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3-21 夏と図書館とわたしたちの怪談

【この作品にあらすじはありません】

 わたしたちは先の見通せない暗い廊下に立っている。右手に弟のてのひらのひやりとした感触が伝わってくる。蒸し暑い。足もとが板張りの黒い廊下から蛇のような生き物の背に変わりくねくねと揺れ動いた気がした。ぐらりと視界が揺れる。

 大丈夫?弟が心配そうにわたしを見上げた。

 わたしは頷くと、前へと一歩踏み出そうとして――立ち止まった。

 廊下の先に、小柄な人影が立っていた。

 男の子だ。顔は暗がりに隠れて見えない。

 ただ、暗闇を突き通すようにして、両の目が赤い光を放っていた。

 わたしは彼の名前を呼んだ。



 太陽が溶けてしたたり落ちはじめたかのような小五の夏。

 その夏を、わたしたちは叔母の家で過ごした。

 叔母は母の妹で名前を陽子といい、ようちゃんとわたしたちは呼んでいた。小さな雪だるまのようなシルエットをしていて、丸顔にはいつも微笑みを浮かべていた。とても優しい人で、叱られたことは一度もなく、他の誰かを相手に声を荒げている姿も見たことがなかった。母とようちゃんは仲が良かった。母が仕事で遠出をするときなど、お土産とお小遣いを持たされると、弟と一緒にバスを乗り継いでようちゃんの住む、田畑と森に囲まれた田舎の広い家へやってきて、数日あるいはもっと長い期間預けられた。

 母は出張で、数週間の予定で海外に出ていた。父はいない。なぜうちには父親がいないのか、については大分以前に母から説明を受けた。母らしく、穏やかに、わかりやすく順序立てて。一通り聞いたわたしはうなずき、分かった、そうなんだね、と答えたという。母から物わかりの良い賢い子、と褒められて嬉しかったのはおぼえているのだけれど、肝心の父がいない理由はすっぽりと記憶から抜け落ちている。父は昔話に出てくる大男のように、お城のあった雲の上から転がり落ちて消えてしまった。そんなイメージだけがうっすら残っている。

 だから、夏休みにようちゃんの家に滞在するのは、わたしたちにとって毎年の恒例行事になっていた。ようちゃんのことも、どこまでも部屋が並んでいる家も童話みたいで好きだったから、いつも楽しみにしていた。家族で過ごした夏の記憶はない。

 わたしには弟がいた。くまのぬいぐるみのテディ。母はくまきちと、ようちゃんは健さんと呼んでいた。わたしにとってはテディ。コットンでできた茶色の毛皮に、ぶどうみたいなプラスチックの黒い眼をしていた。わたしは弟の手を引き、ようちゃんの広い家を探検した。

 家の裏に置かれたプレハブ小屋、それはわたしたちがはじめて知った“図書館”だった。

ようちゃんの図書館には書棚が壁に沿って並べられ、大小取り混ぜた本がびっしりと詰め込まれていた。ようちゃんが集めた沢山の物語。難しくてよくわからない本もあったけれど、わたしでも興味を持てそうな本を見繕っては勧めてくれた。読書をおぼえたばかりだったわたしは、備え付けられた飴色をした木製のテーブルで本を広げるのが習慣になっていた。

 わたしたちは近所の森まで出かけた。雨で増水した泡立つ川をのぞきこんだ。人の少ない見知らぬ商店街を歩いた。当然、図書館でも一緒に本を読んだ。物語に没頭するわたしの隣りで、テディも興味深げに目で字を追った。

 地元の子供たちもたまに図書館に遊びに来た。冷房が効いていて、ようちゃんが手作りのアイスをサービスしてくれるから、ちょっとしたたまり場のようになっていた。アイスを口に運びながら持ち込んだゲーム機に向かうばかりで本には関心を示さない男の子もいれば、友達とおしゃべりしながら一応何冊か手に取ってぱらぱらとめくってみせ義理を果たしたことにする大人びた女の子もいた。まともに本を読んでいたのはわたしたちくらいだったと思う。彼らは友達同士でさわぐこともあって、図書館の利用客としてはありがたくなかった。でも、プレハブの入り口には“いつでもだれでも大歓迎”と書かれた紙が貼られていて、ようちゃんは言葉の通り、マナーを知らない子供たちでも笑顔で迎え入れていた。

 ようちゃんは、いわゆる“地域の名士”の娘だった。名士ことわたしたちの祖父母でもある両親は既に亡く、ささやかだけれど一人でつましく暮らす分には十分な遺産をゆっくりとすり減らしながら、穏やかに暮らしていた。住民に開放されたプレハブの私設図書館は彼女なりの地域貢献だったのだろう。事情も人柄も近所の人々には知られていたから気安く利用されていたけれど、子供たちだけで使わせるのは心配ではないかという声も少ないながら実はあった。

 ようちゃんがそのことに気づいていたかはわからない。

 わたしは気がつかなかった。

 だからある時、少しは会話するようになっていた子供たちから、図書館にまつわるおどろおどろしい噂話を聞かされても、怖いとか腹が立つとかいった感情は湧かなかった。むしろ、しろ、他人事の怪談を耳にするときの、わくわくするような興奮を感じた。

 こんな話だ。

 その日、小学生のA子ちゃんは図書館で夕方まで本を読んでいた。一緒だった友達はすでに帰宅していて、読書に夢中だった彼女だけが気がつけばひとりぼっちで取り残されていた。

 オレンジ色の夕陽が窓から差し込み、下校の音楽が遠くからかすかに聴こえる。もう室内は薄暗くなっていた。字が読みづらくなったので明かりをつけようと、壁のスイッチを手で探った。指先が触れた固いものを押したけれど、カチカチと音はするものの照明はつかなかった。おかしいな、と思ったA子ちゃんがなおも繰り返し押していると、がたん、と大きな音がして床が震えた。風がすうっと首筋を撫でた気がして、見れば、部屋の隅に暗い穴のようなものが開いていた。ついさっきまで、そんなものはなかったのに。

 A子ちゃんがこわごわ中をのぞきこむと、暗闇へと階段が延びていた。

 これはなんだろう。どこへ通じているんだろう。

 好奇心の強いA子ちゃんは、少しためらってから、もしかして入ってはいけない場所なのではという疑問を抑え込んで、そろそろと足を踏み入れた。


 三人の別々の子供たちから聞いたので、筋立てはその先三つに分かれる。他愛ないやつと、ろくでもないやつと、おぞましくて口にする気の起きないやつだ。どれにも共通するのは、地下で見てはいけないものを目にしてしまったA子ちゃんが、階段を必死に駆け上がる場面につながること。地上に戻り、荒い息でプレハブの入り口に目をやると、そこに小型の雪だるまのような黒い影がたたずんでいる。A子ちゃんは悲鳴を上げる。白い半月のような笑みを浮かべながら近づいてくる影に包み込まれ、それから彼女の姿を見かけたものは誰もいない。


「その話は、A子ちゃんから誰が聞いたの?」とテディが訊ねるので、わたしは頷いて、三人目の語り手だった男の子に質問した。

 男の子は、静かにほほ笑んだ。

 まわりにいた子たちも顔を見合わせてくすくす笑った。そして申し合わせたようにいっせいに席を立つと、笑いながら男の子とわたしたちを残して出ていった。

 変な子たちだね、とわたしがつぶやくと、テディは頷いた。

 男の子はじっとわたしたちを見つめていた。


 その男の子はいつもテーブルの真ん中で静かに本を読んでいた。図書館なのに読書をしている子はいなかったから、そこだけぽつんとライトで照らされたかのように目立った。

何がきっかけで話すようになったのかはおぼえていない。はじめは弟と話していた気がする。わたしはいつでもテディと一緒なのだけれど、その日は図書館には他に誰もいなくて、だから弟はひとりで椅子に掛けてわたしがトイレから戻るのを待っていた。わたしが母屋から戻ると、部屋の中から低い笑い声が聞こえた。知らない男の子が、弟の隣りの席に座って何か話しかけているのが見えた。これは珍しいことだ。子供たちはテディに意地悪をすることや、遠巻きにすることはあっても話しかけたりはしないから。

 わたしはふたりに声をかけた。

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