102、弓奈さんと一緒
紫乃は悩んでいた。
クリスマスイブの夜、自分が手を握りにいってしまったあたりからなんとなく弓奈の様子がおかしかったからだ。大掃除の時もなんだかよそよそしかったし、紫乃の顔を見てぼーっとしていたこともあったし、おまけに彼女から届いた年賀状に描いてあったネコの目が完全に死んでいた。これらが一体何を意味しているのか紫乃にはサッパリ分からなかったので、なにか悪いことの前触れでないことを祈るしかない。
授業開始日前日、紫乃は自室で柔軟体操をしていた。学園と家が極端に近いせいで紫乃は年が明けてからちょくちょく寮へ来ている。もう宿題もすべて片付いているし、新たな一年をこの部屋で始める準備も終わっている。やることがなかった紫乃は16年の人生でこっそり研究してきたとある体操を始めたのだった。
まずは椅子に座ったままやれるお手軽な柔軟エクササイズ、名付けて「ジャンヌダルク」。ちょっと口では説明できない愉快なポーズを椅子の上でキメることによって主に上半身をほぐすことができる。
「うにゃっ!」
紫乃は椅子ごと転んでしまった。ちなみに二年生寮はトリッキーな改修を何度も施してはいるが、基本的には明治時代の建物なのでこういった物音は上下左右の部屋には聞こえてしまうと考えて間違いない。紫乃は気を取り直して柔軟体操を続けた。
次は「民衆を導く自由の女神」。これはベッドの上で行うエクササイズで、名前は大層な感じだが基本はただの背伸びである。気持ちだけは民衆を率いてパリ市街を駆けるのだ。
「しーのちゃん。いる?」
思わず紫乃はベッドから転がり落ちてしまった。学園に来ていることすら知らなかった愛する弓奈さんが、よりにもよって自分がとっても怪しい行動をしている時に突如やってきたのだから驚いても仕方がない。紫乃は急いで服を整えてから扉を開けた。
「ゆ、弓奈さん! ・・・ノックはしなきゃだめです」
「あ、ごめん」
艶やかで格調高いポニーテール。透き通る頬の白。神話の星座を集めたようにきらめく瞳。抱きついて顔をうずめたくなる胸。そして心の大切などこかがうっとりと潤う魔法のような芳香。今年も弓奈さんの魅力は規格外である。
「新年早々、自分の妹と同じ注意を同級生にするなんて思いませんでした」
「あは。ごめんね」
あは、という弓奈の照れ笑いが紫乃は大好きである。神性をすら帯びた外見をしているくせにちっとも気取らず無邪気に笑みを振りまいてくれる・・・並の人徳ではここまで謙虚な精神を育むことはできないだろう。
すると、なぜか弓奈がじっと見つめてくる。目というのは単なる感覚受容器と説明してしまうにはあまりに特殊で、吸い込まれてしまうような弓奈の目に見つめられるとなんだか危険な飛び道具のようにも思えてしまう。ともかくこれ以上見つめられると顔から火が出てしまいそうである。
「な、なんですか・・・」
紫乃がそうつぶやくとなぜか弓奈はちょっとほっぺを赤くして目をそらした。あまり見かけない表情である。
「そういえば紫乃ちゃん。明けましておめでとう・・・」
「おめでとうございます」
紫乃は年賀状に描いてあったあのネコは一体なんだったのですかと訊こうかと思ったがやめた。
「こ、今年もよろしくね」
「・・・弓奈さん。挨拶するときは相手の目を見ないと失礼ですよ」
紫乃はまた弓奈と目が合って自分の頭がくらくらすることは怖かったが、目を見ないまま会話するのはやっぱり変なのでいつものクールな感じの注意をしてみた。
「あっ。そ、そうだね。今年もよろしくね」
「はい。今年もよろしくお願いします」
年末から引き続きちょっと様子がおかしいところはあるが、それでもいつも通りの弓奈であるらしいことが分かったので紫乃は安心した。
「あれ、紫乃ちゃんこれからどこか行くの?」
弓奈は紫乃の制服セーターを見てそんなことを言ってきたらしいが、別にどこにも行くつもりはなかった。ただ制服が好きだったから着ていただけである。たがここで「別にどこも行かないです」と答えるとまるで自分がヒマ人のようで、クールなイメージが損なわれる可能性があるから、何か用事があることにしようと紫乃は思った。
「あ、ちょっと生徒会室に行って学園通信の原稿を書こうかと」
原稿の締め切りは来週であり、生徒会室へ行かなければ基本的に書けないが明日の放課後になればイヤでもそこへ行くので、冬休みのうちにわざわざ書きに行く必要なないと思っていたのだ。まあ、いい時間潰しではある。
「それって、私も一緒に行っていいかな」
「え」
紫乃は嬉しかった。正直弓奈に合えない数日間はなにも面白いことがなかったので、一秒でも長く彼女と一緒にいて幸せでちょっぴり危険なドキドキを堪能したいのだ。
「まあ、いいですけど」
「やった! すぐ準備してくるね」
小熊元会長がアクリルで書いた『会長室♪』という微妙に的外れなルームプレートがドアにまた掛かっている。これは大掃除のときに小熊先輩に渡して持って帰ってもらったはずなのにここへリターンしているということは室内も小熊ワールドに戻されている可能性がある。ある程度覚悟をしてから紫乃は扉を開けた。
「すでに美術室と同じ匂いがするね」
「もう慣れましたね」
「そうだね」
そういえば小熊先輩は秋から冬にかけてこの部屋で『女子寮における性周期同調フェロモンの作用』とかいう題名の卒業論文を書いていた。右手で油絵を描きながら左手で作成した論文なので適当な仕上がりかと思いきや、すでに職員室では彼女の論文の内容が凄すぎると話題になっているらしい。とにかくこの部屋はものを書くことにも適した空間であることが先輩によって証明されているのである。
「どんな原稿にするの?」
「そうですね。新年最初の学園通信ですから学園の沿革やなにかでもいいのですが少々月並みな内容になってしまうので、テーブルマナーについてでも書こうと思います」
「なるほど。テーブルマナー大事だもんね」
「はい」
情報はつねに時間の流れに合わせてその価値の全てを移り変えていくように感じられることもあるが、時が経ても色あせないものだってある。本棚に立てられた豊富な資料たちはこの学園で生活をする限りはいつまでもピチピチの採れたてだ。
かなり良さそうな資料を紫乃は発見した。『ナイフとフォークで食卓を支配する』というフランスの貴婦人が書いたちょっと古い本だ。あの本は母が以前紫乃に勧めてくれたもので、ミルクティーのような液体にすらナイフとフォークで挑んでしまう当時としては画期的なマナーブックである。あれを参考にすればきっとよいコラムが書けるに違いないのだ。
ところが問題がある。よりにもよって本棚の最上段にその資料があったのだ。ぴょんぴょん跳ねてみたのだがギリギリ手が届かない。椅子の上に立って取ろうかとも思ったが弓奈さんの見ている手前ちょっとはしたない気がしてできない。一人の時は椅子の上で妙なポーズをとることが出来るのに人前では上に乗って立つこともできないのである。
弓奈さんの手を借りたい・・・そう思ったが、自分の身長が彼女より低いことが強調されてしまうようでなんだかかっこわるく、クールなイメージがダウンしてしまうおそれがあって素直に頼めない。紫乃はテーブルに座ってこっちを優しく見つめている弓奈をちらちら見た。
「どれ取るの」
やはり来てくれた。他はなにも言わずに当然のように手を貸してくれる、紫乃は弓奈のこういうところが大好きである。
「・・・ありがとうございます」
紫乃は本を受け取りながらボソっとそう言ったが、お礼くらいもっと素直にはっきりと言えばよかったなとすぐに後悔してしまった。
ともかく紫乃は原稿を書き始めた。紫乃は「紫」という字がやたら上手いという自覚があるので、なるべくこの字を多く使った原稿を書きたいと思ったが、そんなパープルパープルしたコラムは誰も望んでいない気がしたので諦めた。
二人きりで一緒の部屋にいる、その事実が紫乃の小さな胸はほっこり温めていた。
「どんなテーブルマナーについて書いてるの?」
「ナイフとフォークを使ってサクランボを食べる方法です」
紫乃はちょっと得意気に答えてみた。
「へー」
弓奈が感心している。さすが紫乃ちゃんだなぁみたいなことを考えてるに違いないと紫乃は思った。
「紫乃ちゃんはサクランボ好き?」
「普通です」
あまり考えずに返事をしてしまったのだが、そのせいで会話が途切れてしまった。確かに紫乃はクールなキャラを保つために話しかけないでねみたいなオーラをいつも出してはいるが、ホントはもっとおしゃべりしたいのである。紫乃は次に弓奈に声をかけられた時はもっと面白い返事をしようと心に決め、聴覚と研ぎすませながら原稿を書き続けた。
弓奈が寝ている。紫乃は無事に原稿を書き終えたのだが、弓奈にどう声をかけて起こそうか悩んだ。よく考えるとこんな物音もしない退屈な部屋に閉じ込められて執筆に付き合わされた弓奈がちょっと可哀想だと紫乃は感じた。紫乃は弓奈の隣りの椅子に静かに腰掛けた。
「ゆ、弓奈さん」
起きない。今日学園に来たようだが、よほど移動が疲れたのだろう。紫乃はますます申し訳なくなってきた。
「弓奈さーん・・・」
テーブルに伏せているので弓奈の顔は見えないが、彼女の奇麗なお耳は覗いている。耳はその持ち主の肌質によって大きく印象を変える部位といえる。素肌に透明感のある人の耳は春の浜辺にひっそりときらめく薄紅の貝のようである。紫乃は弓奈のお耳をうっとりとした眼差しで見つめた。
だが見つめてばかりもいられない。そろそろ起こさないと万が一弓奈が自分から目を覚ました時にこんな近くで何してたの、みたいな空気になりかねない。紫乃は肩を揺らしてみることにした。弓奈の体に触れられる大義名分を胸に熱く抱いて、紫乃は弓奈の肩にそっと手を伸ばした。
「弓奈さん。終わりましたよ」
寝起きの弓奈の顔は天使のように可愛かった。おそらく幼稚園児だった頃くらいから変わらない天然色の倉木弓奈の発露である。
「終わったんだ。どれくらい書いた?」
「これくらいです」
いっぱい書いたので褒めてくれるかもしれないと思ったが、反応は薄めだった。もうちょっと紫要素のある原稿のほうが弓奈さんの好みだったのかなと紫乃は思った。
「じゃ、帰ろっか」
「はい」
紫乃はちょっと哀しかった。自分はもっと弓奈さんとしゃべりたいことがいっぱいあるのに、もっとありがとうを言いたいのに、どうしても素直になれないからだ。どこかで一度素直になってしまうと、自分の心の部屋に鍵をかけて仕舞い込んでいる恋心が外にあふれ出してしまいそうなのだ。紫乃は素直になりたい反面本当の自分を隠したくて仕方がないのである。人影のない渡り廊下をゆっくり歩きながら、弓奈がなにかを言ってくれないかと期待して紫乃はずっと耳を澄ましていた。しかし彼女の耳をくすぐったのは一月の乾いた北風だけである。
寮に入ったとたん、紫乃の小振りな胸に素晴らしい名案が花のように咲いた。ありがとうを伝えるチャンスはあちこちに隠れているのである。たとえば学園のご機嫌なコンビニチェーン、フォカッチャドルチェである。
「ちょっと待ってて下さい」
「ん?」
「買い物をしていきます」
こんな寒い日にはあのコーンスープが美味しいに違いない。逆に今日飲んで美味しくなかったら一体いつ美味しいのかと、そんな疑問を抱くほどに今日はコーンスープ日和なのである。あれを買ってプレゼントし、「今日はありがとうございました」と一言言えば一年の始まりとして大変幸先がいい。恋心は隠しながら、それでいて素直に感謝の気持ちを伝えられるような切り替えとメリハリを手に入れるのだ。
売れ残っていた最後の二本のコーンスープを買って紫乃は弓奈の元へ向かった。今日はありがとうございました、今日はありがとうございましたと何度も心の中で繰り返し練習しながら。
「弓奈さん」
紫乃の声に振り向いた彼女は、やはり相手の精神世界の全てを揺るがす歴史的美貌と、身体機能の一部を完全に停止させてしまう超人的愛嬌を容赦なく紫乃に注いできた。こうなってしまうと先程の決意なんてすぐに沸騰してあっというまに水蒸気。空気に溶け込みさようならである。
「これ・・・間違えて二つ買っちゃったので、あげます」
「え」
そう言うのが精一杯だった。
「別に・・・今日一緒にいてくれたお礼とかじゃないですから・・・」
恥ずかしい時によくやるいつものくせで顔は冷たくそっぽを向いてしまったが、コーンスープ缶を差し出す手はまるで子ウサギでも抱いているかのように丁寧で温かだった。これが紫乃のホントの気持ちなのである。少しでも伝わればいいのにと紫乃は思った。
「ま、間違えて二つ買っちゃっただけですから・・・」
弓奈はちょっと照れたあと何やらすっきりしたように、一足早い春空色に笑った。
「ありがとう! 紫乃ちゃん」
ああ、この人に恋をしていて良かった・・・眩しくて透き通るような笑顔を見て紫乃はそう思ったのだった。




