悪童
『なあ、ずっと話しかけとるのに、無視するなよ』
廊下の奥。光の差さないそこで、二つの目が光る。
咄嗟に葉月と監視の人の前に出て、札を構えた。
「何者だ!」
『わしやよ、わし』
とことこ、光る目が近づいてくる。会話ができるということは、それなりに位の高い妖怪ということだ。
しばらくそれを睨みつけるようにして動かずにいれば、だんだんと目線が下がってくる。そしてようやく、その正体がはっきりと明るみに出た。
『いやいや、その節はどうも』
「……た、た、」
『お礼が遅うなってしもうて、すまんの』
「たぬきーーーーー!!!」
俺はもう駆け出していた。
廊下の奥から現れた、中型犬くらいのもふもふした動物。茶色い毛並みに太い尻尾、目の周りだけ濃い毛色が、なんとも可愛い。
頼む、お腹にダイブさせてくれ。たぬき吸いをさせてくれ。
しかし俺がたぬきに飛びつく前に葉月に襟を捕まれ引きずり戻される。離してくれ、俺はたぬきくんと親睦を深めたいだけなんだ。たぬきくんはそんな俺たちを見上げて。
『そういうたら、ありゃええんか』
たぬきくんが首を傾げて聞いてくる。なんだそれ、ふっさふさじゃないか。
『ほら、あの貝』
「あ」
そう言えば、とポンと手を打った。なんでこんなことになったのかすっかり忘れていた。
『ここは上に水があるけん』
「……ああ! 貯水タンクか!」
『ご機嫌じゃよ、あの貝』
正直もう蜃のことなどどうでもいいからたぬきくんと遊んでいたかったが、葉月と監視の人の目線が痛いので、渋々立ち上がった。
「じゃあサクッと蜃退治してくるから待ってくれ、たぬきくん!」
『張り切っとるねー』
エレベーターに乗り込めば、たぬきくんもとことことついてきた。狐くんとは違う丸いフォルムに、はやる気持ちが抑えきれない。撫で回させてくれ。監視の人はもう俺を一切見ずに疲れ切った表情で明後日の方を見ていて、葉月がその肩にそっと手を置いていた。
ちん、と間抜けな音と共にエレベーターが屋上につき、たぬきくんのためにすぐさま貯水タンクへと向かう。落ちないでちょうだい、と心配そうにしている葉月と監視の人を置いて、一人梯子を登ってみれば、タンクの蓋が開いていて中が丸見えだった。
「うお、でか」
その貯水タンクにギチギチにハマっていた、巨大ハマグリ。これが妖怪、蜃である。
「お前が妖怪じゃなきゃ、最強のお吸い物ができたのになー」
そう言った瞬間、ぱかりと口を開けた蜃からもくもくと煙が立ち込める。そこから現れたのは、やけに間抜けな笑顔の俺。
「またかよ! なんで俺ばっか!」
怒りとほんの少し霊力を込めたチョップをして幻覚を消せば、なぜか煙の中から俺が二人に増えた。気持ちわるっ。
「普通妖怪ならもっと怖いもん見せるだろ。なぜこんな間抜け顔……」
『そりゃ、ここじゃあんたが一番おとろしいけん』
いつの間にか隣に来ていたたぬきくんがそう言った。あ、もふもふが足に。すいません今顔からダイブします。
『ここじゃあ、あんたに化けるんが、一番おとろしいじゃろ』
もう全てを無視してたぬきくんを持ち上げ腹に顔を埋めて深呼吸をした。あ゛ーーー、獣くせえーーー。もふもふしているーーー。
俺がうっとりと深呼吸を続ける間に。
「【空縛】」
「あ」
後ろから梯子を登ってきていた葉月が蜃を消した。なんの抵抗もなく、巨大なハマグリは煙となって消えた。
たぬきくんを抱えて梯子を降りれば、葉月が腰に手をやって呆れた様子で聞いてくる。
「あなた、上で何をしていたのよ」
「たぬき吸い」
「あなたの方が妖怪じみてるわ」
泣いた。たぬきくんの腹で。
『あんた変な人間やなぁ』
ふさふさ、しっぽが揺れて俺の頬に当たる。俺もう妖怪でもいいかも。
俺がふさふさを楽しんでいると、葉月がたぬきくんの顔を覗き込んだ。
「そう言えばあなたは、こんなところで何をしていたのよ。さっきも、声をかけるだけで私たちを化かしもしなかったじゃない」
『言わなんだったか? お礼しにきたんじゃわい』
「お礼?」
たぬき式深呼吸を続けて酸欠になりかけていたら、葉月にたぬきくんを取り上げられた。やめてくれ、俺たちの仲を引き裂くなんて。
『あんたには、あん時お世話になったけん』
突然、つぶらな瞳で見つめられる。もう全部どうでも良くなる可愛さだが、はて。俺は一体いつたぬきくんにお礼を言われるようなことしたかな。
「あ! もしかして狐の嫁入りの時に参列してたとか?」
『狐の話はやめい』
渋い声で嫌がられてしまった。ごめん。
『あん時よ、あん時』
「うーん、いつのことだ?」
『ほら、この間。白蛇の主様、治してくれたじゃろう。あそこの土地は、あのままじゃ死んどったけん。わしらの住処も、あそこにあったけん。一族みんな、あんたのおかげで助かったんじゃわい』
はて。
頭の中で、たぬきくんに言われた言葉がぐるぐると回る。この間。白蛇、死んでた、主。
「え!? 主って土地のヌシ!? もしかして十条の騒ぎの時の……ってことは君、もしかして四国から来た!?」
『新幹線でな』
色々衝撃。最近のたぬき半端ねえ。
『で、お礼に来たんじゃわい』
「うおおお……!! こちらこそわざわざありがとう……!!」
感動で泣きそうだ。あの時井戸に落ちた甲斐があった。
『で、これ。やる』
「え」
たぬきくんが自分の毛の中から取り出したのは、緑の唐草模様の風呂敷。何かが包んであって、少し重い。
「開けてもいい?」
『もちろん』
風呂敷を開ければ、そこには大量のどんぐりだとかきのみだとか、落ち葉が入っていた。あと、一つだけやけに目立っている人の拳ほどはある艶やかな栗。手のひらに載せてみれば、生ぬるい温度があった。絶対地球産じゃないだろこれ。
「こ、この栗は一体……四国の新しい名産とか?」
『ああ、俺の息子。化けるの練習中で、風呂敷に入れとったん忘れとった』
俺の手の上の栗が震え出し、しまいには跳ねて監視の人の足元へと転がっていった。よくみれば、もう小さな尻尾や毛が出てきている。可愛い。しばらく見つめていれば、尻尾の奥から小さな二つの目が顔を出した。
『……ぽん』
「嘘だろ!? たぬきってぽんって鳴くの!? よしわかった! もうみんなうちで飼う! 一生大事にするから!!」
親たぬきと子たぬきを両脇に抱え、家に帰ろうと駆け出せば。
「あんた、なんでここにいるの」
「あ、やべ」
階段の前で仁王立ちするお姉様に、思わずUターンをしようとしてがっしりと肩を掴まれた。
葉月と監視の人に助けを求めるも、完全に無視される。見捨てられた。
「お姉ちゃん、あんたが一人でどっかいった後も、一階ずつ全部見てまわって、何もなかったんだけど。まさか、あんたもう本体消した?」
「……いや、消したのは葉月」
「言い訳してんじゃない! やったならさっさと報告しな!!」
「ひぃん……」
「あとそのたぬき何!? もといたところに返してきな!!」
「いやだああああ!!!」
たぬき親子は、夜の電車で四国に帰った。
たぬきくんのぬくもりを思い出して泣きながら、姉につれられみんなでデパ地下で豪遊した。
俺は泣きながらモンブランを買った。
「なあ葉月」
夕飯を終え、居間には俺と葉月と監視の人しかいなくなった。テレビからは今話題の恋愛ドラマのオープニングが流れ始める。
「なにかしら?」
「……家ないんだったらさぁ」
監視の人が俊敏な動きで立ち上がって廊下へ消えた。それを見て葉月が首を傾げる。
「ウチ、住まない?」
「…………そっっ」
裏返った葉月の声。耳は真っ赤になり、ワナワナと開いた口が震えている。
対する俺は、テレビの方へと顔を向け、自分の顔が熱いことを隠そうと右手で口元を押さえていた。くそ、もっとサラッと言うはずだったのに、これじゃ意識しすぎのキモいヤツじゃないか。
「ほ、ほら。ウチ部屋はめちゃくちゃ余ってるし、清香たちも喜ぶし、悪くないんじゃないかと思って……」
「……それ、は」
沈黙。
お互い気まずい中で、ひゅっと葉月が息を吸う音が聞こえた。それから葉月は、一瞬声を詰まらせて。
「かず、和臣は。私が、家がなくて困っているから、ここに置いてくれるの?」
不安げな上目遣い。
その目に、思わず声が出た。
「違う!」
「……じゃあ、どうしてかしら?」
もう覚悟を決めろ、と。いつもなら貞操観念だとか葉月が可愛いから仕方ないだとか言ってくる心の中の天使と悪魔の両方に、背中を蹴られた気がした。
「……葉月のことが好きだから。一緒に住もう」
真剣に、目を見て言えば。一気に葉月の耳から顔まで、茹でられたように真っ赤になった。そのまま、小声で言われる。
「……こ、ここは。」
緊張で喉がしまる。葉月は俺と同じ気持ちなのか、俺たちのペースは間違っていなかったのか、俺は受け入れてもらえるのか。全ての答え合わせが、もうすぐくる。
「日当たりが、良いかしら」
「へ?」
突然の質問に、思わずおかしな声が出た。しかし葉月が真剣に答えを待っているようなので、よく分からないが、とりあえず頷いておいた。ウチの縁側は日向ぼっこに最適だと、葉月だって知っているはずだろう。
なんだか一気に先ほどまでの緊張が抜けてしまって、ぽりぽりと頭をかいた。なんだって今そんな質問を。
いやまて、もしかして今のは、話題をそらすことでの遠回しな同棲拒否では。まだ早かったのか、早とちりキモ野郎か。すみませんこっそり泣いてきていいですか。
涙目で腰を上げたところで。
「……よろしく、お願いします」
目尻に涙を浮かべて、頬を染めて。
ふわりと、春の花が開くように。
儚さをはらんだ微笑みで、葉月が俺の手を取った。
傅きたくなるような美しさ。しかしそれは一瞬で、葉月はすぐにいつもの無表情に戻った。
「あなたのお家に住むこと、お父さんに言わないとだわ」
「ぬあああ!! それがあったー!!」
お義父さんの顔が浮かんで泣いた。将棋でまだ一回も勝てていないのに同棲させてくださいだなんてどの口が言えよう。
「あら。逃げるなんて許さないわよ、和臣」
葉月が俺の手を引いて、すぱ、と廊下への戸を引いた。そこには、膝を抱えて座る、顔色の悪い監視の人が。
「ちゃんと記録してくれたわよね?」
「……え?」
監視の人が、怯えたように葉月を見上げる。
葉月は、俺と繋いだ手を掲げて胸を張った。
「和臣が私に好きだと言ったこと、私と一緒に住もうと言ったこと」
「……も、申し訳、ありません。わ、わたし、あなたたちのプライベートを、踏み躙って……!! 忘れ、忘れられるはずがなかった、だって私は……私の仕事は……!! 本当に、嫌っ……!!」
監視の人が両手で髪を握る。ブチブチと、髪が切れる音がした。
慌てて止めようとして。
「違うわ」
隣で上がった葉月の声に、監視の人がピタリと動きを止める。乱れた髪の間から、怯えた目が葉月を見上げた。
「私があなたを利用したのよ。和臣があとからやっぱりナシ、なんて言わないように。あなたに記録してもらったの」
「……え?」
「あなたがいてくれて助かったわ」
その言葉に、ぼろ、と監視の人の目から涙が落ちた。その胸に、葉月が、噛んで含めるようにゆっくりと言った。
「私、あなたがいてくれて、嬉しいわ」
か細い泣き声と、その合間に何度も何度もごめんなさい、酷いことをしてごめんなさいと言う声が、廊下に響いた。
「……」
まずい。
なんだかよくわからないうちに監視の人が号泣し始めた。しかもそれを見た葉月が、どう慰めようかと考えすぎて無表情のまま固まっている。先程から何回か、何か声をかけようと口を開いては閉じるを繰り返していた。
本当になぜ監視の人がこんなことになったのかはわからないが、こういった場合大抵俺が悪い。まさか俺の監視が辛すぎて号泣してるのか。いやどう考えてもそうだろう。今回だってたぬき吸ったし。
「和臣」
「はいっ!!」
葉月に呼ばれて慌てて姿勢を正した。本当にごめんなさい。
「っ!」
がち、と歯が当たった。突然の、勢いまかせのキス。なにがおきた、と思う間に、廊下に座ったままの監視の人が目を見開くのがみえた。
唇触れていた熱が、ほんの少し離れて。
「あなたに見られていたって、私たちはなんでもないわ。だから、見せつけてあげるの」
葉月の手が俺の頭に回る。そのままぐるんと後ろを向かされた。もう本当に何が起きているのやら。
「ね。私の方が悪い子よ? ……だから。だから、あなたは……泣かなくて、いいんじゃないかしら」
ふへ、と。
なんだか間抜けで、子供みたいな笑い声が、後ろで聞こえた。
「……慰め方、不器用すぎませんか」
「だ、だって」
「……やはり。あなたたちは、日向にいるべきだ」
二人が後ろで一体なにを話しているのかはわからないが、強引に後ろを向かされている中で、一つ発見したことがあった。
この廊下の窓からは、星が見える。




