゃん、ついでに石津さんへのお土産を弓奈は買った。
店を出るとネコがいた。
それは路地から出てきた丸顔の三毛猫で、なぜか紫乃ばかりを見つめている。
「な、なんですか・・・」
紫乃はネコにそう呟いてから弓奈の陰に隠れた。
「ゆ、弓奈さん・・・」
「なに」
「追っ払ってください」
「なんで、かわいいじゃん」
「ネコはきらいです・・・目がイヤです」
紫乃はネコが苦手らしい。同族嫌悪という言葉がこの国にはある。
「ネコちゃーん、おいでぇ♪」
「や、やめて下さい・・・!」
弓奈が呼ぶとネコは弓奈の靴下のあたりを脇腹としっぽを使ってふんわり撫でて過ぎたあと、なぜか紫乃を追っててくてく歩き出した。
「紫乃ちゃん好かれてるね!」
「わあ!」
紫乃はゆっくり歩くネコに追われて坂を行ったり来たりした。
グラバー園へ上る途中に大浦天主堂がある。
紫陽花の似合いそうなしっとりと落ち着いた上り階段の先に天主堂はあり、偶然にも他の班の人のみならず一般の観光客の姿もほとんどなかった。弓奈に言わせれば静かな観光地ほど贅沢なものはない。三人は午後の香りの教会へそっとお邪魔することにした。
気球の内側が寄り添ったような不思議な天井とステンドグラス・・・やわらかな静けさの中で長椅子たちがお行儀よく祭壇に向かって並んでいた。
神秘的だが気取った感じのしない優しい空気にわくわくした弓奈は、後方の長椅子の端に腰掛けた。弓奈の椅子のそばをネコのように音もなくうろうろしていた紫乃も弓奈の斜め前に座った。なんだかとても落ち着つく時間である。ステンドグラスで淡く光る鼻の高いキリストをぼんやり眺めながら、弓奈は考え事をした。
たしかどこかの国のジュリエットちゃんはバルコニーで『あなたはなぜロミオなの!』と言ったらしい。なんだかよく分からない台詞だが、『ロミオ』というのはジュリエットの家と対立する一族の名前なのであり、つまりは彼女たちの立たされた不幸な境遇を呪った台詞ということになる。かなり独り言の多いお嬢ちゃんらしく、ジュリエットはその後にこんなことも言っている。
『名前にどんな意味があるというの。私たちがバラと呼んでいる花は、他のどんな呼び方をしたって同じように甘く香るわ』
弓奈は実家のトースターの側面に母がアクリル絵の具で書いた落書きからこの言葉を知った。生まれや社会によってプロフィールを押し付けられ、それで他人と仲良くなる権利が失われる星を弓奈はあまり好きになれない。午前中に出掛けた平和学習の感想を自由に書くページが旅行のしおりに入っていたのだが、白い花のたくさん付いた一本のバラの木を大きく描いておこうと弓奈はこの時思った。そんなものを提出したら先生に怒られてしまいそうだが、彼女なりにこの世界と、この世界で暮らす人々のことを一生懸命考えて出した答えなのだから尊重はして欲しいものである。あなたは何も分かってない、そう叱られるのはもう少しオトナになってからでいいかなと弓奈は思っている。今は自分の胸の中の平和とささやかな愛の取り扱いで手一杯だから。
「紫乃ちゃん」
弓奈が声をかけると、紫乃は髪を揺らしてゆっくり振り向いてくれた。
「なんですか」
紫乃の瞳や頬がいつもより近く、鮮やかに見えた気がした。
「・・・なんでもない」
「な、なんですか・・・弓奈さんは最近そういうの多いです。言いたい事があるなら言ってください」
「別に♪ なんでもないよ」
弓奈は前の椅子の背もたれに頬杖をついて微笑み、胸の高ぶりと痛みを上手くごまかした。
ところで、香山先生が見当たらない。
「どこへ行ったんでしょう」
弓奈と紫乃はハート型の石を探すことに夢中で先生のことを全く気にかけていなかった。
「んーさっきまで三浦環の像と遊んでたけど」
像とすら遊べる才女香山ちゃんがグラバー園から姿を消したのだ。
「迷子は困ります・・・先生とは言え私たちの班のメンバーですから」
「そ、そうだね」
今どさくさに紛れて紫乃が恋が叶うと噂のハートの石にタッチした気がしたが、弓奈の気のせいかも知れない。
さて像のそばへ行ってみると、ベンチにこんな手紙が置かれていた。
『倉木さん、すず原さんへ。私は思い出を探しに旅に出ます。探さないで下さい。先生より』
紫乃はため息をついた。
「別行動は困ります・・・」
「鈴っていう字書けなかったのかな・・・」
「迷うところですが、やっぱり先生を探しましょう。班員が欠けたまま旅館に戻ることは私のプライドが許しません」
「探さないで下さいって書いてあるけど」
「探します」
「は、はい」
いかなる事態に陥っても班長としての責務を果たすことが紫乃の誇りらしい。弓奈にしてみればこのまま先生が見つからないほうが幸せだったりするのだが、少なくても探している最中は紫乃と二人っきりを堪能できるのでわるくない環境ではある。
二人に与えられたヒントはたったひとつ『思い出を探しに』である。
香山先生はサンキスト女学園出身であり、しかも比較的最近卒業した女性であるので、彼女が長崎の思い出を持っていたとしたらそれは修学旅行の時のものである可能性が高い。弓奈と紫乃は観光バスに戻って地図を開いていた。
「んー・・・香山先生が修学旅行でどこ行ったかなんて分かんないからなぁ・・・」
「そうですね」
相談をしていると、バスガイドのおねえさんがバスに戻ってきた。
「あら、こんにちは」
「こんにちは」
「自由行動のお時間じゃないんですか」
「ええ、そうなんですけどちょっといろいろありまして。人探しゲームの時間になっちゃいました」
バスガイドのおねえさんは若いくせに落ち着いていて、なおかつ笑顔が素敵な非常に好印象な女性である。
「ヒントはあるのかしら」
「えーと、思い出の場所・・・だそうです。その人は私たちの学園のOGで、何年か前に同じように修学旅行に来てるはずなんですけど」
「あら、それだったらお手伝いできるかもしれないわ」
「ホントですか」
バスガイドのおねえさんはアルミケースから分厚いファイルを取り出して弓奈たちに見せてくれた。
「サンキスト女学園さんの修学旅行のしおり、7年分くらい入っていますよ」
「わー・・・ありがとうございます」
なかなか物持ちのいい旅行会社である。さっとしおりに目を通した結果、自由行動で出掛けていいスポットというのは何年か前に狭められたらしいことが分かった。
「弓奈さん、これで分かりましたね」
「え、なにが?」
「先生の居場所です」
香山先生が現役女子高生だったころの班別行動が今よりもちょっとだけ自由度の高いものだったということは分かったが、それが先生の居場所特定に繋がるとは弓奈には思えなかった。
「いっぱい行けるところあったみたいだけど・・・どこが思い出の場所か分かるの?」
「分かります」
「ど、どうして?」
紫乃の推理が始まる。
「先生の思い出の場所が現在も私たちが行ける場所、つまり今日の自由行動で足を伸ばせる範囲にあったのならば、わざわざ置き手紙をして一人抜け出す必要なんてないです。私たちを誘って出掛ければいい話ですから。でもあえて一人で抜け出したということは、先生の思い出の場所は・・・」
紫乃はしおりと地図を見比べてある場所を指差した。
「ここです!」
犯人の名前は稲佐山だった。稲佐山は集合場所から遠いという理由で外されてしまった山で、ロープウェイを使って東京タワーくらいの高さに上り、展望台から街を一望できる人気スポットである。ここに先生はいるのだ。
「行きましょう、弓奈さん」
「でも、行っちゃダメな場所なんじゃないの」
「勝手にここへ行った先生がわるいんです。すぐに行きましょう」
紫乃は弓奈と二人で先生を探すゲームを楽しんでいるようである。班長としての責務とやらは自由行動の範囲には縛られないらしい。
「そうだね。じゃあ行こうか」
「はい」
「バスガイドさん、ありがとうございました」
バスガイドさんはにっこり笑った。
「いいえ、お役に立てて嬉しいですわ」
しゃべり方が小熊先輩に少し似てるなと弓奈は思った。
バスに乗って稲佐山のロープウェイ乗り場のそばまでやってきた。
標識に従って歩いてみるとなぜか神社にたどり着いたが、乗り場は境内の脇にあるらしい。静けさが弓奈をちょっぴり不安にさせる。
「ロープウェイ休みだったりして」
「それは許しません」
一体何を許さないんだろうと弓奈は思った。
「あ、あれだ! 運行してるみたいだね」
「結構ちゃんとした施設なんですね」
一体どんな施設を想像してたんだろうと弓奈は思った。
「すみませーん、高校生二人往復でお願いします」
「サンキスト女学園です」
紫乃ちゃんは不思議なタイミングで学園の宣伝をするなぁと弓奈は思った。
運行には少々間隔が開いているらしく弓奈たちは暖かい待合室でゴンドラの到着を待った。
「小腹が空いたね」
「香山先生が消えなければ今頃中華街を歩いている予定でしたからね」
「ちゃんぽんとか食べてたかな」
「夕ご飯が食べられなくなりそうですね」
「紫乃ちゃんはちゃんぽん好き?」
「食べた事ないです」
「そっか」
「ラーメン系は食べた事ありません」
「え!?」
「・・・なんでそんなに驚くんですか」
「し、紫乃ちゃんラーメン食べた事ないの?」
「・・・いけませんか」
「いやぁ、別に」
箸で食べる麺類を全く食べた事がないお嬢様は全国に案外いるので、もし出会ったときもそんなに驚かないであげて頂きたい。確かに紫乃ちゃんが麺をすすっているところなど弓奈には想像できない。
「あ、来たみたいです」
「ホントだ、行こう!」
未来の鳥かごみたいなゴンドラがやって来た。床以外のすべてが透け透けであり、高所が苦手な人には地獄の馬車に見えること請け合いなデザインである。弓奈たちは広いゴンドラに貸し切り状態で乗り込んだ。
と思ったが、乗ってきたのはもう一人いる。このロープウェイの会社のおねえさんだ。彼女はバスガイドさんのような人で、ゴンドラから見える景色や観光地としての稲佐山についてなどをマイクでしゃべってくれるのだ。弓奈たちは少々照れながら端の座席に腰掛けておねえさんの言葉を待った。
ところがゴンドラが動き出してからも彼女はなかなかしゃべり出さない。「えーと・・・」とか「あーん!」とかは言ってくれるのだが、いまいちガイドっぽい情報は弓奈たちの耳に入ってこなかった。可哀想に彼女もまたモテレベル5の弓奈の魅力に精神をやられてしまった犠牲者である。
紫乃ちゃんが足をピーンと伸ばして固まり始めた頃、ゴンドラは終点に到着した。
「あ、おねえさん」
「ハ、ハイ!?」
「少し前に、一人のくせにやけに明るい20代前半の女性来ませんでしたか」
「や、やけに明るいっ・・・いいえ、いらしてま・・・っません」
「そうですか。ありがとうございました」
「ハイー!」
ロープウェイの終着点が山頂というわけではないが、すでに景色は素晴らしかった。昨夜や今朝に見た旅館からの景色は確かに奇麗だったがもっと標高は低かったし、室内からの眺めだったので、こんな開放感はなかったのだ。弓奈は市街地のほうの眺めにももちろん惹かれたが、南西方向の眺めも素敵だと思った。傾いた陽の陰を抱くその島並みは自分が今までに肉眼で見たどの景色にも似ていなかった。
「行きましょう。展望台はあっちです」
「うん!」
二人は小走りに風の強い通路を駆け抜けていく。弓奈はこっそり胸の中で、こんなデートみたいな時間をくれた香山先生に感謝した。
夕焼けに輝く展望台が現れた。この建物も外見はかなり透け透けだったが中は暖かかった。二人は巻貝のように螺旋状で上っていくフロアを駆けながら先生を探した。
「紫乃ちゃん」
「はい?」
「屋上だよきっと」
「行きましょう」
帰る時間を含めるともうあまり時間に余裕がない。二人は外階段を駆けながら、この先に先生がいることを願った。香山先生の存在そのものはあまり重要でないかもしれないが、二人の思い出のささやかなゴールがここにあって欲しいと弓奈は思ったのだ。
茜色の世界に彼女はいた。
手すりにもたれぼんやりと街を見おろす香山先生の髪が、沈む夕日を惜しむように西へ吹かれて揺れていたのだ。弓奈はすぐにでも先生に駆け寄って「見いつけた!」とやりたかったところだが思いとどまってしまった。彼女が泣いている気がしたからだ。弓奈の見間違いでなければ、先生の横顔には夕日と同じ色の涙が伝っていた。
「先生、見つけましたよ」
香山先生の様子がおかしいことに気づかなかった紫乃は平気でそう声をかけた。先生は一度伸びをする振りをして顔を袖でふいてからこちらを向いた。
「ひぇえ! なんで見つかったのぉ!」
そこにいるのはもういつもの香山先生だった。
あの場所に香山先生のどんな思い出が隠されていたのか弓奈には全く分からない。しかし、この日を境にあの場所には弓奈と紫乃の思い出も住んでいると言える。この世界は、修学旅行に限らず様々な機会に人や動物との思い出を作りながら回っているのだ。もしかしたら人間のほうが忘れてしまった思い出を、物や場所のほうが覚えてくれていることもあるかもしれない。ふとした拍子に誰かを孤独感から救ってあげる、そんな素敵な役割を人間が独占できるほどこの星は軽くないのである。
弓奈と紫乃のしおりの記録ページは、たくさんの字と絵で埋め尽くされた。




