104、冬の朝
「弓奈さんにはがっかりしました」
三日月のモニュメントの立つ日暮れた広場に二人はいたのだ。
「私のことをそんな目で見ていたんですね・・・」
「ち、ちがうの! そうじゃなくて!」
紫乃は弓奈に背を向けて行ってしまう。
「さようなら」
「紫乃ちゃん! 紫乃ちゃん待って!」
布団をばさばさとはね除けて体を起こした弓奈は、今追いかけていた紫乃の背中が現実のものでないことに気がつくまでしばらく時間がかかった。
「夢かぁ・・・」
なんだか悪い夢を見てしまった。時計の針は午前5時少し前を指している。昨夜の弓奈はなんとなく気分が高ぶっており、目覚ましを5時半に設定して朝一番のランニングにでも行こうと企画していたのだが、こうして目を覚ましてみると運動へのワクワク感など体内のどこにもない。すべて深夜にお引っ越し済みである。寝る前に浮かんだ名案というのは大抵翌朝冷静になって振り返ると大したことがない。
「どうしよっかなぁ・・・」
夢が夢だったので目が冴えてしまいベッドの上にいるのがつらい。弓奈はもう顔を洗って制服に着替えてしまうことにした。洗面所の鏡に映る自分の顔がちょっとお疲れ状態である。近頃は青春色をした悩みが弓奈の心を大きく揺さぶっているのでこれくらいの疲れはあって当然かもしれない。弓奈は部屋の電気は点けないままなんとなく勉強机に向かった。物音のしない二年生寮にはただ滞った時間が冷たくうずくまっているばかりで、カーテンの隙間から覗く窓もよそよそしく冬の暗闇に沈んでいる。弓奈はその闇を見つめながらしばらくぼーっとした。
お腹空いた・・・そんな欲求が弓奈を動かすことになった。早く起きてしまった以上いつも通りの時間の朝ご飯で体が満足するわけがない。弓奈は食堂が開く時間を狙って部屋を出ることにした。
寮の廊下は弓奈の想定の倍くらい寒かった。ぼんやりした闇の中に温かく浮かぶのは弓奈の白い吐息だけである。夏が涼しい代わりにこの辺りは冬の寒さが厳しいのだ。食堂は決まった時間にちゃんと開くはずだが、こんな時間に行って一体だれが利用しているのか弓奈には大いなる疑問である。
赤いじゅうたんの渡り廊下を歩きながらふと顔を上げると、窓に遠く橙赤色のランプのようなものがいくつも連なって見える。早朝に食堂へ来たことがなかった弓奈は知らなかったのだが、あれは食堂の天井についたのハロゲンヒーターの明かりなのである。そういえば以前、食堂は5時20分から機能しているが電気のほとんどが消えた状態であり、いつものような明るいダイニングになるのは6時からという話を聴いたことがある。だったらなぜ6時からの営業にしないのかと思う生徒もいるが、本来6時から本格営業のところ従業員のご好意でもって早めに始めてくれるという解釈が正しい。
弓奈は人影のない券売機で朝食セットBを買った。セットBはおかわり自由の美味しいスープが付くのでお財布に余裕がある週はこれを買って体を温めている。弓奈はヒーターの明かりしか点いていない食堂に入った。なんとも妙な空間だが、ランプで生活していた頃の人はこれくらいの明るさでごはんを食べていたに違いない。
「おはようございまーす・・・」
厨房に声をかけるといつものおねえさんが眠そうな顔でやってきて食券を切ってくれた。このおねえさんは割と無口だがちょっとかわいい東北弁をしゃべることで有名である。
温かい湯気の立ち上る朝食のトレーをもらった弓奈は改めて食堂を見渡した。彼女の貸し切り状態である。基本的に天井のヒーターのオレンジ色しか明かりがないが、そろそろ目が慣れてきたのでこれはこれで味があっていいものである。弓奈は柱時計のそばに座った。
「いただきまーす」
習慣というのは大変魔力を秘めているもので、誰も聴いていないと分かっていても感謝の言葉が口から出るようになるものである。弓奈は温かいスープを飲みながらパンを少しずつちぎって食べ始めた。
何分ののちか弓奈には分からなかったが、彼女が食の温もりに夢中になっている隙に、弓奈に近づく影があった。
「ふー」
「わぁ!」
耳元を急襲したいゾクッとする感触に弓奈は飛び上がった。
「あら弓奈ちゃん。こんなに早い時間に食堂に来てるなんて珍しいわね」
小熊先輩だった。
「か、会長・・・突然ふーってしないで下さい」
「んもぅ。今の会長は鈴原さんでしょう? 私のことはアンナって呼んで構わないのよ」
相変わらずである。弓奈は自分の隣りの椅子を引いて先輩に改めて頭を下げた。
「えーと、先輩はいつもこの時間に食堂に来てたんですか?」
「そうよ。あまり知られていないけれど、独創的な発想はいつだってこんな退屈な静寂から生まれるの」
先輩がどんなお風呂ライフを送っているのか弓奈は知らないが、いつも先輩はヨーロピアンなハーブの香りがする。弓奈は花屋の娘であるがハーブはそこまで詳しく知らないので先輩の匂いの詳細は分析できない。
「弓奈ちゃん」
「・・・はい?」
温かな二人きりの静寂を破って先輩はしゃべり始めた。
「弓奈ちゃんはどんなエッチに興味があるのかしら」
弓奈は呆れきった軽蔑が列を成してカーニバルをしたような冷たい返事のひとつでも返そうかと思ったがそれにすら値しない愚劣な質問だった気がしたので無視してポテトサラダを頬張った。先輩は上品に笑ってから続けた。
「んもぅ、冗談よ。弓奈ちゃんはやっぱりマジメね」
「・・・はぁ」
朝からエッチなことを笑顔で語り合うのが普通みたいな言い方はよして頂きたいところである。先輩はナイフで九等分したトーストをフォークをつついている。
「弓奈ちゃんは・・・奇麗になったわ」
「え?」
先輩の横顔はいつも通り優雅な巻き髪の向こうでとっても穏やかだ。
「初めて会った日のこと、覚えてる?」
「・・・先輩に始めて会った日ですか」
もちろん覚えている。この学園の生徒会長がハーフのねえちゃんだったなんて知らなかったあの日、なにかを届けるために向かった生徒会室でお初にお目にかかったのだ。
「覚えてますよ。インパクトが凄かったので」
「まあ、光栄だわ。私の第一印象ってどんな感じだったのかしら」
「んー・・・奇麗なお嬢様っていう感じでしたね。髪とか目の色がとにかく人と違うのでその印象は強かったです」
「あらあら。嬉しいわ」
先輩のことを奇麗だと思ってることをさりげなく言ってしまった自分がなんか恥ずかしかったが、特に先輩がこの点を掘り下げることはなかったので弓奈は安心してスープを飲んだ。とても温かい。
「ちなみに、私が初めて弓奈ちゃんに会ったときの感想、聴きたい?」
「や、やめておきます・・・」
変なことを言われそうなので拒否しておいた。
「弓奈ちゃんはね。天使みたいだったわ」
やめておきますという返事を先輩は聴いていなかったらしい。
「噂に聞いていた美しすぎる新入生倉木弓奈ちゃん。私は他の生徒と同じようにあなたの外見ばかりに惚れて積極的にいたずらしたわ」
いたずらしたわ、などと自然な感じで語らないで欲しいと弓奈は思った。
「でも・・・弓奈ちゃんはそれだけの子じゃなかった。私が考えてた美なんてものは本当に表面的で中身のないものだったんだって、しばらくして気づいたの。あなたのお陰で私は絵の作風まで変わったのよ」
褒めてくれているのかなんなのかよく分からない。特に天才ではない弓奈にとっては先輩とのおしゃべりは少々高難度なのである。
「私はまだ勉強不足かもしれないけど、ちょっとだけなら弓奈ちゃんの本当の美しさ、見えていると思ってるのよ」
弓奈はあげ足をとるように先輩の話に心の中でツッコミを入れる作業を続けていたが、ちょっとここで中断してみた。先輩が美だとか芸術だとかを語るときは何だかとても真剣な気がしたからだ。二年近く一緒にいた二人だから伝わる何かがあるのかも知れない。柱時計の上のヒーターが小さくぱちぱちと音を立てている。
「本当の芸術っていうのは分析できないものなんだって、弓奈ちゃんを見ててそう思ったわ。これは考えることへの諦めじゃなくてある種の真理だと思うの。私にとっては大きな救いであって、希望だわ」
意味は分からないが、前向きなお話っぽくてなによりである。弓奈は不意に気がついたのだが、こうして同じ制服を着て先輩と並んで話できるのも残り一ヶ月ちょっとなのである。さすがの弓奈も胸がズキンと痛んだ。卒業なんてものは何かの間違いで、みんなずっと一緒にいられればいいのに・・・そんなことを考えながら食べたサラダのリンゴは儚くて甘酸っぱい味がした。
「ところで弓奈ちゃん」
「ん!?」
いつの間にやら先輩がブレザーとセーターを脱ぎシャツをはだけてこっちを向いている。
「先輩っ! なに脱いでるんですか!」
「食堂、温かいんだもん」
「いやいや! シャツのボタンは留めたままでいいでしょう!」
「ボタンがあっついのよ」
熱いボタンなんて日本を血眼になって探しても二、三個しか見つからないだろう。先輩は微笑みながら弓奈にぐいっと顔を近づけてきた。もちろん弓奈はぐいっと顔を遠ざける。しかし場が弓奈の味方をしなかった。彼女の背後には大きな柱時計があるので椅子から立ち上がったはいいものの逃げ道がなかったのだ。
「弓奈ちゃん。体の火照りを冷ます方法、分かるかしら?」
「わ、わ、わかりません」
弓奈は背中を柱時計につけたまま完全に先輩に追いつめられてしまった。
「一度のぼりつめちゃえばいいのよ」
「わぁっ!」
先輩は弓奈の顔にその豊かなお胸を押し付けたのだった。
そりゃ確かにこれくらいのハラスメントは先輩から幾度となく受けてきているが今回は状況が違う。もう弓奈はあらゆる同性との性的接触を避けるために全てをかけるような少女ではなく、紫乃という女の子に恋をしている身であるので先輩からこんなことをされると今まで沈黙を守ってきたはずの何かが頭の中かもしくは直接体の中で動き出してしまいかねない。
「先輩・・・だめぇ」
女の感触が弓奈の全身を襲う。顔いっぱいにやわらかく押し付けられた小熊先輩の胸は今の弓奈にはあまりにも刺激が強すぎる。弓奈は先輩のおっぱいにキスをしてしまわないよう唇をきゅっと結んで抵抗した。
「あらぁ、弓奈ちゃん今日は必死ね。いいのよチューしても」
食堂は人がいない上に薄暗いので東北弁のおねえさんが助けに来てくれる望みは薄い。どうしていいか分からず弓奈は首を横に振ったが、なんともいやらしいお乳の感触が彼女の頬を生々しく刺激しただけであった。完全に逆効果である。
「ほら、チューしてぇ。そうしたら放してあげるわ」
胸にチューすれば開放してもらえるらしい。どんな流れでこんな事態になってしまったのか特に天才ではない弓奈にはサッパリ分からなかったが、正直この状態が続いたら大切ななにかが壊れてしまいそうな恐ろしい予感もする。自分が同性にドキドキする体質に生まれ変わってしまった事実はどうせ先輩には気づかれていないし、何よりもまずこの状況は先輩が仕掛けたことなのだから、チューしたって変に思われることはないだろう。これは抗う術のない不幸なのである。
「弓奈ちゃーん。チューって。してごらん」
金髪のねえちゃんは弓奈の頭の上でキスを催促してくる。唇を使って愛情たっぷりにキスすることに抵抗があった弓奈は、ひと口だけ、彼女のおっぱいに優しく噛み付いてやることにした。
「んっ!」
先輩の大きな桃に弓奈がそっとかぶりついた、その時である。先輩は妙な吐息をもらしたかと思うと急に体をのけぞらせた。ほどけた先輩の腕から解き放たれた弓奈は、口元に残っている女の人の甘い味にうろたえながらもなんとか一息ついた。
「せ、先輩・・・?」
先輩の顔にはいつものような余裕のある笑みはなく、状況の整理のために全神経を使っているようだった。言わば神経の売り切れである。
「すごい・・・ビックリしちゃったわ。弓奈ちゃんの唇は魔法の唇ね」
ようやく先輩が微笑んだ。随分昔に誰かに言われたことがある台詞である。
「何言ってるんですか先輩・・・スープ冷めちゃいますから、普通に食事続けてください。あと服も着て下さい」
「ねえ弓奈ちゃん」
「な・・・なんですか」
「右のおっぱいもお願いできるかしら」
「もう絶対イヤです!!!」
食堂の電気が全て点いた。学園は午前6時を迎えたらしい。少しすると今朝食堂で何があったかなんて全くしらない生徒たちが眠い目をこすって少しずつ集まってきた。5時に目覚めてしまったせいで弓奈はなんだか妙な思い出をまたひとつ作ってしまったようである。早起きで三文ほどの徳を得ることができるかどうかはその人次第と言う他ない。




