低温
気がついた時には、水の中にいた。
「っ!!」
ごぽり、と口から肺に残っていた空気が逃げる。慌てて水面へ上がろうとして、手首が縛られていることに気づいた。それでも、気が遠くなりながら水面をめざし。
「ぶはっ!!」
なんとか息を取り込んだ。しかし、水の底に足がつかないので、息を吸う度沈んでは水を飲み溺れかけてしまう。それに、この水は冷たすぎて、もう身体中の感覚がなかった。
自分の耳に、やけに切羽詰まった呼吸音と、バシャバシャと水面を荒らす音だけが届く。なぜだろうと思ったら、ここは暗すぎるのか目に暗闇以外何も映らないから、耳が敏感になっているのだと気がついた。
ここはどこで、俺は一体何をしているんだ。
そして、それは唐突だった。
「ぁ.......」
うき上がれない。空気が吸えない。
冷たい水の中を、頭を下に沈んで行く。
目を開いても、ただ闇が広がるだけ。また、肺の中の空気がごぽ、と抜けていった。
「.......」
感覚が無くなっているはずの指先に、何かが当たった。何となく力を振り絞ってそれを掴み、握り込む。
はて、俺は一体、どこで何を。
「!!」
ごぼごぼ、と口と鼻から息が漏れた。思い出した、理解した。俺が今何をしていたのか、この手に握ったものがなんなのか。
今度こそ冷静に、しっかりと水面を目指す。それから術で壁を張って足場を作ろうとして、声が出ないことに気がついた。それに、この冷水の中で凍えている今これ以上自分のエネルギーを放出するのは危険だ。
「.......」
妙に鈍い頭で、どうにかここから出る方法を考えていると。
ぱ、と。空から明かりが降ってきた。
「!」
見上げた空は、ぽっかりと丸い光の穴が空いていた。その端に、涙でぐちゃぐちゃの女の子の顔が覗く。
ああ、俺は今井戸の中にいて、あの子が井戸の蓋を開けてくれたのか。
「し、しなないで.......!!」
大丈夫、死なないから。
だから、何か糸的な物を垂らして引っ張りあげて。
「?」
いや、糸なら自前のがあったわ。
井戸の側面を這わせて、1本の糸を登らせていく。女の子は、それの先端を掴むやいなやどこかへ消えた。しかし、なんだか糸の端がなにかに結ばれた気配があったので。
その糸を引いて、自分を井戸の外へと引き上げる。
「.......ぁー」
どうしても喉が痛く、声が掠れる。霊力で手首の縄を切って、やっとたどり着いた井戸の淵に腕をかけた。風が、空気が暖かい。それに、ほ、と一息ついたのだが。
『遅い。つまらん。つまらんつまらんつまらんつまらん。私が、面白く殺し合えと言うただろうに』
目の前に、ずるり、と這う赤黒い蛇がいた。
思っていた5倍展開が早い。
『ああ、気に触る癪に障る頭にくる。苛立たしい、腹立たしい、憎たらしい!』
蛇は、粘ついた何かが糸を引く、大口を開けて。
その前にいる人達を、殺そうとした。
なので。
井戸の中で拾ったソレを、力いっぱい蛇の前へぶん投げた。
随分昔に井戸の中に落とされた、所々錆び付いた古い簪が、からんと蛇の前に落ちる。
「す.......すと、っぷ.......」
本当は叫んだつもりだったのに、こんな掠れた声しか出なかった。視界が回り、呼吸が狂う。寒くて全身の震えが止まらない。
『.......』
「ぁの、.......そ、れ.......それ、取った、取った.......」
自分でもどうかと思う文章を発しながら、なんとか蛇の前に投げつけた簪を指さす。
周りの人間達は、ぽかんと俺を見ていた。
「取った.......嫌なもん、取った.......」
『.......』
水神は、金属を嫌う。
この井戸の主は、井戸にこんな物を落とされたから、真っ赤に怒り狂っているのだ。だから、その原因を取り除けば。
赤黒い蛇の体は、だんだんと白さを取り戻すはず。
「許して.......?」
『嫌だ。殺し合え』
動いたのは相変わらず赤黒い蛇では無く、その周りの人間。そうだ、この蛇は人を喰っているんだった。怒りで赤いのではなかった。ああ、頭が回らない。
そんな思考の外で、俺の大事な人達を囲んでいたたくさんの男達が、一斉に中心に向かって飛びかかり。
「しーっ!」
その真ん中で、人差し指を口にあてた女性によって、音と動きを止められた。今のがどんな術なのかはよく分からないが、あの女の人が音を出している所を初めて見た。
「な、なんだその術.......っ!! 反則だ!! そんなもの、なぜ零に搾取されているお前が使うのを許されて」
「そろそろ静かにしてください、私も疲れました」
「!?」
黒い着物の女の首筋に、背の高い男が大きな鎌の刃を当てていた。さらに、もう片方の手に握られた鎌は蛇の顔の方へと向けらていて、この男は蛇と他の人達との間に、盾になるよう割って立っているようだった。
「.......や、やはり零につくのか、お前は.......!!」
「当たり前でしょう。私は負ける戦いはしないと、先程言いましたよね? あなたの耳はちくわですか?」
「ぐうううっ!! 殺させない殺させない殺させない! あの子は絶対殺させないっ!! .......お願い、助けて。あの子を殺さないで.......!!!」
「はぁ。それに、万が一あなた方が優勢でも正当性があっても、私は絶対にあなたには着きませんでした」
「なぜっ!!」
「あなた、私を八条の次期当主と言ったでしょう。なので私はあなたが大嫌いです。死んでも味方などしません。あぁ、それとあなた、憑き物が着いてますよ。犬神ですか? 感情の起伏がおかしいのはそれのせいですね。仕方ないので私が祓ってあげます。家は没落すると思いますが」
「.......は?」
「はあ、分かりませんか? つまり、あなたは初めから負けてるんです。第八隊っ!! 総員突入ーーーー!!!」
「はっ!?」
家の塀を超えて、大勢の黒い着物を着た術者が中に入ってきた。そのうちの数人に、ずるりと井戸から引っ張り出される。目の端に、先程井戸の蓋を開けてくれた女の子が保護されるのが見えた。
総能の着物を来ていない人間は一瞬にして取り押さえられ、赤黒い蛇も暴れないよう大量の壁で囲まれていく。
ちょんちょん、と腕をつつかれたので横を向けば、心配そうに眉を下げた女性がいた。サイレントに、あの蛇をなんとかしろと指をさしてくる。
「.......【御清・おん、.......はぁ、ぁー、っ、」
なんとか印を結んだものの、声と息が詰まって術をかけ損なう。あまりにも震えが酷かったのか、誰かが俺の背中や腕をさすっているのがわかった。
「.......【おん、.......おんき.......はぁ.......」
「隊長!! おやめください!!」
もうこれ以上、エネルギーを放出するなと身体がストップをかけている。それでも、あの人を喰った蛇を、元に戻さなければ。完全に落ちて、別物になってしまったあの蛇を、戻さなければ。だって。
「ほっ、本当は、白っ、しろ蛇なんっだ.......き、き綺麗な蛇な、んだ、絶対っ、」
「.......っ!」
歯の根が合わない。なぜ急に。さっきまでは大丈夫だったのに。
「和臣っ!!」
はづき。
「【御清・御浄・御穏清・御冴・御凛・御戻・御戾・御穏返・御帰】」
震える口で術を紡ぐ。
頭の横を何かで押さえつけられていた。何か、全身の至る所が暖かい気がする。
「【至緻助雨】!!」
掠れた声だったが、力の限り叫んだ。
それを聞いた調唄さんが、ぎゅーーっと俺を抱きしめて、そのまま音もなく、暴れる白い蛇の方へ向かって行った。
「七条和臣! 七条和臣!!! すぐ暖かくなるから!! だかあとちょっと頑張って!!」
ゆかりんの声。
「和臣隊長! 絶対に意識を保ってください!! 和臣隊長!!」
中田さん。
「隊長、お湯が来ました! 飲めますか!?」
花田さん。
「和臣、ごめんなさいっ!ごめんなさい和臣!! 意地を張って喧嘩してごめんなさい!!お願い! 死なないでっ!!」
あまりにも悲痛な声たちに。
「.......死なないけど」
「「「!?」」」
俺の腕や背中をさすっていた手が止まる。掠れた視界に、ぼんやりと隊のみんなの驚いた顔が写った。腹の辺りが暖かいのは、トカゲを持たされているのだろう。
「.......え、なになにどうしたのみんな。そんな焦って。今蛇も治ったから、もう大丈夫だよ? 調唄さんいるし 」
「.......」
「それになんかもうあんまり寒くないし.......まあ確かに、こんな冬に井戸に落ちたら危ないけど.......俺結構早めに上がったでしょ? 声は喉が荒れてるから掠れてるだけで、大丈夫だよ」
ぐるり、と視界が回った。きーんと耳鳴りがする。
あれ。
「バカじゃないの!? あんた頭バックリ割れてんのっ!! それで井戸に落とされたのっ!! 貧血と低体温でやばいんだってば.......っ!!」
「.......え。それ、やばくない?」
「だからそう言ってんでしょーーー!!!」
「おお、今日もナイスアイド.......る」
なんの前触れもなく、ぶつん、と意識が切れた。




