3-13 やがて吟われる者たち
僕はずっと、英雄になりたかった。
赤ん坊だった頃に産まれ故郷を魔物に襲われ、冒険者に助けられたと知ったのがきっかけだった。
僕は新しい町で元気に育ち、姉代わりのルルと賢書と呼ばれる自我を持つ本のロゴスと、英雄について目を輝かせて語り合った。
幸せな日々だった。
あの日、僕の全てを奪われるまでは。
あの日、僕が再び、目を覚ますまでは。
僕は、英雄になりたかった。
ーー英雄というものが、どんなものかも知らないで。
「英雄になるために必要な要素とは、何だと思う?」
僕にそう問いかけたのは、人ではなく本。
酒場が併設された冒険者ギルドの一角。
窓際に置かれた小さなテーブルに置かれたロゴスという名前の本は、14歳になったばかりの僕にページをめくられながら、返答を待っている。
「やっぱり、力じゃないかな。ほら、このページの英雄だって、ドラゴンを倒して村人を救ったんだし」
本に書かれているのは、ロゴスが英雄と認めた者の生い立ちと、輝かしい活躍だ。
英雄に強く心惹かれていた僕は、5年前にこの本を見つけてからというもの、ロゴスの虜だった。
「まぁたその本読んでるのウィル? よく飽きないわねぇ」
声をかけてきたのは、僕より4つ年上の女冒険者、ルルだ。
短いのにボサボサな金色の髪で、目は蒼い。
動きやすそうな皮鎧には、昨日はついていなかった真新しい傷があり、茶色い靴は雑草の汁で汚れていた。
依頼を終えて、いま帰ってきたところなのだろう。
ルルは家族のいない僕にとってはお姉ちゃんのような存在で、憧れで、15歳になって冒険者の資格を得られたら、真っ先にパーティを申し込みたい目標だ。
「う、うん。英雄に必要な要素は何だと思うって、訊かれてたところだよ」
「ふぅん。ま、英雄になんか興味ないけど。そうね、献身ってところかしら?」
「否。悲劇による偶然と、人間性による必然である」
「でもさ、力がなかったら戦えないぜ」
「否。215ページ」
「ロドのこと? 確かに魔物の群れから村を守るために、単身で巣窟にいって村人が逃げる時間を稼いだけどさあ。一匹も倒せずに、死んじゃうじゃん」
「英雄に求められるのは、必ずしも勝利ではない。それに、我と対話できる時点で2人にも英雄の素質がある。未だ戦う力のないお前にもだ、ウィル」
ロゴスがそう言ってくれる度に、僕の心は大きく弾む。
早く戦ってみたいと、握る拳に力が入る。
僕はきっと、冒険者になって大きな成果をあげて、英雄の代名詞になるんだ。
ルルがふぁ、と欠伸をして、テーブルの上に両肘を乗せる。
「これだけ冒険者がいるのに、本当にロゴスの声が聞こえるのは、この村で私とウィルだけなの?」
ロゴスは本だ。口もない。なのに会話できるのは、ロゴスが英雄の素質ありと認めた者に、念話という魔術で語りかけているからだ。
傍からみれば本を広げて独り言を呟いているようにしか見えないだろう。
と、ギルドの中がざわめいた。
喧騒の中、入口を見れば高価な装備を身にまとった4人の男たちが、受付に向かって歩いていた。
王都から派遣されたパーティ、漆黒の面々だ。
先頭を歩くリーダーのライは自信に満ちた顔で受付に着くと、カウンターの上に布袋をドンっと置いた。
「ワイバーン、狩ってきたぜ。死体は大きすぎたから、代わりに鱗を剥いできた。証明には十分だろう?」
その言葉に、僕は目を輝かせてロゴスに向き直る。
「なあロゴス! ワイバーンだぞ、ワイバーン! ライはもう英雄だろ!」
「否。アイツに語りかけても反応がない。アイツに、英雄の素質はない」
「ロゴスの耳が遠いとかじゃなくて?」
「ばかたれがっ! 我は『賢書』、英雄の書である!」
賢書とは、ロゴスのように意思をもつ本で、この世界に7冊あるらしい。
英雄・知識・性技など、何じゃそりゃというものまであるが、その内の1冊であることにロゴスは誇りをもっているらしい。
「ごめんって! ちょ、本閉じないでよ! すねないでって!」
「ふふっ。さぁてと、私も報告してこよ。そしたらまた次の依頼に行くんだけど、場所が遠くてね。戻ってくるのは8日後になると思うわ。それまで、ウィルのことよろしくね」
「うむ。心得た」
「えっ? 逆だろルル姉! 俺がロゴスをよろしくするんだよ!」
◆
ガヤガヤと賑わうギルド内の声をかき消すほどの悲鳴が外から聞こえたのは、それから3日後の昼時だった。
男の、女の。外から聞こえてくる恐怖を帯びたその悲鳴の後に続いた言葉は、ギルド中の屈強な冒険者たちを外に連れ出すのに、十分な悲壮感を纏っていた。
「わ、ワイバーンだあッ!」
「漆黒のライが仕留めたはずだろッ?」
「ちげぇ。ヤツら、ウソをついたんだ! 見ろあの傷! 同じ個体だ!」
悲鳴は伝染して、折り重なり、――ドォン! という轟音が響いて一瞬だけ静かになり――すぐに絶叫へと変わった。
窓から外を見れば、逃げ惑う人々と崩壊した建物ばかりが目に映る。
「ライはっ!? ライはどこ!」
僕は慌てて受付に走った。
その奥にいる青白い顔をした受付嬢は震えながら、数度、ぱくぱくと言葉にならないか細い声を捻りだし、突っ立ったまま消え入りそうな声を発した。
「あの日、報告の直後、この村を去りました……」
助けはこない。
言外に言う受付嬢を背後にし、僕はロゴスのところに急いで戻った。
「ロゴス、僕と契約して!」
「ならん」
「なんでさ! 契約すれば、ロゴスに書かれた英雄の力が使えるんだろッ? この本には、ワイバーン以上の敵に勝利してきた英雄も書かれてる! 村を救えるんだ!」
「理由は2つ。ウィルの小さな体では、その英雄たちの力は発揮できない。そして何より、まだお前には“偶然”が足りていない」
「ロゴスの分からず屋! いいよ、それなら僕は、自分の力だけで英雄になってやる!」
言い放ち、僕は外に出ようと体の向きを変えた。
ふと、僕の視線が窓の外に向けられる。
なんとなしに向けた視線の先に、しかし黒い鱗を纏った家よりも大きいワイバーンが、一直線に飛んでくる光景が見えて。
「伏せろぉぉおおッ!」
外からの言葉に従う余裕もなく、聞いたことのない轟音と共に、僕の目の前にあった壁が粉々に砕け散った。
◆
「はぁッ、はぁッ、ウィル! ウィル!」
我、賢書のロゴスは再び、誰とも会話のできない退屈な時間を過ごしていた。
太陽が3回沈み、4回目が登ったその日、退屈な時間は終わりを告げた。
栗毛色の馬から飛び降りたその少女は、ルル。
彼女は額に脂汗を浮かばせながら、瓦礫ばかりになった野ざらしの我が住居で、叫んでいた。
「すまない。本である我に、ワイバーンから彼を守る術はなかった。……おそらく、その下だ」
ウィルが下敷きになっているだろう瓦礫にルルが手をかけたとき、我はそう呟いた。
ルルが全身を使ってその瓦礫をどかすと、そこには生前の面影もない、しかし確かに当日着ていた茶色い衣服を身にまとった、血に塗れたウィルの死体があった。
綺麗に黄色がかった瞳は力なく開かれたまま白濁し、流れ出た血のせいで、赤茶色だった髪の毛は黒い。
「……ぁ。ぁぁ、ぁぁあああぁっ……!」
虫の巣窟となっているウィルの遺体を、ルルは跪き、優しく胸で抱いた。
途端、我は直感した。
この子もまた不幸なことに、英雄に選ばれたのだと。
「ルル。その子を生き返らせることができるとしたら、どうする?」
慟哭する小さな背中に語り掛け、返事を待つ。
ルルはゆっくりと振り返ると、涙と鼻水で顔面を濡らした顔で、呆然としていた。
「……どういうこと?」
「我と契約すれば、過去の英雄と同じ力が使える。――自身の命と引き換えに、他者を蘇らせた英雄の力が」
どうするかと尋ねたが、直感した私には、既にルルの決断が解っていた。
だからこそ彼女らは、英雄と呼ばれてしまっているのだと。
「教えて、ロゴス。何ページなの?」
ウィルをそっと下ろし、悠然と立って我を見つめるその瞳は、揺れてはいなかった。
彼女はきっと、長い時間をかければウィルの死に整理を付けられただろう。
そうさせてやれなかったことに悲しみを覚えつつ、我は1つのページを開く。
「構わないのか」
最期に、問う。
決意が変わらないのを、見越したうえで。
「……構うよ、大切な自分の命だもん。だけどウィルを救うことができるなら、私は諦められない。もしかしたら救うことで、ウィルを傷つけるかもしれない。でも、私は、それでも、ウィルに生きていてほしいんだもん」
ルルが我に触れると、本と呼ばれる我の体が、淡い光を放ちだす。
『自身の命と引き換えに他者を蘇らせた英雄』のページの右下に、『模倣者』として力を使ったルルの名が、ゆっくりと刻まれていく。
「遺言があれば、聴くぞ」
「……貴方の夢を、応援しているって」
「それが、英雄になることでもか」
「こんな結末ばかりなら嫌だけど、そうじゃないことも貴方たちの会話の中で知っているから。……それに血は繋がっていないけど……弟の夢を応援してあげるのも、家族の役目でしょ? ――今度こそ、ウィルのことをよろしくね、ロゴス」
「うむ。今度こそ」
返事に満足したのか。我の体にルル・レフスの名前が刻み終わると同時、儚げに笑ったルルはそのまま、ウィルの横にドサリと音を立てて崩れ落ちた。
入れ替わるようにして、蒼白だった頬に赤みを宿したウィルの口元から、静かな寝息が漏れ始める。
ウィルの瞼が再び開かれたとき、彼はきっと、英雄としての要素も持ち得てしまうだろう。
標的はおそらく、虚偽の報告をした『漆黒』のリーダーであるライ。
だが、我が体に英雄の軌跡はあれど、復讐者の名は刻まれていない。
「約束した以上、間違った方向にいかぬように導いてやらねばな」
静寂に包まれた廃墟で、我はそっと自身の体を閉じ、ウィルの目覚めを待った。
一度すべてを失った、やがて、英雄と呼ばれる者の目覚めを。





