110、長崎の夜
「皆さん、バスは長崎市内に入りました」
バスガイドさんの奇麗な声に紫乃は目を覚ました。なんと紫乃は弓奈の肩にもたれて眠っていたのだった。慌てて背筋を伸ばしたがもう遅く、「おはよう」と優しく弓奈に言われてしまった。うつむいて顔を赤くする以外になにもできない。
「皆さんが本日お泊まりになる長崎チャーチベルホテルへはあと5分ほどで到着の予定となっております」
いつのまにか外は暗くなっており、バスはけっこう急な坂を上っている。時折家々の隙間に長崎港がきらめいて見えた。紫乃はぺったんこになった後ろの髪を手櫛で必死に整えた。
「紫乃ちゃん」
「な・・・なんですか」
「えへ、なんでもない」
なぜか弓奈がにこにこしている。もしも寝顔を見られてしまったとしたら『紫乃ちゃんったら普段はクールな感じを出してるくせにこういうところでははしたなく居眠りするんだ』みたいに呆れられるに違いないので、どうやら寝顔は見られなかったらしい。
「弓奈さん、忘れ物はしちゃだめですよ」
「はーい」
紫乃たちは降りる準備を始めた。
ふと気がついてみると、A班で一番元気な子が見当たらない。紫乃は座席の隙間から後ろを覗いた。
「香山先生、起きてください」
二人席にたった一人で腰掛けて眠っている香山先生が、ちょっとだけ寂しそうに見えた。
「んん・・・」
「もうすぐホテルに着きますよ」
「うん、おはよう・・・」
この人は教師ではなく完全に生徒だなと紫乃は思った。
旅館の眩しいエントランスはとても暖かかった。
大勢の従業員さんがおじぎで出迎えてくれたが、そのほとんどが弓奈を見た瞬間仕事を忘れて息を飲んでいた。隣りを歩く紫乃は改めて弓奈の凄さを目の当たりにした気がした。
あらかじめ旅館に送ってあった荷物を広いロビーで受け取った紫乃たちは、班に別れて自分たちの部屋を目指すことになっている。
「506行こう!」
「はい」
やたらキラキラしたエレベーターに大勢で乗り込み、紫乃たちは5階を目指した。エレベーターの鏡に映る自分が他の生徒達より少し小さい気がして紫乃は背伸びをしてみたりした。
全ての部屋のドアが開いているが、これはおそらく修学旅行仕様である。506の入り口には欠席した二人を含めた4人の名前が書かれた紙が下がっていた。
「そういえば香山先生は?」
「え! あの人は部屋も一緒になるんですか!?」
「バスの中でそう言ってたよ」
弓奈と二人きりなど夢のまた夢だったらしい。
部屋は新しい畳の香りがする奇麗な和室だった。
「着いたぁ!」
重い荷物を置いた弓奈は座布団にぺたんと座り込んだ。誰でも旅先の旅館の部屋にたどり着くとほっとする。
「夕食は和食なのかなぁー」
「弓奈さん、まず手を洗わなきゃダメです」
「はい!」
「夕食はたぶん和食ですね」
「珍しいよね。学園の食堂には箸が置いてないくらいなのに」
「学を修める旅行ですから、普段は経験できない食生活を味わうことも大切です」
明るい洗面所の大きな鏡に二人が一緒に映っている。生活感のある場所に弓奈と肩を並べている事実が紫乃の頬をぽっと温めた。
二人はしおりの記録ページを埋めながら部屋で夕食の時間を待った。広間での食事だが、集合時間まではまだ時間がある。
実はこのタイミングで制服からジャージに着替えなくてはならないのだが「着替えましょう」という一言が紫乃は言い出せなかった。なんだか気恥ずかしいのである。
「紫乃ちゃん」
「は・・・はい!」
「いや・・・なんでもない」
「そ、そうですか」
二人っきりの時間に紫乃はドキドキしてしまって、しおりの記録ページに書くことなどさっぱり浮かんで来なかった。
「あ」
弓奈は何やら思いついた様子で長い脚をすらりと伸ばして立ち上がると窓の方へいってしまった。紫乃はその美しすぎる背中を横目で追った。
「おおお!」
弓奈が何やら歓声を上げた。
「紫乃ちゃん! 来て来て!」
「なんですか」
カーテンを開けて大きな夜の窓の真ん中に立つ弓奈の後ろ姿が、紫乃の瞳の中で絵になった。
「港が見えるよ」
「港・・・?」
そこには長崎港を見下ろす夜景が広がっていたのだ。それはクリスマスに見た街明かりとはひと味違っており、まるでいにしえの海賊たちが探し求めていた金貨が湾にたくさん流れ着き、輝いているような夜景だったのである。
「奇麗だね」
「はい・・・」
ガラスに映る弓奈を見つめながら紫乃は答えたのだった。
「倉木さぁーん、鈴原さぁーん」
マイペースな声が部屋の入り口から聞こえてきた。
「到着う♪」
「あ、先生ようこそ」
香山先生はどういうわけか既にジャージに着替えている。生徒なのか教師なのかはっきりしない女である。
「あれぇ? 生徒は今のうちに着替えるんじゃないの」
先生は実にあっさりとそう言ってくれた。
「そうでした! 弓奈さん着替えましょう」
「そ、そうだったね! すっかり忘れてた」
お互いに背中を向けながら着替える二人を、香山先生はクッキーを食べながら不思議そうに眺めていた。
広間の前にスリッパが大集合した。
紫乃は生徒会長なのでマイクを持っていただきますの挨拶をした。普段は弓奈を狙ってヨコシマな知謀を巡らし、理性の欠片も感じさせないばか騒ぎを起こすサンキスト女学園の生徒たちだが、公共の場でのお行儀の良さに関してはどういうわけか全国トップクラスである。紫乃の素晴らしい挨拶もあって旅館の人たちは学園の気風に度肝を抜かした。
「それでは、いただきます」
「いただきます」
しかしひと度いただきますの挨拶をすれば割と普通の食事風景であり、久しぶりに使う箸に感動したり、お吸い物を飲むのにスプーンを欲しがったりする生徒も中にはいたが、ほとんどが普通の高校生である。
「ちょっとあんたさ、この甘いのちょうだい」
「舞・・・自分のがまだ残ってるじゃん」
「うちのはあとでまた食べんの。いただきまーす」
「あ! ちょっと!」
紫乃たちの丁度背後で他のクラスの少女たちがもめている。紫乃は関わりたくないというアピールのためにしっかりと背筋を伸ばしてお魚を食べ続けた。
「お! 鈴原じゃん」
紫乃はお肉は苦手なのだが、魚はかなり好きである。
「ねえ鈴原」
食べるのも好きだが、魚は泳ぐ様子を見ているのもなかなかに楽しい。
「おい鈴原」
いつか弓奈さんと一緒に水族館とかに行きたいなと紫乃は思った。
「鈴原ぁ!」
「なんですか」
「なんで無視すんの」
「あなたがうるさいからです」
「ねえ、その甘いやつさ、食べないんだったらうちにちょうだい」
「食べます」
「食べてないじゃん」
「この後食べるんです」
「えー、まじでさぁ、食べないんならちょうだいよぉ」
けんもほろろな紫乃の態度にテニス部の姉貴安斎舞さんはたじたじである。
「あのー・・・安斎さん」
二人の様子を見て話しかけたのは弓奈だった。
「よかったら私の食べますか?」
天使のような女である。面倒事は嫌っているが、友達が困っている場合にはこうやってすぐに手を差し伸べるのだ。
「いや・・・やっぱりいらない」
舞は弓奈の顔を見たとたん大人しくなり、元の席に戻った。紫乃にしてみれば愛する弓奈さんの慈悲深い提案をあのような適当な断り方をして去って行く彼女に少々物騒な感情を抱かざるをえなかったが、弓奈さんの食べ物を持っていかれるような事態よりはマシなので特になにも言わなかった。もしも次に同じようなことがあれば舞にネコパンチしてやろうと紫乃は思った。
「紫乃ちゃん」
「なんですか」
「ほっぺにごはん付いてるよ」
「え!」
ホームルームが終わると、まもなくお風呂の時間である。
しかし全ての生徒の憧れである弓奈が素っ裸で彼女たちと一緒にお風呂に入れば、なにかいけないことが起こる可能性があり、事前に教頭先生に遠回しな表現で相談したところ部屋のシャワーを使っていいことになった。こういった旅行では全員が全員大浴場に行けるわけではないので別に珍しいことではない。
「倉木さぁん、鈴原さぁん。お風呂行こう♪」
何も知らない香山ちゃんはポップなビニールバッグを抱えて二人を誘ってきた。
「先生、紫乃ちゃんはいいんですけど私は部屋のシャワーを使います」
「お風呂いけないの?」
「んー大丈夫なんですけど、大丈夫じゃないんです」
「ふーん」
香山先生は大きなお目々をぱちぱちさせて何やら考え出した。変なことを言い出す前に香山先生を大浴場に連れて行くべきかなと紫乃は思った。
「じゃーあ、消灯の直前に三人で行かない?」
紫乃は先生を部屋から連れ出しかかっていたが、思わず足を止めた。
「え、もしかして消灯の直前は誰も利用しないんですか」
むしろ紫乃のほうが興味津々で先生に尋ねてしまった。
「うん。貸し切りの旅館でぇ、生徒の入らない時間ってことはぁ、ガラガラでしょ! 先生たちは部屋のシャワーを浴びることになってるみたいだからね」
あなたは一体なんなんだと紫乃たちは思った。
ともかく三人は消灯の50分前に大浴場へ行く作戦をとることにした。
散らかっているかなと思っていた脱衣所はとても奇麗だった。
学園生徒たちの天然なモラルはもはや非常識な領域に達していて、おしゃべりしながら拭き掃除までする子がいるくらいなので、彼女たちがここへ来たときよりも去った後のほうが脱衣所が美しくなっているくらいである。
「大成功ぉ! 誰もいないうちに早く入ろー!」
「は、はい」
香山先生はあっという間にすっぽんぽんになってお風呂場へ行ってしまった。妙に無口になった紫乃と弓奈は物陰に隠れながらお互いに背を向けて服を脱いだ。服を着ていないというだけで心は野ざらし、些細なことで本心が露になってしまいそうな危うさを紫乃は肌で感じたのだった。
「行こっか」
「は、はい」
ちらっと見てしまった弓奈さんの体・・・タオルの陰から覗く二つのおっきな桃とめくるめく肌色の世界に紫乃の頭は沸騰寸前だ。やはり紫乃にとって弓奈の体は直視するにはあまりに刺激が強すぎるもののようである。
「お背中流してあげるね♪」
紫乃が髪にトリートメントをしていると香山先生がやってきた。
「別にいいです・・・」
「遠慮しないでぇ、さぁ、洗いますよぉ」
子どもが適当に窓を拭くときのような手つきで先生は紫乃の小さな背中を洗い始めた。ときおり胸のほうに手が回る時があってドキッとする。
「あ、じゃあ二人ともあっち向いて。私が鈴原さんのお背中流すから、鈴原さんは倉木さんのお背中流してあげよう」
「え!」
三人は同じ方向を向いて縦に並び、背中を洗い合った。このときの紫乃の興奮は言うまでもない。自分の目の中いっぱいに大好きな弓奈の素肌が映っているのだから、手が震えるレベルである。美味しそう・・・この背中におもいきり抱きついて、彼女の首や肩のあたりをいっぱいはむはむしたい・・・紫乃は顔を真っ赤にしながら丁寧に丁寧にタオルで弓奈の背をなぞった。
「じゃあ、交代ね。みんな回れ右ー♪」
「え!」
紫乃はいちいち驚いているが無理もない。自分が弓奈にお背中を流してもらえるなんて考えてなかったからだ。
弓奈の視線を感じて紫乃の耳は真っ赤だ。今弓奈さんが見ているのは私の肩かも知れない・・・腰かも知れない・・・首かも知れない・・・などと考えると全身が固まって動けなくなる。
「んっ・・・」
弓奈のタオルが背中を優しく滑った瞬間変な声を出してしまった。
「し、紫乃ちゃん大丈夫?」
「はい・・・なんでもないです」
紫乃はどうでもよい香山先生の背中をごしごし洗って正気を維持しながら、甘美なるお背中の体験に酔った。弓奈はゆっくり丁寧に、紫乃の肩や腕のほうまでタオルでなでなでしてくれたので、紫乃は夢を見ているかのようだった。
このとき、弓奈のほうも顔を真っ赤にしていたことを紫乃は全く知らないのだ。
「先生のお布団ここー♪」
「あ、先生、真ん中はもう弓奈さんが予約済みです」
「はじっこ怖いんだもん。窓から何か入って来そうで」
「窓のほうが香山先生を怖がっているくらいですから大丈夫です。さ、あっちでゴロゴロしてください」
「はーい・・・」
妙な時間にお風呂に行ってしまったせいであっという間に消灯時間である。紫乃は弓奈の歯磨きが終わるのを待ちながら先生をはじっこの布団まで転がした。
「消灯時間です。電気を消してください」
しばらくするとめずらしくメガネをかけた教頭先生が消灯時間を知らせるために各部屋を回り始めた。教頭先生はコンタクトレンズだったらしい。
「紫乃ちゃん、どれくらい電気消す?」
「全部消しましょう」
「やぁだ先生怖いい!」
「・・・じゃあ靴箱とかがある場所の電気は点けておいて、ふすまを閉める感じでいいですか」
「全部消しましょう」
「やぁだ全部消しちゃやぁだ!」
「・・・先生、こっちは点けておきますからね」
「うう・・・」
弓奈が面倒な教師を説得し終えると、部屋はとっぷりと夜の闇に沈んだ。紫乃の枕元を過ぎて自分のお布団に入る弓奈を追いかけるように、ふんわりと甘い香りが漂った。
香山先生あたりは消灯してからもきゃっきゃと騒ぐものかと思っていたのだがかなり大人しいので、紫乃は暗闇に訪れたよそよそしいような静寂に身動きが取れなくなった。物音がしていた隣りの部屋もしばらくすると静まり返った。案外みんな大人しく眠るものなのかもしれない。弓奈も全く動く様子がないので、紫乃はカバーがやたらかさかさするが柔らかいお布団に顔を半分うずめて、今日一日を振り返ることにした。
自分は嘘つきだなと紫乃は思った。
本当は別にクールじゃないし、かっこよくもないのだが、弓奈と友達でいたいからという理由だけでくだらない嘘をたくさんついている気がした。飛行機は慣れているので離着陸は怖くないだなんて大嘘であるし、もっと言えば先程の「全部消しましょう」だって実際に全部消されたら紫乃は怖くて眠れなかったことだろう。見栄を張り、嘘で固めた毎日が紫乃の青春なのである。こんなことをしていたらいつか弓奈さんから嫌われてしまうに違いない・・・・沈みきった真っ黒い夜の中で、紫乃の小さな胸はずきずき痛んだ。
「・・・紫乃ちゃん」
紫乃は耳も顔も一瞬で熱くなってしまった。聴き間違いかなとも思ったが確かにその声は現実のもので、弓奈の口から発せられたささやきであった。
「紫乃ちゃん起きてる?」
紫乃はお布団をごそごそいわせて弓奈のほうを向いた。
「・・・はい」
「ちょっとだけお話しよ」
「お話?」
「うん」
弓奈は枕ごと紫乃のそばに移動してきた。ちょっとお布団から手を出せば頬に触れられそうなくらいの距離である。確かに香山先生に気づかれずに内緒話をするにはこうして向かい合うしかないのだが、紫乃は体じゅうがじんじんしてしまった。
「お話ゲーム」
「えっ」
「冗談冗談」
弓奈はくすくす笑う。髪をほどいているときの弓奈さんはまた格別に素敵だなと紫乃は思った。
「あのね」
「はい」
「んーと・・・あのね」
「は、はい」
弓奈は変な間を置いたり、照れ笑いのようなものを挟んだりしてなかなか本題を話さない。暗くてお互いの表情などほとんど分からないのだが、それでも弓奈の様子がいつもと少し違うことは分かった。
「あのね・・・紫乃ちゃん」
「はい」
「友達になってくれて、ありがとう」
紫乃はもうここが修学旅行先であるとか、お布団の中であるとかそういったこと全てを忘れて弓奈の瞳と声に心の全て奪われた。
「一年の時にね、紫乃ちゃんと友達になれなかったら、今頃どうしてたかなって思うと、今がすごく幸せな気がして・・・」
「・・・はい」
「ホントにいい友達だなって・・・いい友達・・・」
弓奈は辛そうな顔をして少し言葉をつまらせた。
「・・・とにかくね、友達になってくれてありがとう」
「・・・はい」
「今まであんまり言う機会なかったから、言ってみました♪ これからも、ずっと仲良くしてね」
弓奈が花みたいに微笑んだことは、暗闇の中でも容易に感じられた。
「・・・はい」
自分がなにをしゃべっていいのかサッパリ思いつかなかった紫乃はかすれた声でそう返すのが精一杯だった。
「えへ、それだけだよ♪ おやすみ」
弓奈はそう言って紫乃の鼻先を優しくつつくと、枕を持って定位置に帰っていったのだった。
ごくごく短いひそひそ話だったが、紫乃の心は大きく揺さぶられ、得体の知れない感情が彼女の胸をいっぱいにした。紫乃は慌てて弓奈に背を向けてお布団に潜り込んだ。
いつか絶対に素直になる・・・嫌われてしまう勇気と覚悟を手に入れたら、いつか必ず本当の自分をこの人にぶつけよう・・・紫乃はそう思った。それがせめてもの恩返しになり、運命への誠意である気がしたのだ。雪解け水のように澄んだ弓奈の言葉が紫乃の心をいっぱいにして、そこからあふれようとする想いが彼女の目をお風呂場みたいにしてしまった。
彼女の熱い涙がひとつ長崎の夜に落ちた。




