109、おしゃべりフライト
修学旅行へ出掛ける朝、ちょっとした事件があった。
「緑川さんと松野さんが欠席!?」
弓奈は直接集合場所になっていた学園内ロータリーの観光バスの中でその知らせを聴いた。緑川さんと松野さんは弓奈たちと同じA班の生徒であり、彼女たちはそれぞれの理由でこの旅行を欠席することになったのだ。
新体操部の緑川さんは弓奈と一緒の班になったことに浮かれて連日奇妙な夜更かしをし、今朝は寮の廊下でぶっ倒れる高熱を出してしまった。お陰で一緒に旅行へ行くはずだった保健室の先生も学園でお留守番である。
パスタ愛好会の松野さんは弓奈のために何か美味しいものを作っていこうと長野県にある祖母の家へ特製米粉マカロニを貰いに出掛けたはいいが、帰りの電車賃が無くなってしまったためお金がたまるまで祖母のお餅屋で働かされているらしい。ケチなおばあちゃんである。
「それじゃ、私たちの班は二人だけになるんですか?」
弓奈と紫乃は窓から顔を出してバスの外にいる教頭先生にそう訊いてみたのだが、回答はすぐ前の座席から返ってきた。
「先生が一緒に行きまぁす!」
なんだか胃が重くなった。そこにいたのは天真爛漫さと足の早さに定評のある体育教師、香山ちゃんである。
「か、香山先生がご一緒に班別行動をして下さるんですか・・・」
「うん! 教頭先生が許してくれたからぁ♪ いいでしょう?」
「も、もちろんです」
「えへ。長崎久しぶりなんだぁ♪」
「そ、そうですか」
紫乃ちゃんと二人きりという状況を物凄く期待してしまった弓奈にとってこれはひどくガッカリな付き人であるが、香山先生は別に弓奈の体を狙っているような種のものではないので危険はないはずである。香山先生は同い年よりも幼いのではないかと思えるような真っ白いまぶしさで笑ったのだった。
さて、修学旅行を充実させるポイントは移動時間の使い方にあると言える。
今年のサンキスト女学園の修学旅行も例年通り行き先は長崎であり、学園の寮から長崎市内の旅館に至るまでには大型バスと飛行機を乗り継ぐ大移動が必要とされている。例えばこの時間の全てを隣りの席のお友達とのおしゃべりに費やしたとしたら、車窓と共に旅の興奮を余す事なく味わうことができ、尚かつ夜はグッスリ眠れることだろう。優等生にぴったりな健康的な過ごし方と言えるかもしれない。しかし弓奈が狙っているのは、あえてバスの中で時々うたた寝をすることによって、ドキドキな夜更かしを楽しむ作戦である。お昼寝をしておけば夕方以降も元気でいられるはずなのだ。
「紫乃ちゃんおやすみ。空港に着いたら教えてね」
「もうすぐ着きますよ」
「え・・・早いね」
「予定通りです」
「そっか」
今日もやっぱり紫乃ちゃんはクールでしっかり者である。弓奈は長崎の観光雑誌はたくさん読んだが、肝心の修学旅行のしおりにあまり目を通していないので予定がいまいち分かっていない。
「飛行機って何時間くらい乗るの?」
「2時間です」
「2時間かぁ」
1時間くらいは寝られるかもしれない。飛行機の中も隣りの席は紫乃ちゃんなので、眠っている最中に他の生徒から襲われることはない。寝ているときに例えば胸を触られたりすると変な夢を見てしまう可能性があり、そんな時に誤って『紫乃ちゃん・・・!』などと寝言を口走ったらおしまいなのだ。
「ねえ紫乃ちゃん」
「な、なんですか」
「飛行機の中で私、眠るつもりだから、よろしくね」
「わ、わかりました」
こんなことを真剣な顔で言われても紫乃だって困ってしまう。
とにかく空港に着いた。
20分ほどの休憩があるが、弓奈と紫乃はさっさと搭乗口前に集合して大きな窓から飛行機たちが春の日差しにきらめくのをぼんやり眺めていた。
「紫乃ちゃん」
「なんですか」
「私、飛行機乗ったことないんだけど」
「そうですか」
「紫乃ちゃんは?」
「私は何度もフランスに行っているので」
「そっかぁ。離着陸って怖くない?」
「全然怖くないです。慣れてますから」
「すごいなぁ・・・」
弓奈は紫乃のかっこいい横顔をちらっと見て言った。
「ねぇ、飛行機ってホントに飛ぶの?」
やや間があって、紫乃が呆れた顔でこっちを向いた。
「・・・なにを言っているんですか」
弓奈は紫乃のこの顔が大好きである。この冷たいお目々で見られると胸がドキドキするのだ。
「なーにしてんのぉ?」
「わ!」
突然やってきて弓奈の肩にあごを乗せてきたお茶目さんは香山先生である。彼女はなぜかもうお土産を買ったらしく、両手にお菓子やら飛行機のぬいぐるみやらを抱えている。そのまま帰ってもいいんだよと弓奈は心の中でちょっとだけ思ったのだった。
「あ、先生。紫乃ちゃんとしゃべってただけです」
「香山先生・・・生徒の肩で休まないで下さい」
「あは。同じ班なんだからぁ、私も入れて」
先生はやたら石鹸の香りがする。三人は窓際の柔らかい長椅子に腰掛けて飛行機が飛ぶ仕組みについて語り合った。長い議論の末、弓奈が胸の中で導き出した結論は『よく分からない』である。
弓奈は初めての飛行体験に胸が非常に高鳴っていたので、パッセンジャーボーディングブリッジとかいう名前のついた搭乗通路を小走りに駆け抜けた。ホントは紫乃の手を引いて行きたかったがとてもではないが恥ずかしくて手は繋げないので一人で駆けてしまった。幸い紫乃も弓奈のあとを追ってパタパタと走ってくれたようである。
「おお!」
壁がアコーディオンのようになったかと思うと、大きなレバーの付いた分厚いドアが口を開けて弓奈たちを待っていた。急に弓奈が立ち止まったので紫乃が弓奈の背中にぱふっとぶつかってきた。
「い、痛いです・・・なんで止まるんですか」
弓奈のほうは全然痛くなく、むしろ気持ちよかったくらいだがそんなことを冗談でも口に出してしまったら嫌われてしまうので言わなかった。
「いや、すごいなぁと思って。入ろう!」
ちなみにこのとき入り口に立っていたキャビンアテンダントのおねえさんは弓奈のあまりの美貌に仕事も忘れて魅入っていた。このような状況は旅先でもたくさんあるはずなのでいちいち反応するわけにはいかない。
機内は大きな新幹線のようだった。
弓奈と紫乃は左の窓に接する三人席に並んで座ることになっている。
「紫乃ちゃん窓側に座って」
「え・・・弓奈さん飛行機初めてなら窓側のほうが楽しいんじゃないですか」
「いいのいいの」
「そうですか・・・」
紫乃の顔がなぜか少しこわばっていた。
弓奈が紫乃に窓際の席を譲ったのにはわけがある。当然弓奈は窓からの景色を楽しみたいのだが、端っこに座っておいて窓の外を見ていると全く紫乃ちゃんのことが見られないのである。弓奈は紫乃の横顔越しに景色を楽しもうと思ったのだ。
「じゃあ先生ここね!」
「え!」
どこからともなく体育教師が現れ、紫乃の隣りの席にすべり込んだ。
「せ、先生・・・私少し景色見たいのでその席を譲っていただけませんか」
ちなみにチケットの番号から言ってもその席は弓奈のものである。
「あ、ホント? あは。ごめんねぇ」
先生は大人しく弓奈に席を譲ってくれたが、今度は弓奈の隣りに座った。
「先生って生徒の席に座って大丈夫なんですか?」
「ここ緑川さんの席だから。教頭先生からねぇ、許可もらったの」
教頭先生はなぜか香山先生に甘い。かくして紫乃、弓奈、香山先生の順に席が決まったのだった。
飛行機がゆっくり動き出して弓奈ははしゃいだ。
「紫乃ちゃん見て! シートベルトを閉めて下さいっていうランプ本当にあるんだね!」
「は、はい」
ふと見ると紫乃は小さな手でひじかけをぎゅっとつかんで足をピンと伸ばしている。
「紫乃ちゃんどうしたの?」
「べ、別に・・・」
香山先生は鼻歌を歌いながらキョロキョロ周囲を見回している。目が合うと指で肩をつついてきた。
「倉木さんってさ、奇麗だよね」
「あ・・・ありがとうございます」
「あはー♪」
実に絡みづらい先生である。
しばらく動かなくなったかと思うと飛行機は滑走路を急に走り始めた。背もたれに押し付けられるような強烈な加速度と耳の底に響くような振動。さっきまでとは違う本気の走りである。言わば体育祭モードだ。生徒達はきゃあきゃあ言った。
「わああ・・・もう飛ぶのかな」
紫乃ちゃんに言ったつもりだったのだが返事はなく、代わりに香山先生の笑い声が右耳でくすぐったかった。ふわっと機体が浮いたかと思うと機内が斜め上がりになって左右にぐわんぐわん揺れた。空を飛ぶというのは弓奈が想像していたよりもずっと不安定で不可思議な世界だったらしい。窓は遠い水平線を斜めに引いて街をどんどん小さくしていった。
「すごーい・・・飛んだー!」
あまりはしゃいでいると恥ずかしいので小声でそう感想をもらした弓奈は窓を覗くふりをして紫乃を見た。紫乃は相変わらずなにも言わずに椅子にしがみついたままで、目をぎゅっと閉じている。
「紫乃ちゃん、飛んだね」
「うう・・・」
ちょっと変わったお返事である。とにかく飛行機は水平になり、揺れも穏やかになったのだった。弓奈はしばらくのあいだ窓を見てはしゃぎ、海を見下ろしたり富士山を探したりしていたがだんだん落ち着いてきた。隣りの香山先生がくれた滑走路クッキーとかいうただの長方形のクッキーを美味しくいただきながら、弓奈は先程の計画を思い出した。
「そうだ紫乃ちゃん。私少し寝るから、オーロラ見えたら起こしてね」
「ずっと寝てて下さい」
「冗談だよっ。おやすみ♪」
紫乃から冷たいつっこみを頂けたところで弓奈はうとうとすることにした。
が、それを邪魔する天然体育会系ねえちゃんがすぐそばにいるのだった。
「お話ゲーム!」
香山先生は突然弓奈の耳元でそう言って大きな拍手をした。
「な、なんですか先生・・・」
「お話ゲーム!」
二度言われても困ってしまう。
「私、ちょっと寝ようかなぁって・・・」
「じゃあこのゲームに勝ったらぁ、眠っていいよ♪」
睡眠の権利が景品になる世界がとても健全とは思えない。
「あ、鈴原さんもやってね」
「えっ」
課題となっているしおりの旅行記録ページを早くも書き始めていたマジメな紫乃も犠牲者となった。紫乃は別に寝る予定などないので参加するメリットが全くない。
「お話ゲームのルールはねぇ、すっごく簡単。面白いお話ができたほうが勝ちね。審判は先生でーす!」
あなたしゃべらないのかいと弓奈は心の中で叫んだ。
「お題も私が出すからねぇ。じゃあ、倉木さんへのお題は・・・」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
先生はまんまるなお目々で首を傾げた。まるでこの流れを切ることが罪であるかのような空気がそこにある。
「なぁに?」
「いやぁ・・・面白い話って急に言われてもできないんですけど・・・」
愛想笑いで遠慮がちに正論を言う、それが弓奈の人生である。
「大丈夫大丈夫。君ならできるぞぉ♪」
論理にもなっていない意味不明な押しに負けて丸め込まれるのも弓奈の人生である。紫乃も割と観念したような瞳をしているので弓奈は仕方なくゲームに参加することにした。
「じゃあまず倉木さんはぁ、お母さんがキャビンアテンダント」
「・・・それがお題ですか?」
「うん!」
弓奈の母は花屋であるが、無理矢理客室乗務員にして話さなければならない。
「あの・・・紫乃ちゃん。私の実家が花屋なの知ってる?」
「あ、はい」
「これがね・・・別に昔から花屋をやってる訳じゃないのね」
「そうなんですか。昔はなにをされてたんですか」
「・・・航空会社」
紫乃がうつむいた。やはり無理があるかも知れない。このゲームのせいで紫乃ちゃんに嫌われてしまったら弓奈は香山先生を引っ叩く所存である。
「えーと・・・倉木航空・・・じゃなくて、クラキ、クラキ・・・あ、クラーク。クラーク・・・エアライン」
「クラークエアライン?」
「うん。少人数で経営してたから、お母さんがキャビンアテンダントだったの」
「・・・そうですか」
香山先生がくすくす笑っている。
「でも、滑走路とかはどこに作ったんですか?」
「えーとね・・・んー・・・私の実家けっこう山のほうにあるからね、さっきの空港みたいな広い滑走路が作れなかったの」
「なるほど」
「それでね・・・」
「はい」
「それで・・・あ、空に作ったの! 滑走路を」
「そ、空ですか」
「うん! 空ならいくらでもスペースあるでしょう?」
「・・・どうやって空港まで行くんですか」
香山先生が弓奈の口元にクッキーを持ってきたが弓奈はそれを振り払った。ギブアップはしない。
「空港までは・・・別の空港から、飛行機で」
「・・・なるほど」
「うん。確かに色んな問題があってね。結構もめたんだよ」
「・・・誰とですか」
「えーと・・・鳥」
香山先生が再びクッキーを持ってきたが弓奈はそれを無視した。
「・・・じゃなくって、花畑の人」
「花畑の人?」
「そう。空港が空に浮かんでるせいでその下にある花が育たなくなったっていって倉木家に電話してきたの。日光は大事だからね」
ところでどんな技術で空に浮かんでるんですかと訊いてこないあたりに紫乃の優しさを感じる。
「日本花畑協会のおねえさんに負けたクラークエアラインは仕方なく滑走路とかの施設を全部片付けたわけ」
「そうですか・・・」
「それで・・・えーと、でもこの協会のおねえさんがこわい人でね。それじゃ許してくれないの」
「はい」
「で・・・その罰ってわけじゃないけど、こっちの業界に協力しなさいよってことで、今は花屋をやってるの」
紫乃がうつむいた。オチが付いたと判断した香山先生はけたたましい拍手を弓奈に送った。
「なるほどぉ。倉木さん家はすごいねぇ!」
「先生・・・もうこのゲーム二度とやりたくないんですけど」
本心である。
「大丈夫だよぉ。次は鈴原さんの番だからね♪」
「うっ」
この変な空気の中でしゃべらなきゃいけない紫乃は不憫な女である。
「鈴原さんへのお題はねぇ、私は愛のキューピット」
「え!?」
「どうぞー♪」
弓奈は先生に手を掴まれて強制拍手をさせられた。
「えーと・・・私・・・」
紫乃ちゃんが赤くなっている。なんでよりにもよって紫乃のほうにそんなロマンチックなお題がやってきたのか。
「弓奈さん・・・私・・・」
「う、うん。なぁに」
「・・・アーチェリーができるんです」
弓奈は一瞬なんのことかよく分からなかった。
「へぇー・・・そうなんだ。そんな特技があるなんて全然知らなかった」
「そうなんです。あまり人には言っちゃいけない特技なので」
「い、言っちゃいけないってどういうこと?」
「私は・・・ある使命があってアーチャリーをしてるんです」
「使命?」
「はい。人の胸を射抜く使命です」
なるほどそうきたかと弓奈は思った。
「ダメだよ紫乃ちゃん。人に向けて矢なんか放ったら」
「はい。ダメなんです。でも・・・でも私はいいんです」
「どうして?」
紫乃は恥ずかしそうにうつむくと小さな声でつぶやいた。
「・・・・・・て、天使だから」
香山先生は弓奈の肩にあごをのせて笑っている。
「わ、私は天使だからいいんです!」
「そ、そうなんだ」
可哀想な紫乃。開き直らなければこの場を乗り切ることはできないのだ。
「はい。そうなんです。今まで黙っていましたが、私は天使なんです。空から来ました」
「そっかぁ・・・ずっと空に住んでたの?」
「はい。実家はちょうどこの辺りです」
紫乃が窓の外を指差した。
「あの雲の山、見えますか」
「う、うん」
「小さいころはよくあれに登って昼の月を採って食べていました」
そう言って紫乃は遠い目をした。
「懐かしいです。この季節の月はまだ少し甘酸っぱいかもしれませんね」
ここまで開き直るとむしろかっこいいくらいである。弓奈は思わず拍手をしてしまった。
「引き分けー!」
香山先生はクッキーの箱を派手にひっくり返しながら判定を下した。
「二人とも頑張ったねぇ! どっちも楽しかったから引き分けね!」
弓奈と紫乃はぐったりしている。大した量をしゃべらせた訳ではないのにこれほど人の気力を奪ってしまう恐怖のゲームをこの先生は高校時代からやっていたというのだろうか。もしそうだとしたら弓奈は絶対に体育教師にはなれない。
「はぁ・・・」
「じゃあ次はまた倉木さんね」
「ええ!? 続くんですか!」
「次の倉木さんのお題はねぇ・・・」
「ちょっと待って下さい! 私眠りたいんですけど・・・」
先生はまた目を丸くして首を傾げている。とぼけて誤摩化す戦法らしい。
「し、紫乃ちゃん! 紫乃ちゃんもイヤだよね!」
「私は天使ですので。どちらでも」
「紫乃ちゃんが壊れてる!!!」
三人の愉快なおしゃべりは福岡空港に到着するまで続いたのだった。




