100、恋
白いトレンチコートにピンクのマフラー。
それは弓奈が導き出した今冬最良のファッションである。流行を追えば無難にモテるし、攻めても当然モテてしまう。かといってわざと外した服選びをするとその道の女性に好かれかねず、さらに親友の紫乃ちゃんにどん引きされて距離を置かれてしまうかもしれない。なので統一感と清潔感の追求のみに特化した感性でコーディネートすることが弓奈には求められていると言える。しかし弓奈もお年頃の娘であるのでそれだけでは淋しいから、コートのタイト目シルエットとマフラーの色質感だけには自分の趣味を出した、という具合である。内外のバランスを絶妙に保ったよいコーディネートと言えるだろう。
学園前駅の改札近くにある鏡を覗くのに飽きた弓奈がぼんやりロータリーの時計台を眺めていると、背中をふわっとやさしくタッチされた。振り返らずともそれが誰なのか弓奈には分かっていた。
「紫乃ちゃん!」
紫乃は私服を寮にあまり持ち込んでいないことを理由に一度家に帰っていたのだ。普段はこんなことないのに今日はおめかしをしたいらしい。ともかくこうして駅前に改めて待ち合わせをすると、これからお出かけをする気分が盛り上がってくる。
「んー」
「・・・なんですか」
「いや、なんでもない」
紫乃はいつもゴシックな服を選ぶ。紫乃本人がどれだけ自分自身の魅力に気がついているからは分からないが、彼女の顔、体格、ヘアスタイルのすべてが洋服で美しくまとまっている。弓奈は紫乃を見てお人形みたいだなと思った。
ちょっぴり後ろを歩く紫乃と一緒に弓奈は改札を抜けて電車に乗った。わずか一駅の距離ではあるが車窓は鮮やかに移り変っていく。早い日暮れに街あかりはひとつまたひとつとその色を灯し、クリスマスイルミネーションたちが都会のシルエットを弓奈の瞳に浮かび上がらせた。時折紫乃に目を遣ると彼女はすぐに下を向いて自分の指をいじった。
隣街の駅にたどり着いた。改札を仔うさぎのようにすり抜けた弓奈たちのあいだに北風とクリスマスソングが流れる。ベツレヘムの星は巨大なツリーの頂に輝き、子ども達は白い息をイルミネーションに染めてゴールデンレトリバーと追いかけっこをしている。おまけにサンタの格好をしたおねえさんが大きなキャンディケインを配っている。そこはまさに心躍るクリスマスタウンであった。弓奈は思わずの紫乃の背中をぽんぽん押しながら横断歩道を渡った。紫乃の髪が顔にこしょこしょ当たってくすぐったかった。
「特に買うもの無いんだっけ」
「そ、そうですね。特には」
「じゃ、面白いお店を探そう!」
「はい」
ショッピングモール入り口の巨大な案内板を見上げながら、弓奈は何かめぼしい店舗を探していたが、どのお店もフレンチな片仮名ばかりなのでよくわからない。
「て、適当に回ろう!」
「はい」
紫乃がはっきりと返事をした。弓奈と同じことを考えていたらしい。
5年前に完成したばかりのシャランドゥレタワーが内包するショッピングモールは関東最大級であり、いずれの店舗もおフランスな雰囲気にこだわっている。弓奈は長い長いエスカレーターのゆるやかさがじれったかったので駆け上がることにした。5段ほど駆け上がって振り返ると、弓奈を追いかけてちょこちょこと駆け上がってきていた紫乃がぶつかってきた。
「わ・・・急に止まらないで下さい・・・」
「ごめんごめん」
弓奈はそっと紫乃に手を差し出した。
「はい」
「え・・・」
「一緒に行こ」
弓奈は手をつなぎたいのだ。
「だ、だめです! 手なんてつながないです!」
友達同士として接している弓奈と、恋を意識している紫乃の間にこういった場面で心理的差異が生じてしまうのは仕方ない。弓奈はなぜ紫乃がそんなに顔を赤くして首を振っているのか分からなかったが、硬派な紫乃ちゃんは友達同士で手をつなぐことはないのだろうという解釈に至った。
「じゃ、ほら、走ろう!」
「あ・・・」
気を取り直して駆け出していってしまった弓奈の背中を、紫乃はひどくしょんぼりした顔で見上げていた。
二人は弓奈好みの雑貨屋にやってきた。トールペイントで仕上げられた小物を中心にガーデニング用品風の室内インテリア、カントリーな人形なんかが並んでいるお店である。弓奈の母は花屋経営の傍らトールペイントで作品を数多く作成しているが、下絵を雑誌から引っ張っているため花を買いに来たお客さんに売ってはいない。そのせいで実家の椅子やテーブル、さらにはティッシュの木箱に至るまで、そこらじゅうが母の作品だらけである。弓奈はこのお店のような雰囲気の中で育った女なのである。
「わー! 見て見てこのネコ! サンタの家食べてるよ!」
弓奈は面白い商品を見つけた感動を紫乃と分かち合おうと思ったが、ちょっと後ろにいる紫乃はうつむいて自分の指先をいじるばかりである。弓奈はなぜか気分が落ち込んでいる紫乃に元気を出してもらうためにさらに店内を散策した。
「おおっ! 見て見てこのトナカイ! お返しにネコのエサひっくり返してるよ!」
また素敵な小物を見つけたが、やはり紫乃はうつむいている。
笑って欲しかった。いつもクールで冷静な紫乃ちゃんはとても頼りになるし尊敬もしているが、今日だけは笑って欲しいと弓奈は思った。ほんのささやかな笑みで構わないから、彼女の笑顔を、他の誰でもなく自分だけが独り占めできる瞬間が欲しかったのだ。弓奈は胸がきゅっと痛くなった。
弓奈は黙って手を差し出してみた。どうも先程の手を握る握らない議論のあたりから紫乃の様子がおかしいと感じたからだ。
微笑みながら首をかしげる弓奈を前に、紫乃はどうしていいか分からず再び首を横にぶんぶん振ってしまった。本当に好きだから、手も握れないのだ。
「紫乃ちゃん!」
フルール社のぬいぐるみ店で色違いのバニウオをつっついていると、弓奈はある名案を閃いた。
「展望室行こう!」
なぜ今まで気づかなかったのだろうか。このタワーのてっぺんには夜景を見おろせるとても素敵な展望室があるのだ。去年はここの夜景の美しさに弓奈も思わず息を飲んだものである。
「クリスマスイブに限りサンキスト女学園生徒の入場は無料、とかじゃなかったっけ!」
タワー経営の根深い位置に学園出身者がおり、彼女が権力を持っているせいかそのような決まりがこのタワーには存在している。
「ね、行こう」
目を輝かせる弓奈に、紫乃はぬいぐるみの向こうから小さくうなずいて返事をした。
展望室へのエレベーターがある受付フロアは、相変わらず大人びた雰囲気で立ち入り難かったが、昨年の記憶が熱く脳裏によみがえっている弓奈はもう平気だった。たしかこのあたりをうろついていると変な人が話しかけてくるはずなのである。
「お客様。サンキスト女学園の生徒とお見受けしますが」
やはり来た。白いスーツを来た背の高いおねえさんである。今回の弓奈たちは制服を着ていないというのにこの早さでやってくるあたり彼女はプロである。
「はい。サンキストの生徒です」
「再びお会いできて光栄でございます。かわいらしいお二人にぴったりの素敵な夜景を今夜もご用意しておりますよ」
再会を驚くことでウェルカムな感じを出しつつ、その上でまるでここに二人が来ることを知っていたかのような落ち着きも披露してくるあたり彼女はプロどころかプロ中のプロである。
「あの・・・あんまりお金ないんですけど」
「ご安心下さい。今年も入場無料でございます」
「ありがとうございます!」
白スーツの女性は二人をエレベーターまで案内してくれたが、この時弓奈はなんとなく彼女の顔立ちに見覚えがあるような気がした。もちろん直接彼女に会ったのは去年に引き続き今日が二回目のはずなのだが、もしかしたら自分の知り合いの家族とかなのかもしれない。
「あのー」
「はい。どうされましたか」
「おねえさんは、ご兄弟っていうか、お姉さんか妹さんいたりしませんか」
白スーツの彼女はハットを押さえたままかっこよくお辞儀をして答えてくれた。
「妹がひとりおります」
「あ、そうですか」
全然分からなかった。
展望室行きの専用エレベーターであること、50階までノンストップであることなど、エレベーターの説明をおねえさんがしているときにふと弓奈は紫乃を見たが、彼女がおねえさんの顔ばかり見ていることがちょっとだけ淋しかった。いつもだったらすぐに目を合わせてくれるからだ。こんな些細なことで一喜一憂する最近の自分はちょっとおかしいと弓奈も思っている。
しかしエレベーターに一歩足を踏み入れると彼女のそんな憂鬱も冬空に吹っ飛んでしまう。エレベーターの中にはまるで遊園地のアトラクションに乗り込む時のようなわくわくが、青いライトに照らされて弓奈たちを待っていたのだから。
「それではごゆっくりクリスマスイブの天空散歩をお楽しみ下さーい。ボンヴォワイヤージュ♪」
またしてもフランス語の挨拶を聴くことができた。ゆっくり動き出した密室に弓奈の心は踊る。
「楽しみだね!」
「・・・うん」
「い、今うんって言った?」
「言ってないです。はいって言いました」
「そっか」
目を合わせてはそらす、合わせてはそらすを繰り返す謎の遊びをしながら二人は空に飛び上がっていく。
「今年は横浜見えるかな」
「見えるわけないです」
「京都は?」
「もっと見えないです」
「いや、分かんないよ。横浜と京都はよく巣を変えるからね。もう近くに来てるかも」
「・・・なんの話をしてるんですか」
紫乃は弓奈の冗談にマジメにつっこんでくれる。
あっという間にエレベーターのモニターが50階を示した。『50階展望室です。お足元にお気をつけてお下りください』というアナウンスとともに、エレベーターのドアはゆっくり開いた。
「行こう!」
「はい」
カーペットの感触を靴の裏に確かめながら、弓奈と紫乃は暗闇の中を歩き出した。
「・・・すごーい」
興奮したささやき声をもらして弓奈は窓に駆け寄った。めくるめく星空とイルミネーションの世界・・・どこまでが星で、どこまでが電飾なのか、ぱっと見ただけでは区別がつかなかった。街も、駅も、自動車も、すべてがお菓子で出来た人形の家のように見える。
「きれいだね。いつもと違った角度からみるだけで、世界はこんなに変わるんだ・・・」
ガラスに顔を近づけてそんなことをつぶやく弓奈の隣りに、紫乃の横顔がやってきた。弓奈はまた目を合わせてもらう遊びをしようかと紫乃の瞳を覗き込んだ。しかし、すぐに弓奈はそんな遊びのことを忘れてしまった。息をのむほどに美しい宝石のような小さな夜景が、紫乃の瞳で静かに輝いていたからだ。弓奈は紫乃の横顔に、まるで人知れず咲く花のような純な輝きを見たのだった。
ようやく紫乃と目が合ったが、弓奈は目をそらすのも忘れてその瞳の魅力にすいこまれた。とても不思議な感覚だった。この世界で彼女だけは特別なんだと弓奈は感覚でなんとなく悟った。
「あ・・・あっちも見ようか」
「・・・はい」
エレベーターの出口がある場所からは駅前あたりがよく見えたが、裏側に回ると学園の時計塔が見えるのだ。
「やっぱり! 学園みっけ」
裏側は人がいなかったのでちょっとだけ弓奈は声を大きくしてみた。展望ガラスにもたれるような形で置いてある長いソファーに弓奈は腰掛けた。
「おいで」
そして紫乃もそこに呼んでみたのだ。足が疲れているのは弓奈だけではないはずだからだ。
「今頃、クリスマス会やってるんだろうね」
「そうですね」
「・・・きれいだね」
「・・・はい」
背もたれ側に振り返りながら二人は夜景を見ていたが、いつのまにか向かい合っていた。なにかがおかしかった。弓奈は自分の胸をきゅっとしめつける何かに頭の中もくるくるかき回されているようで、冗談のひとつも口から出てこなかったのだ。
「・・・もう一度」
「え?」
長い沈黙の末に、紫乃がなにかを切り出した。
「・・・もう一度・・・手ぇ、こうやってくれないんですか・・・」
紫乃はそう言って手を差し出す真似をした。もう一度チャンスが欲しいと彼女は言っているのだ。
弓奈の心臓が急に大きくひとつ鼓動した。同時に弓奈の視界がふわりと揺らいでせまくなり、顔が火照り、おまけに背中がぴりぴりした。どうしてこんなことになっているか自分でも分からなかったが、ひどく緊張してしまったのだ。先程まで平気だと思っていた手を握る行為が、急にとてつもない大事のように思えてきた。
どこまでも広がる星空の中で、弓奈は右手をゆっくり差し出した。
紫乃はうつむいたまま自分の手をグーにしたりパーにしたりを繰り返したが、なかなか弓奈の手は握ってこない。弓奈は何も言えずにただその奇妙な胸の高鳴りを持て余し、困惑していた。とても怖くて、幸せな胸の鼓動を。
弓奈が孤独な右手をそっと下ろそうとした時にそれは起きた。紫乃にとって、弓奈が差し出していたその右手は弓奈と手をつなぐことが出来る最後のチャンスに他ならない。それが消えてなくなりそうになったとあらば、もう前へ行くしかなかった。
紫乃はそっと身を乗り出して弓奈の体に優しく寄り添ったのだ。そしてもちろん、弓奈の手をぎゅっと握った。
自分の右肩に、首元にやってきた紫乃の感触と、汗ばんでしまった小さな手のひらの熱さが、弓奈の全身を駆け巡った。弓奈は頭の中が真っ白になって、ちかちかと点滅しているような混乱に満たされた。そしてそのあとに、信じ難い事実が確信となって彼女の頭をゆさぶったのだった。
「えっ・・・!」
弓奈は椅子から飛び上がるように立ち、紫乃のぬくもりから離れた。そして紫乃の顔を見ながら壁にぶつかるまでゆっくり後ずさった。
「うそ・・・」
壁際でそうつぶやいた弓奈の胸の中で、ずっしりと重い運命が彼女を笑うようにおおきく渦を巻いていた。
恋だった。弓奈は紫乃に恋をしていたのだ。
「・・・ど、どうしたんですか」
紫乃は弓奈に駆け寄って心配そうに彼女の顔を覗き込む。たしかに突然手をぎゅっと握りにいったのは大胆だったかも知れないが、こんなに驚かれる理由が紫乃は見つけられなかったのだ。
心配する紫乃の瞳から目も離せないまま、弓奈はゆっくりとその場に座り込んでしまった。
まさか、同性からモテることをあんなに嫌がっていた自分が同性に恋をしてしまうなんて・・・しかも、その相手がよりにもよってクールと名高い大親友の紫乃ちゃん・・・私が紫乃ちゃんを慕っていた理由は紫乃ちゃんが女の子に恋をしない人だからで、紫乃ちゃんが私を信頼してくれている理由は私が硬派な女性になりたいと思っていて恋なんかしたくないと望んでいたから・・・弓奈は友人としての二人の関係をすら根底から脅かす自分の恋心の存在に恐怖した。紫乃が弓奈に恋をしてることを知らない弓奈にとって、これはなんて残酷な運命だろうか。
「弓奈さん、大丈夫ですか?」
「・・・あ、うん」
「どうされたんですか」
「・・・あ、ちょっと、ね。椅子から急に立ち上がる練習を」
「もう・・・心配をかけないで下さい」
適当に誤摩化すことはできたが、すべてが180度変わってしまった自分の世界に弓奈の心はただ立ち尽くすばかりだった。




