108、腕の中
サクラソウは不器用な花である。
別れと出会いを彩るのは桜の花びらであるという日本人的感覚に、世の学校の卒業式はあまりに早すぎてついていかれない節がある。結果、式の会場を飾る花に選ばれているのがサクラソウであり、桜を彷彿させる花色と鉢に収まる慎ましさ、その全てが人間の都合に合っているといえる。しかしサクラソウたちは決して桜の代用花として地上に芽吹いたわけでなく、彼女たち自身の魅力に人々が気づいてくれる日をホールのステージの陰で背筋を伸ばしてもの言わず静かに待っているのだ。
弓奈はホール二階席のスポットライトを回しながらその花をぼんやり眺めていた。一人一人の瞳の中でそれぞれの人生が息づいているのなら、誰だって主人公なんだ・・・そんなメッセージを彼女はサクラソウから感じていた。誰もが自分本位に生きるべきだということではないが、すくなくとも無闇に自信を失い、陰で微笑むことに哀しむ必要などない。胸を張って背筋を伸ばしている限り、どんな生き方も真実なのである。
「在校生による送辞、2年C1組鈴原紫乃」
式場の雰囲気に影響を受けた弓奈が割とどうでもよい考え事をしている間に、教頭先生のアナウンスに呼ばれた紫乃が舞台袖から原稿を持って登場した。弓奈はテレビの中の憧れの人を見るようにうっとりとしながらスポットを彼女に当てた。ちなみにこのスポットライトは当てるほうも当てられるほうも結構熱い。
「2年C1組、生徒会長の鈴原紫乃です。三年生の皆様、ご卒業おめでとうございます」
紫乃の送辞は実にしっかりとした、会長らしいものだった。ホールに集まった誰もが彼女を中心とした新たなサンキスト女学園の未来に希望を持ったことである。もちろん弓奈もその一人だ。
問題は送辞ではなく答辞のほうだった。
「答辞。卒業生代表、3年E2組小熊アンナ」
ブロンド巻き髪の彼女がステージに上がる。弓奈がスポットを当てると彼女の髪は秋雨上がりの麦畑のようにきらめいた。
演壇のマイクを前に小熊先輩は、原稿を読み始めることなく黙ったまま微笑み、会場を見渡した。その沈黙に生徒たちはざわめくこともなくひたすら彼女の言葉を待った。全校生徒が彼女を信頼している証である。しばらくして先輩は原稿を一切見ずに語り出した。
「こんにちは。三年生で、元生徒会長の小熊アンナよ。今日は私たち卒業生のためにこんな素敵な式を開いてくれてありがとう。とっても嬉しいわ」
でたーっと弓奈は思った。形式を重んじる厳粛なる卒業式のスピーチは小熊先輩の器には狭すぎるキャンバスだったらしい。マイペースなアンナちゃんはまるで友達に話しかけるほうなフランクなスピーチを続けた。
「今日は可愛い在校生のみんなに、挨拶に代えてちょっとした恋のアドバイスをするわ。教科書に載ってることだけ頭につめこんでも好きな子のハートは奪えないわ。大切なのは押し倒す勇気と、胸を触るタイミングよ」
心から役に立たないアドバイスである。弓奈はスポットライトを消してやろうかと思ったが、紫乃ちゃんに怒られそうなのでやめた。
「恋の正体の90%は距離感よ。状況が味方してくれるのを待つのでなく、環境を自ら作り出そうと思うくらいのアグレッシブさが必要だわ。そのためには食事中だろうが授業中だろうが気にせずに恋のトラップを考えるべきよ」
在校生たちが涙ぐんでいる。もう小熊先輩とお別れなので泣いているというのであれば分かるのだが、スピーチに感動して涙を流しているのだとしたら彼女たちの将来は大いに案じられる。
「最低限の社会的行動をとれていて、もちろん法にも触れず、自分自身だけでない誰かとの幸せを追求している限りは、この世界は何をやっても自由なの。空気は読むものじゃなくて、作るものなのよ」
先輩らしい非常に外交的で積極性に富んだアドバイスである。弓奈は特別内向的な女というわけでもないが小熊先輩ほどの天文学的サイズの器は持ち合わせていないため、明日活かせるような教訓をこれらのスピーチから発見することはできなかった。
思えば小熊先輩との思い出は多い。ある時は押し倒され、またある時は揉まれ、そして胸を顔に押し付けられた。その全ての記憶がまるで美しい思い出だったかのように変えてしまう卒業式の魔力に弓奈はビビりつつも少し切なくなった。いよいよ今日で先輩とはお別れなのである。
卒業証書を受け取るときも、絵画と論文の表彰を受けるときも、そして退場するときも小熊先輩はいつもと同じ余裕の微笑みのまま表情を変えることがなかった。弓奈はそれがひどく物足りないような、淋しいような感じがした。
「先輩・・・」
弓奈は放課後小熊先輩に会いに行くことにした。
ぼんやりと温かい午後の管理棟に弓奈の靴音がぺたぺたと響いた。
ほとんどの三年生は昨日までに寮部屋のほぼ全ての荷物を実家に送っており、今日残りの小物を整理して帰宅すればもう二度と学園生徒としてここに戻ってくることはないのである。おそらく小熊先輩ならば生徒会室の荷物を取りに来るだろうと踏んだ弓奈は一人でこっそりここへやって来たのだった。
扉の前に立っても部屋の中から人の気配がしない。ここはハズレだったかなと思いながら弓奈はドアを開けた。
「わっ」
「あら弓奈ちゃん。ごきげんよう」
何事もないように先輩はお茶を飲んでいた。今日が卒業式だったことがウソのような平常のオーラに、弓奈は自分がタイムスリップでもしたのかなと思ってしまったが、卒業生に渡された花がテーブルの花瓶できらめいているのでどうやらここは現実世界のようである。
「今日はごくろうさま。鈴原さんは一緒じゃないのかしら」
「あ、紫乃ちゃんは日直なので、日誌を書いてます」
「そうなの。お茶を淹れるわ。どうぞ腰掛けて」
「は、はい」
カーテンが春色に透けている。先輩の学園生活最後の時間はとても穏やかに流れているようである。
弓奈は紅茶の香りの中に言葉を探した。小熊先輩に言いたいことがあるような気がするが、いまいち言葉にならないのである。先輩は画材をしまった大きなカバンを隣りの椅子に座らせたまま背筋を伸ばしてティータイムだ。今日でお別れだというのにどうしてそんなに気楽でいられるのか弓奈にはあまり理解ができない。穏やかに続く沈黙に耐えかねた弓奈は、深く考えずに口を開いた。
「今日は・・・いたずらしないんですね」
自分でも何を言っているんだろうかと思い弓奈は恥ずかしくなってうつむいた。先輩は「あらあら」と言って笑うばかりである。なんだか今日に限って小熊先輩がひどく遠くにいるように感じられた。
「・・・生徒会のことは心配しないで下さいね。私と紫乃ちゃんとあかりちゃんで頑張っていきますから」
「ねぇ弓奈ちゃん」
先輩はカバンから一枚の洋封筒を取り出してゆっくり席を立った。なぜか弓奈もつられて立ち上がってしまった。
「これあげるわ」
「な、なんですか」
「んもぅ、そんなにドキッとしないで。写真よ」
先輩のヨーロピアンな瞳が近づいてきて弓奈は緊張してしまった。
「写真、ですか」
「そうよ。私ずっとこれを絵に描きたいと思っていたけど、とうとう仕上げられなかったわ」
学園きっての画聖小熊アンナが絵に描けなかった写真とは一体どんなものなのか弓奈はとても気になった。
「開けてもいいですか」
そう質問すると先輩は首を優しく横に振った。
「一人の時に開けて。それもずっと先でいいわ。あなたが本当に困った時に開けなさい」
「・・・困った時?」
「そうよ。弓奈ちゃんと私はもうほとんど会えないんだから、その封筒を私だと思って大事にしてね」
そう言われてむしろ弓奈は手の中の封筒がひどく軽く感じられてしまった。こう言っちゃわるいがこんな封筒一枚が先輩の代わりになどなるはずがないのである。こんなもの要らないからもっと先輩と一緒にいたい・・・もちろん恋心ではないが、あまりの淋しさに弓奈は目頭がきゅっと熱くなってしまった。口を開いて何か言おうとすると涙がこぼれそうなので弓奈は封筒を握りしめたまま黙ってうつむいた。生徒会室の床は涙でゆらゆらとにじんでいく。
あふれた涙がひとつ頬に伝ってしまった瞬間、弓奈は先輩に抱きしめられていた。いやらしさの欠片もない、木漏れ日のような温もりに弓奈は包まれた。
「・・・私は・・・弓奈ちゃんがきらいよ・・・」
先輩の穏やかな声は弓奈の耳元で涙にかすれていた。
「大きらいよ・・・」
言葉とは裏腹な優しい抱擁に弓奈はいつのまにか自分の腕を先輩の背中に回していた。
「あなたの芸術性は・・・私の腕の中では完成しないから・・・」
そう言った先輩は別れを惜しむように腕にぎゅっと力を入れて抱きしめてくれた。何も言わずに弓奈も同じようにぎゅっと力を入れて抱きしめ返した。大きらいだなんて、口先だけで言っていることが分かったからだ。
「ありがとう・・・」
そのとき首筋にポツンと落ちた先輩の熱い涙を、弓奈は一生忘れないだろうと思った。
小熊アンナは場の空気を支配する能力に長けており、単に頭脳のみ冴えている少女とは一線を画した天才だった。その彼女が二年間守り続けた恋心が彼女自身の選択により今静かに終わりを迎えた。彼女は弓奈のことが心から好きだったのである。彼女の知力に裏打ちされた恋への積極性がいつもここぞという時に弓奈に向けて発揮されなかったのは、彼女の胸にいつの間にか芽吹き、小さな花を咲かせていた愛のせいである。彼女の愛とは、愛した人が本当の意味で幸せになってくれるよう進んで陰の存在となり、可能な限りの手助けすることだったのである。
陰の花、小熊アンナの芸術性は、少なくとも弓奈の腕の中でひとつの完成を見せたのだった。




