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3-25 雨宮碧子の幸いなる初恋

自身の不幸を代償に、願った通りの幸運を導く――そんな秘密の力を受け継いだ雨宮碧子(あまみやみどりこ)は、街の片隅で猫又の黒兵衛(くろべえ)とひっそり暮らしていた。

他者の幸運を願った代償で命を落とした母のようにはなりたくない。そんな思いから人を避けて生きて来た碧子。誰のためにも力を使うまいと誓っていた。

しかし青年・葛木開斗(かつらぎかいと)との出会いが碧子の日常を変える。開斗への初めての恋は碧子の「彼の幸せを願いたい」という衝動を呼び起こして――

 港からの潮風がガス灯の間を抜け、夕刻の商店街に吹き渡る。街を行く楽しげな人々の賑わいから少し外れた一角に碧子(みどりこ)の骨董品店『雨宮堂(あまみやどう)』はひっそりと佇んでいた。


 薄暗い店内に漂うのはどこか懐かしさを感じる木と紙と埃の匂い。背の高い棚には品物が雑然と積み重ねられている。そして奥に設えられた勘定台。そのいつもの定位置で、碧子は置かれたランプに映る自分の顔をじっと見つめていた。

 時間をかけて結い上げた髪から後れ毛が覗いている。とっておきのリボンをつけてみたものの、慣れないおめかしはどうにも様にならない。碧子は小さくため息をつきながら、指先で髪を整えた。


 ふと視線を感じ下を向くと、黒猫――いや猫又の黒兵衛(くろべえ)がじっと見上げていた。

「なによ黒兵衛。言いたいことあるならはっきり言いなさいよ」

 含みのある眼差しに声をかけると、金の瞳がすっと細くなった。

「いや、ずいぶんめかしこんで可愛いなぁと思ってさぁ」

 黒兵衛は「くく」と小さく喉を鳴らし、二股の尾をゆらりと揺らす。

「愛しの彼が来るの楽しみだねぇ」

「な……っ!」


 ――愛しの彼。その言葉に一気に顔が熱くなる。碧子は思わず黒兵衛から視線を逸らした。

葛木(かつらぎ)さんはそんなんじゃないわよ。私が待っているのは西藤(さいとう)の大旦那様のお使いで来る(れい)さんです」

「ふうん。僕は別に“愛しの彼”が葛木だとは言ってないけど」

「~~~っ!」

 この猫又め……。碧子は足元の黒猫をぎりっと睨みつけた。

 とは言え、黒兵衛の言った内容は間違いない。図星だ。

 

 葛木開斗(かつらぎかいと)。二月ほど前に友人の西藤礼(さいとうれい)と共に来店し、週に一度は顔を出してくれるようになった。


 世の中から引きこもるように生きて来た碧子にとって、初夏の太陽のような開斗との出会いはただ眩しすぎるものだった。

 開斗は陰鬱な店の中で過ごす碧子とは正反対で、たくさん友達がいるらしい。けれど碧子にもいつも優しく、笑顔を向けてくれる。彼の笑顔を思い出す度に、碧子の心臓は甘い痛みに襲われた。


 その胸の甘い痛みを「恋」と認める勇気はまだない。けれど十九にして初めて芽生えた感情であることだけは、碧子自身もわかっていた。


(けど私は……)

 碧子には開斗と同じ陽光の下に踏み出すことはできない。そうありたいと願うことすらできない。

 碧子には不思議な力があるからだ。


 それは“願った本人の不幸を代償に、願った通りの幸運を導く”力。代々雨宮家の女に伝わり、碧子ももれなくその力を受け継いだ。


 これまで碧子はその力を自分だけで使うと決めていた。

 誰かのために使うなんてもっての他。他者の幸運を願い、その代償によって命を落とした母親のようになるのはごめんだった。だからできるだけ人から離れ、猫又の黒兵衛とこの骨董店でひっそりと過ごしていた……はずなのに。


 その時、ガラガラと店の戸が開いた。

「こんにちは!」

「ごめんください、西藤です」

 店内に突如響く溌剌とした声と落ち着いた挨拶。

 弾かれたように顔を上げた碧子の視界に、西日に照らされた栗色の髪が飛び込んでくる。そこにはいつもの眩しい笑顔を浮かべた開斗と、その後ろで眼鏡を押し上げる礼の姿があった。

「あれ、今日はリボンつけてる。良く似合ってるね」

「――! ありがとうございます!」


 気づいてくれた!

 ただそれだけなのに、嬉しさと気恥ずかしさで胸がいっぱいになる。頬に集まる熱を隠しきれないまま、碧子は準備していた風呂敷包みを礼に差し出した。


「礼さん、こちらが大旦那様のご依頼の品です」

「ありがとうございます」

 礼は表情を変えずに包みを受け取ると、軽く頭を下げた。彼の祖父が雨宮堂の常連なこともあり、礼のことは幼い頃から知っている。けれど物静かで何を考えているかわからない人だ。


 包みを受け取った礼はもう用事はないとばかりにくるりと背を向け、店の戸へと向かい始めた。

(え、もう帰るの?)

 思わず声が出そうになるのを、碧子はすんでの所で抑えた。まだ開斗と話せていないのに……。

 その時、開斗が慌てて声をあげた。

「待ってよ。俺、まだ碧子ちゃんと全然話してないんだけど」

「えっ」

 小さく声を上げたのは碧子だ。

(気持ちが通じた?)

 まさか、と開斗を見つめると、彼は苦笑いを浮かべていた。

「碧子ちゃん、ごめん。こいつ、活動写真が見られなくて拗ねてるんだよ。俺が遅刻したせいで着いた時には劇場は満員になっててさ」

「そういうことじゃない」

 その声に礼が無表情で振り向く。

「葛木が見たがっていたんだろう。今日で終わるのにって、さっきまであんなに落ち込んでいたくせに」

「碧子ちゃんにばらすなよ! 確かにすごく見たかったけどさぁ」


 そう言いながら開斗は顔を曇らせた。

 そうだったのか……と碧子は開斗の気持ちに思いをはせる。引きこもって過ごしている碧子には活動写真の魅力はあまりわからない。

(でも開斗さんが喜ぶのなら、私は願うわ)

 ――二人が活動写真を見られますように、と。


 その瞬間、碧子の瞳が琥珀色に光ったことに誰も気づかなかった。

「でも大丈夫。きっと次の機会が――」

「あの……」

 眉を下げる開斗の言葉を遮ったのは他でもない、碧子だ。

「ぜひもう一度行ってみてください。もしかしたらまだ間に合うかもしれませんから」

「え、もう一度?」

 我ながら突飛なことを言っていることはわかる。しかし碧子は彼らが間に合うという確信があった。なぜなら “碧子が願ったから”だ。


 一方、開斗たちは顔を見合わせ、不思議な重みのある碧子の言葉にどう反応すべきか迷っているようだった。微妙な沈黙を破ったのは礼だ。

「あの雨宮さん。気持ちは嬉しいですが――」

「いや行ってみようぜ、礼」

「開斗?」

 礼が眼鏡の奥の目を丸くした。真剣な顔をした開斗が礼を見つめている。

「碧子ちゃんがそう言ってくれたんだ。なんとなくだけどさ、行った方がいいんじゃないかなって気がする」

「……お前がそう言うなら」

 その言葉に碧子はふっと肩の力が抜けた。同時に言い表せない嬉しさがこみ上げる。

 開斗がちゃんと受け止めてくれた。それだけで“これから自分の身に起こること”も受け入れられる気がする。


「じゃあ碧子ちゃん、また今度!」

「失礼します」

「ありがとうございました」

 店を後にする二人を見送ると、碧子は小さくため息をつき、勘定台に戻ろうと振り返った。

 ――その時だ。

 かたん、と頭上から小さな音がした。ハッと見上げると、棚の上の何かが意思を持ったかのように動き出している。それが口の開いたインク瓶だとわかった時には、すでに碧子に向かって真っ逆さまに落ちてくるところだった。

 降り注いだ黒いインクは、碧子の顔面ととっておきのリボンを容赦なく染めた。冷たい滴りが頬を伝い、胸元へ滴り落ちていく。じわじわ染みるインクの冷たさに、碧子は呆然と立ち尽くすしかなかった。けれど災難にみまわれたのなら安心だ。


 これは“幸運の代償”なのだから。


 ◆

 

 碧子は開斗たちが「活動写真を見られる」よう願い、その代わり「おめかし」が台無しになった。代償は幸運と等価交換。きっと開斗たちは活動写真を楽しめているだろう。


「あの男のためになら力を使うようになるなんてねぇ」

「ち、ちがうわよ! 残念そうにしていたし、気が向いただけ――っくしょん!」


 翌日、店番をしながら大きなくしゃみをした碧子は寒気のする腕をさすった。勘定台の隅では黒兵衛が、じとりとした眼差しを向けている。

 代償として浴びたインクを落とそうにも、そのまま銭湯に行くわけにはいかない。下洗いよろしく、水を浴びてから外に出たせいか今朝からくしゃみが止まらなかった。

「でも二人、楽しめたかな……」

「それは本人に聞いてみたらぁ」

「え?」

 黒兵衛に聞き返す間もなく、ガラガラと店の戸が開いた。

「ごめんください」

「こんにちは! 碧子ちゃんいる?」

 この声の組み合わせ。まさか、と顔を上げるとそこにいたのは開斗と礼だった。


 碧子が返事をするより早く、開斗が興奮気味に駆け寄って来る。

「碧子ちゃん、すごいよ! 昨日あの後、劇場に行ったら弁士さんが遅刻したみたいで、俺たちが着いてから始まったんだ。諦めて帰った人が多かったから、良い席で見られさ!」

「そうでしたか。それは何よりです」

「碧子ちゃんが勧めてくれたおかげだよ」

 笑顔の開斗につられるように碧子は自然と微笑んでいた。開斗が喜んでくれたのならそれで十分。代償で浴びたインクのことなどすっかり忘れてしまいそうだ。

 

 しかし、ほくほくと穏やかな碧子の気持ちは長く続かなかった。

「それで俺、碧子ちゃんにお礼がしたくて」

 そう言うと開斗は胸元から一枚のビラを取り出した。

「これ! 来週、隣町で気球船の見物会があるんだけど良かったら一緒に行かない?」

 一瞬、時が止まる。心臓が大きく跳ねた。

「えっ」

「は?」

 驚いた碧子の声と、なぜか同じように驚く礼の低い声が重なり、二人は思わず顔を見合わせる。

「い、一緒に……ですか?」

 震える碧子の声に返って来たのは「もちろん」という、明るい開斗の返答だった。


 時が止まる雨宮堂の中、勘定台の隅で一部始終を聞いていた黒い毛皮がもそりと動いた。

「これはまた厄介なことになりそうだねぇ」

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