3-23 サヨナラ溶かして、積み上げて。いつか未来へ帰るまで。
遥香は、夢を見た。
それは過ぎ去ったかつての日の夢。
幼馴染と過ごした日々。その中の、ある日。六月の雨の日の夢。遥香の後悔はこの日にあった。幼馴染である由希は生まれつき体が弱く、夏を迎える前に亡くなってしまうのだが、かつての遥香はそれを知らなかった。
「わたしも、青春してみたかったなァ」
その由希の言葉がいつまでも遥香の胸に刺さっていた。
けれど、この日の夢はいつもと違っていた。
夢から覚めるはずの境を越え、遥香は夢の続きを紡ぐ。「青春をやろう」とかつて言えなかった言葉を、由希に投げかける。そこで知るのは、由希の残酷な真実だった。彼女は死ぬまでの数ヶ月を、何度も繰り返していた。
遥香と由希は、あの日できなかった青春をやり直すことに決めた。きっとこれは二人の未練のせいだからと。
──さぁ、サヨナラから、青春をはじめよう。
私の後悔は常に、この一瞬にあった。
六月、雨が降る放課後。二人きりの教室。じっとりと重たい、由希ちゃんの言葉。
「あーあ。わたしも、女子高生らしい青春やってみたかったなァ」
濡れた窓の外、雨に打たれ続ける葉桜を見つめる彼女の表情はどうだったろう。降りしきる雨のように泣いていたのだろうか。それとも、病院で処方されるあの苦い薬を飲んだ後のようにむくれていたのだろうか。
幾度も夢に見ているこの光景、この瞬間。かつての私は曖昧に彼女を慰めるような無責任な台詞を吐いた。幼馴染の由希ちゃんがいなくなるなんて、考えたくなかった。考えると、本当にそうなるような気がして逃避していた。
だから。夏が始まる前に由希ちゃんが病院で亡くなることを知らなかった愚かな私は、きっと良くなるだとか、大丈夫だとか、ありもしない可能性をあげつらった。
そして彼女が。由希ちゃんがこちらを振り向きもせず、悲しそうに「そうだね」と窓を見つめたまま答えるところで夢から覚めていた。
いつもなら、ここで夢から覚めるはずだった。
今回は、違っていた。
由希ちゃんが少しだけ窓を開けると、むせかえるような雨の匂いが葉桜の青臭さと共に教室を巻く。
瞬間、私は窓に向かって歩いていた。これは覚めない夢だ。そう直感した。けれど、夢であったとしても、いや、夢だからこそ私は存在しなかった続きを紡ぐことができる。
由希ちゃんの前に出て、思い切り窓を開けた。吹き込む風が、雨粒が私の髪を、服を、教室の床を濡らす。
遺影に貼りついた笑顔だけしか覚えていなかった彼女の、驚いた顏が見えた。あぁ、そうだ。驚いた時に頬に手を当てる癖が、由希ちゃんにはあった。
「私とやろうよ、青春! まだ遅くないじゃない!」
「遥香……?」
分かってる。過去が変わるはずなんてない。せめて夢の中で後悔を晴らしたいだけの自己満足だって分かっていても。
私は、この時。距離を置いて慰めるよりも、そう言いたかったんだ。
「何からやる!? お泊り会とか? あっ、旅行とか行く!? 私、貯金全部おろすよ!!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて遥香……」
「そりゃあ、あんまり遠くに行くのは由希ちゃんの体が心配だけど近くなら主治医の先生も許して──」
「落ち着けぇ」
ぺちりと額を叩かれた微かな痛みを、確かに感じた。夢にしては、実感が強い気がしないでもない。
由希ちゃんがそっと窓を閉める。しん、とした教室で、私の髪からぽたりとひとつ、雫が落ちた。
まっすぐ、じっと。視線がぶつかる。形の良い、二重のアーモンドアイと長いまつ毛が、私をのぞき込んでいる。
「遥香、久しぶりだね」
「えっ」
「わたしがもうすぐ死ぬこと、知ってるんでしょ」
「あぇ、っと、そのぉ……うん」
何だか思ってる感じの夢の進行じゃない気がする。もっとこう、都合よく後悔が晴らせると思ったんだけど。
でもまあ、夢だから多少は何があっても不思議ではないかも知れない。
「わたし、ずっと同じ時間を繰り返してるんだ」
「どういう、こと?」
「そのまんまの意味で。気がついたら時間が戻ってて、いつも同じことの繰り返し。自分が死ぬ日も、それまでの天気もニュースも、すっかり覚えちゃった」
そんなに何度も。私が何もできなかった後悔を抱えながら過ごしていた年月を? 私が学生を終えて社会に出て働いていた間も? ずっと同じ時間を繰り返していたと?
残酷な。あまりに残酷な。死ぬことが分かっていて、そこに囚われ続けているなんて。
「戻ってきてくれないかなぁって、ずっと思ってた。遥香と過ごすこの時間が、一番好きだったから」
「その、死ぬとき……苦しくなかった?」
「だいじょぶ。寝てる間に容体が急変してそのまま、って感じだから」
言葉に詰まった。さっきまで青春だ何だと叫んだ唇を、こぼれそうな涙をこらえるために引き結ぶ。
私は、由希ちゃんの最期を知らなかった。今際の際が苦痛でなかったことに、少なからず安堵する。
「それじゃ、行こっか。遥香」
「ふゃ?」
「ちょっともぉ。青春、してくれるんでしょ。まずは帰りにカフェに寄り道、なんてどう?」
パッと笑った由希ちゃんの顔はとても晴れやかな、遺影にあるような控えめなはにかみではない、満面のそれだった。
◆
それからの数ヶ月は、夢のような日々だった。いや、夢なんだけど。ええ、いやこれ本当に夢……かなあ。夢かどうか少し疑わしくはある。
なんというか、こう、生活感に溢れすぎているというか。過去の時間にそのまま戻った感じで。家に帰れば母親がいて、当然のように当時の姿で。テレビなんかも、その頃の番組で。
あと、学校の授業がしっかり面倒くさい。
それを由希ちゃんに愚痴ったら、期末テストの問題は全て覚えていると言う。潔く頼ることにして苦手だった世界史も得意だった物理もすべて右から左に受け流すことに決めて、その分、彼女と青春を謳歌する時間に充てた。貯金も全力で浪費してショッピングだってした。
由希ちゃんが何より興味を持ったのは、彼女からみて未来。つまり彼女が死んだ後の話で。病院での定期受診に着いていった待合室でも、いろいろと聞いてきた。
「そういえば、遥香って平成何年から来たの?」
「聞いて驚いてくれていいんだけどね。平成、終わったよ。令和になってる。命令の令に、和む」
「うっそぉ」
由希ちゃんが頬に手を当てて目を丸くする。それから視線を上のほうにちらちらとやって何か考え込んだ。
「……元ネタになりそうな漢詩、わかんないや。あ、もしかして万葉集?」
「ちょっと何言ってるか分かんないし、女子高生のトピックとは思えませーん。もっとこう、ポップなのを期待します」
「仕方ないでしょぉ。時間を繰り返してるせいで、好きなドラマの結末なんていつまで経っても観れないんだから」
「あー、それはそうか。ごめん」
「おかげで昔の作品通り越して古文漢文も守備範囲になりました、とさ。未完結ってのは罪だよ、罪」
やれやれと両手をあげて彼女はおどけてみせる。
こういう、どうあっても私の知識にない話題が出たりするからこそ、これが夢なのか、本当に過去に戻っているのか分からなくなる。
まあ、どっちでも、いいや。
二人して笑い合っていると、診察の順番がきた。今回の検診から少しの間は小康状態が続くらしい。なのでこのタイミングで私たちは海を見にいこうと計画していた。
学校は、自主的に無断で休むと互いの親に断りを入れて、最大級のわがままを述べた。「これまでやりたいことはほとんど我慢してきたから」との由希のちゃんの強い押しもあり、小康状態ならば、相手が遥香ならば、としぶしぶ受理されている。
こういう所は、幼馴染の特権だと二人して小悪党のように笑って少しだけの荷物を持って海へ向かった。
青春と言えば海。それも、夜明けの。そんな理論も理屈も何もない安直な思い付きでやってきた夜の海は、うっすら明るくなってきた空の色を吸い込んでしまいそうなくらい静かだった。
凪を見つめながら、砂浜に並んで座る。
由希ちゃんが静かに言った。
「なんとなくだけど、やりきった気がするなァ」
それは、私も感じていた。
ふわふわとした、心地よい疲れのようなもので思考の輪郭が薄れていて、ここが終わりなんだと漠然と思った。
駆け抜けた夢の時間が、静かに込み上がってくる。こぼれないように、夜と朝が混ざっている空を見上げた。
「遥香との最後の数ヶ月、すごく楽しかった」
「うん」
「とっても、とっても満足」
「……うん」
夜明け前の薄明の中、どちらからともなく手を重ねる。
「泣かないでよ。遥香」
「泣いて、なひ」
「今なら分かる。わたし、こうして一緒に過ごしたかったんだと思う」
「わた、しも……っ。あと、ちゃんと、ひっく、お別れ……っ」
「そうだね」
遠い過去の私たちは、ちゃんと別離の言葉を告げられなかった。またねと空虚な約束だけを交わして、それきりだったのだから。
水平線から朝陽がちりちりと二人を包んで、光の中に輪郭が溶けていく。
ああ、きっと、夢が終わる。
すべて。すべて光に呑まれて何も見えなくなっていく。
繋いだ手の感覚も次第に溶けて薄れていく中で、小さく「サヨナラ」と聞こえた気がした。
◆
光が収まって。静かに広がる光景。
私は、目を疑った。
六月、雨が降る放課後。二人きりの教室。わざとらしさのこもった、由希ちゃんの言葉。
「あ、あーぁ。わたしも、女子高生らしい青春やってみたかったなァ」
「えぇ……!?」
濡れた窓の外、雨に打たれ続ける葉桜を見つめる彼女は気まずそうに苦笑いしていた。おい、こっちを見なさい由希ちゃん。
「満足したって言ったよね!?」
「いやぁ、はっは。どーにも感動的な別れが台無しだなぁとは思うんだけど」
「ほんとだよ。返して私の涙」
「まさかリスタートとは思わなかったんだもん」
少し膨れてみせる彼女はかわいいと思えたが、それで誤魔化されるわけにもいかない。
由希ちゃんは笑って、窓を開けた。吹き込む雨が彼女を濡らす。毛先から滴る粒もろとも髪をかきあげてまっすぐに私を見る。
「ね、一緒にさがそ? わたしが、ちゃんと終われる方法」
「んもぅ、仕方ないなあ」
「そう言いながら笑ってんじゃん、遥香」
「由希ちゃんこそ」
由希ちゃんの、形の良いアーモンドアイがふにゃっと細められる。
外は雨。葉桜の青臭い匂いが舞い込む。私の後悔は、いつか晴れるそのときを待っているらしかった。





