105、片恋クッキング
性懲りも無く今年もヴァレンタインデーがやってくる。
少なくとも去年までの弓奈はヴァレンタインを忌み嫌っており、女子から追い回されるだけのこのイベントがお風呂の順番かなにかをめぐってカレンダーと喧嘩し荷物をまとめて去ってくれるのを期待していたくらいだが、今年の弓奈は少々事情が違っていた。
「んー」
彼女はわざわざ駅前のスーパーマーケットへやってきてチョコレート菓子の材料を買いに来ていたのだ。チョコを贈りたい相手はもちろん紫乃だが、お互いのキャラクターなどを考慮すると当日に渡せる可能性はかなり低いと弓奈も考えている。恋をしていることは明白で、その対象がこんなにも身近にいながらヴァレンタインに向けてなにもしないというのが女としていたたまれない、弓奈を駅前まで連れて来た感情はだいたいこんな感じである。渡すか渡さないかは別問題なのだ。
ものにもよるがチョコレート菓子を手作りすることはそれほど難しいことではない。別にカカオ豆の焙煎から始めるような調理ではないのだから弓奈にだってある程度のお菓子が作れるはずだ。
「申し訳ございませんお客様。当店ではカカオ豆の販売はいたしておりません」
近くで店員さんがお客に謝っている。常識的に考えて一般のスーパーでカカオ豆は売ってないだろう。
「そうか・・・残念だ・・・」
なんだか聞き覚えのある声である。弓奈は顔を上げてつま先立ちをし、商品棚の向こうに目を遣った。
「い、石津さん!」
「やあ、弓奈くんか」
ミス・アンラッキー石津さんの登場である。石津さんの縄張りは駅前なのでスーパーに出てきてなにもおかしなことはないのだが、彼女がチョコレートの材料を探していることはちょっとした不思議である。
「こんにちは石津さん。お買い物ですか」
楽しみにしていた学園祭の日に風邪を引いていたことが彼女の精神にどんな影響を及ぼしたのか分からないが石津さんはしっかりマスクをしている。
「その通りだ。チョコレートを作ろうと思っている」
「そ、そうなんですか。それってやっぱりヴァレンタインのチョコですか?」
「そうだ。もうすぐ14日だからな。ただし手作りチョコは初挑戦だ」
なんであなたがチョコ作ろうとしてるんですかと弓奈は訊きたかったが、よく考えると石津さんは自分に好きな人がいることを一年以上前から明言しているので別に不自然なことはない。むしろなぜ弓奈がここにいるのかというほうが客観的に見て疑問だろう。
「ん、弓奈くんもチョコを作るのか」
「え!」
これだけは誰にも内緒にしたかったが、石津さんは基本的に学園生徒とは無関係だし、人をからかうような女性でもないのでちょっとだけなら素直に語ってもいいかもしれないと弓奈は思った。
「はい。実は・・・今年はチョコ作ってみようかなって」
「んー。なるほど」
なにがなるほどなのか。
「これから私はアパートで早速チョコを作ろうと思っているのだが、よかったら君も一緒にどうだ」
「え、石津さんと一緒に?」
「そうだ」
確かに調理環境さえ整っておれば別に寮の自室で作る必要なんてないのである。
「じゃあ、ぜひ一緒に」
弓奈は石津さんのアパートへ行くことにした。
「石津さんは、誰かにチョコあげるんですか」
部屋に着いた石津さんはマスクを外したあと服をばんばん脱いでタンクトップ一枚にホットパンツという肌色だらけの姿にお着替えをした。部屋の中ならばどんな格好をしても風邪を引かないと思っているのだろう。
「以前話した通り、私には愛する人がいるからな」
「そ、そうでしたね」
今どこで何をしているかも分からない片想い中の女性のことである。
「その人とは連絡とれたんですか」
「もちろんとれていない。だが私は毎年チョコレートを準備している。もし14日に偶然街で再会したらどうする。慌ててチョコを用意しても遅い」
一途なおねえさんだなと弓奈は思った。石津さんはほこりっぽいベッドの下からワインを一本取り出した。
「こんなものを事務所から貰ったんだ。私はこれを使ってオトナなチョコレート菓子を作ろうと思っている」
随分と高そうなワインである。音楽事務所の人が何を思って石津さんにこんなものをくれたのか分からないが、本人はこの日のチョコレート作りのために大切に保管しておいたようである。
「君の作るチョコレートにも混ぜてみるといい」
「いやぁ・・・嬉しいんですけどお酒なのでやめておきます」
「そうか。言われてみればどうだな」
石津さんは鼻歌を歌いながら丁寧に手を洗ったあとコタツの上のワイン瓶を手に取った。
「ん?」
「どうしたんですか」
石津さんは瓶をじっと見つめて黙った。
「・・・どうやって開けるんだ」
ワインなんてものをほとんど目にしたことがなかった石津さんはコルクの抜き方が分からないのだ。
「あ、石津さん。たぶんそれワインオープナーが必要なんだと思いますよ」
「なに?」
「固定電話のコードみたいなくるくるした金具を使って引っこ抜くんだと思います。たぶん」
それを聞いた石津さんはいつもの死神のような顔をして床に崩れ落ちた。
「まただ・・・私はいつもこうなんだ・・・」
「石津さん!?」
「私にはチョコレート菓子を作るなんて出来ないんだ・・・」
「わ、ワインオープナー買ってくれば大丈夫ですよ!」
「いや・・・もうだめだ・・・一度折れてしまった私の心はどんな道具を使ってもオープンできない・・・チョコ作りはあきらめた・・・」
今にも泣き出しそうである。
「元気だしてくださーい! 一緒に作ってあげますからぁ!」
二人は一緒に同じガトーショコラを作り、完成したものを分け合う作戦になった。
「泡立てた。溶かしたチョコを入れてもいいか」
「・・・あ、はい。バターも一緒に入れましょう」
「この薄力粉はいつ使う」
「・・・あ、このメレンゲをそっちのボウルに少しずつ混ぜるので、その時に使いましょう」
「弓奈くんはどの型を使う。私はこれがいい」
「・・・じゃ、じゃあ私はこっちで」
「上手く生地を流し込めるかどうか」
「・・・あのー石津さん」
石津さんは振り向いて首をかしげた。
「どうしたんだ」
「ずーっと気になってることがあるんですけど、訊いていいですか」
「もちろんだ」
「この、床に置いてあるフライパンにはどんな意味があるんでしょうか」
もう何ヶ月も前から同じ場所にフライパンが置いてある。これを不思議に思わない者がいたらその人はシュールな現代美術家の才がある。
「ああそれか。確か夏休みだったか・・・私が野菜を炒めていた時のことだ」
石津さんは夏にまでさかのぼって語り始めた。
「同時進行で調理をするのがイイ女の条件だという話を聴いた私は、野菜炒めと一緒に目玉焼きも作ろうと思ったのだ。幸いフライパンは二枚あったからな」
イイ女を目指すならもっと別のアプローチを考えて頂きたいものである。
「コンロは見ての通りひとつしかないので、野菜を炒めていたフライパンを持ち上げたままもう一つのフライパンで玉子を焼き始めたのだ」
ちょっとした筋力トレーニングである。
「ところが私は目玉焼きを作ったことが無かったのでひどく慌てた。どんどん焦げていくんだ」
今の話に油が全く出て来なかったのでそれも仕方ない。
「一度火を止めて玉子を救出しようと思った私は、片手にずっと持っていたフライパンが邪魔だと気づいたが、キッチン台の上は野菜が散らかっていてフライパンを置くスペースが無かったんだ」
「それで・・・床に置いたんですか?」
「そうだ。膝より低い場所に食べ物を置くなというばあやの言いつけを私は破ったのだ」
ばあや・・・もしかしたら石津さんは隠れお嬢様なのかも知れないと弓奈は思った。
「野菜炒めのフライパンを床に置いた私は無事に玉子を救出し、スクランブルエッグに路線変更はしたがなんとか食べられるものが出来上がったんだ。私は嬉しくなってそのスクランブルエッグをおかずにごはんを食べた」
弓奈はイヤな予感がした。
「作曲しながらごはんを食べ終えた私がお皿を洗おうとキッチン台に向かった時、私の目に飛び込んで来たのがあのフライパンだった。私はすっかり野菜炒めのことを忘れていたんだ」
野菜たちはさぞかし淋しかったことだろう。
「もやしやニンジンに深く頭を下げて謝った私がフライパンを床から持ち上げようとした時、異変は起こったのだ」
「異変・・・?」
「持ち上がらなかったんだ」
「え!?」
弓奈は足元のフライパンを見た。
「フライパンの熱が床のニスを溶かし、一体化して固まったらしいんだ」
「へぇー・・・」
「持ち上げようとするとミシミシと音を立てて床が付いてくるんだ。床をはがして生活できるほど私は下の階の人と仲良しではない」
「大家さんとかに見つかったら怒られちゃいますね・・・」
「その通りだ。怒られちゃうんだ。だからこれは内緒にしてくれ」
「わ、わかりました」
いつかバレるだろうなと弓奈は思った。
ガトーショコラの生地をオーブンにぶち込んだ二人は、焼き上がるまでコタツに潜ってごろごろしながらのんびり話をした。
「石津さん」
石津さんは弓奈の隣りで仰向けに寝たままギターをポロンポロン鳴らしている。
「なんだ」
石津さんは男の人みたいなしゃべり方をするがいつだって優しく、ついでに声が可愛い。
「石津さんの好きな人って、どんな人なんですか」
天井の木目をぼんやり眺めながら弓奈はそう訊いてみた。コタツの中で二人の足が触れ合っている。
「そうだな。私は口下手だから言葉で表現するのは難しい」
石津さんはおもむろに体を起こしてヴァイオリンのマリアちゃんを手にとって優しく曲を弾き始めた。いつか聴かせてくれたことがある『カントリーソング』という曲だ。
弓奈も体を起こしてしっかり聴かないと失礼かと思ったが、その音色があまりに優しかったために寝転がったまま目をそっと閉じてしまった。香ばしくて甘い香りが漂う小さな部屋に、切なくてどこまでも透き通ったヴァイオリンの温かな歌声が響いたのだ。この曲は石津さんが片想いをしている女性をイメージして書いた曲だったらしい。今の弓奈にはなぜかこの曲がとても素直に胸に染み込んでくる気がした。
自分だけじゃない。恋の渦中に立ち尽くし、切なさに胸を焦がしているの人は自分以外にもたくさんいるんだ・・・そう弓奈は実感したのだった。
「少しだけだが、この曲の歌詞が書けたんだ」
曲の余韻に浸っていた弓奈は石津さんの声で我に返り、慌てて拍手をした。
「やっぱり石津さんはすごいです!!!」
「そ、そうだろうか・・・」
「この曲の歌詞ですか! 前は書けないって言ってましたもんね!」
「ああ。実は・・・君のお陰だと思っている」
「え?」
石津さんはマリアを撫でながら優しく続けた。
「私一人だったら・・・ひと文字だって書けなかった。いや・・・書こうともしなかっただろう。弓奈くんの存在のお陰なんだ。礼を言わせてくれ」
「い、いえ! 全然そんな・・・お礼を言われるようなことは何も」
これだけ感謝されてしまうと弓奈だって照れてしまう。
弓奈の様子を見た石津さんは欠けた湯のみに入った薄いお茶を美味しそうに飲みながら笑った。
「今日はどうもありがとうございました」
窓はすっかり茜色である。石津さんは完成したガトーショコラをさっそくつまみ食いしている。もしもどこかで初恋相手に再会したときは、まずつまみ食いを謝ってからチョコを渡さなければならなくなった。
「それはこちらの台詞だ。お陰でいい菓子ができた。ありがとう」
菓子と歌詞をかけてるつもりかもしれない。弓奈はフライパンを飛び越えて玄関で靴を履いた。
「また・・・お邪魔させてくださいね」
弓奈は悪い夢を見てしまうくらい恋に心をかき乱されており、その重圧に押しつぶされそうになる日もあった。ところが今日ここへ来させてもらったお陰でいくらか心の荷が下りた気がしたのだ。そのことへの感謝の気持ちがちょっぴり甘えたような口調になって出たのである。
頬を窓辺の茜色に染めた石津さんはちょっと頭をかいたあと優しく笑って答えてくれた。
「もちろんだ。いつでも待っている」
彼女の腕の中のヴァイオリンも夕焼け色に輝いていた。




