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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第二章 第七節
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95.いっしょにしないで

 ――警備の兵が、いない……?


舞踏会の楽の音は遠く、廊下は薄暗かった。アルフェは今、ユリアンが残した気配の跡をたどって、城の奥へと向かっている。


 ――やはり、呼ばれている。


 あれ程の達人が、こんなわかりやすい気配を残している。しかもその気配に沿ったルートには、警備が最小限しか配置されていない。追ってこいと言わんばかりだ。


 ――もし見つかったら、縛り首でしょうか。


 今夜の来賓には開放されていない空間に、すでにアルフェは足を踏み入れている。仮に衛兵に見とがめられれば、斬りかかられても文句は言えない。

 だが、そうはならないという確信がアルフェには有った。アルフェの懐には、舞踏会場に入るときには出さなかった、もう一通の招待状がある。そこに書かれた名前は、確かにユリアン・エアハルトのものなのだ。

 音もなく階段を上ると、廊下はさらに奥へと続いている。アルフェが住んでいた城と同じくらい大きな城だが、構造はかなり違う。

 並ぶガラス窓の外には、祭りで浮かれるウルムの街が、夜の闇に浮かんでいる。練兵所と山の木々しか見えなかったアルフェの部屋とは、そういうところも異なっていた。


 ――…………灯り。


 城のかなり上層まで来た。そう思った時、アルフェは通路の奥から、光が漏れていることに気付いた。

 部屋である。入り口の扉が、少し開いている。中から感じる存在感は、いつかの尋問の時に感じたものと同じだ。間違い無くあの部屋に、ユリアンがいる。

 アルフェはごくりとつばを飲み込んだ。プレッシャーが、厚い膜を作っているかのようだ。それに耐えて、彼女は一歩を踏み出した。


「――入れ」


 扉の前に立つと、ノックをする前に声が響いた。

 アルフェの心臓が跳ねたのは一瞬である。当然、相手は気付いているに決まっているのだ。驚くには値しない。


「よく来た」


 アルフェが室内に足を踏み入れると、文机に向かっていたユリアンは、顔も上げずにそう言った。彼は猛烈な速度で右手の羽ペンを動かし、眼前に積み上げられた書類を処理している。

 さっきまで舞踏会場にいたのに、今はもう事務仕事に励んでいる。アルフェは知らないが、為政者というのは、皆こういうものなのだろうか。


「……」

「悪いが、少し待ってもらおう」


 ユリアンの対面には、椅子が一つ据えられている。そこに座れという風に、彼は手振りだけで示した。


「……お仕事ですか?」

「ああ」


 椅子に着き、アルフェは待った。

 ここはユリアンの書斎のようだ。壁際には書架が並べられ、ユリアンが向かっている机には、書類が山と積まれている。書庫と言っても違和感がない。あふれる本で、広いはずの間取りが息苦しく感じるほどだ。


「――終わった。待たせたな」

「いえ」


 しばらく経って、羽ペンを置いたユリアンは、顔を上げてアルフェを見た。


「……」

「……」


 にらみ合ったまま、二人の間に沈黙が流れた。


「用件は何ですか?」

「……ん?」

「私を呼んだのは、ユリアン様のほうです」

「……そうだな」


 うなずいてから、ユリアンは再び押し黙る。アルフェは少し意外だと思った。アルフェに何か用があって、ユリアンが彼女を呼び出したのは間違いない。だがこの男は今、自ら話題を切り出すのを、ためらっているように見える。


「今日はまた、“あれ”の護衛か?」

「……そうです」


 ユリアンが“あれ”と呼ぶのは、弟のクルツのことだ。

 クルツは会場に置いてきた。アルフェが抜け出した時には、彼は何人目かの令嬢と踊っていた。

雇い主から目を離すのは、護衛としては問題がある。しかし、同じくどこかの令嬢と踊っていたジェイスを無理矢理引っ張ってきて、クルツの近くに配置したから大丈夫だろう。

 しかしユリアンは、自分にそんな事を聞きたかったのか。アルフェは誰もいない部屋の片隅を一瞥してから、言葉を続けた。


「クルツ様は、命を狙われていますから」

「知っている」


 知っているのに、そんな風に平静でいられるのか。この男は、誰がクルツの命を狙っているのか、それも知っているのだろうか。


「……ご兄弟、なのですよね?」

「ああ」


 ユリアンの表情に変化は無い。

 会話と呼ぶにはあまりにお粗末なやり取りが、そこでまた途切れた。


「この間は、手合わせをしていただいて、ありがとうございました」


 彼はこの不毛なやり取りを、どこにつなげようとしているのだろうか。自分の方は、何を得ようと思って彼の招きに応じたのだろうか。よく分からないまま、アルフェは話題を変えた。


「そうだったな」


 相変わらずのぶっきらぼうな返事だったが、ユリアンの眉間の皺が、少しだけ浅くなった気がした。彼もアルフェと同じで、本質的にああいうことが嫌いではないのだ。


「お前のあの技は、誰に教わったのだ?」

「お師匠様です」


 アルフェは特にためらわず、聞かれた問いに対する答えを口にした。


「お師匠様?」

「はい」

「名前は?」

「コンラッドです」


 胸を張って、アルフェはその名前を答えた。


「……それが、私よりも強いという御仁か」


 以前に立ち会った時、アルフェが負け惜しみで放った言葉を、ユリアンは憶えていたようだ。


「はい」

「その御仁は、どこに?」

「……」


 ユリアンから目をそらさず、アルフェが手のひらを自分の胸に当てる。少女のその仕草を見て、ユリアンはまた口を閉じた。


「――用件を話そう」

「そうしてくださると、助かります」


 ようやくユリアンは、会話を前に進める決意をしたようだ。一段ときつくアルフェを見据えて、彼は次の言葉を吐いた。


「公女アルフィミア」

「……!」

「ラトリア大公の次女。……そうなのだろう?」


 アルフェがその名前で――本名で呼ばれるのは、“あの男”以来だ。

 驚きはしたが、動揺はしなかった、と思う。この男は、下手をすればアルフェよりもずっと多くを知っているはずだ。そのくらい知られていても、何の不思議もない。


「やはりな」

「どこで……それを?」

「想像だ」


 そんなはずはない。彼はクルツの周囲の人間について、細々としたことまで調査していた。さしずめ密偵でも使っているのだろう。


「私は数年前、お前の故郷――ラトリアに遊学した。短期間だが」

「そうらしいですね。聞いています」

「ほう――」


 さっき偶然耳にしただけなのだが、はったりとしてはそれなりに効果があったようだ。ユリアンは、わずかに目を見張った。


「ならば話が早い。その時に私は、お前の母君とも、姉君とも会った」

「お姉様と……。ユリアン様は、お姉様と婚約される予定だったと、お聞きしましたが」

「婚約? それはただの噂だ」


 否定したユリアンは、次に少しだけ口元をほころばせた。


「剣の稽古に付き合わされたよ。そういうところは、お前と似ている」

「私が?」


 アルフェは不可解に眉をひそめた。姉に似ていないと言われたことはあっても、似ていると言われたのは初めてだ。


「その時私は――、お前のことも、見た」

「え?」

「憶えていないか」

「……はい」


 そうだ。ユリアンが遊学した時、アルフェはまだ故郷の城にいた。だが、アルフェがあの城で、ユリアンに会った記憶は無い。母と、姉と、数人の召使い。そして部屋の前にいた衛兵。アルフェに会うことができたのはそれだけで――


「――っ?」


 ちくりと、目の奥に痛みが走った気がした。


「お前は何を目的にして、冒険者をしているのだ?」


 アルフェに起こったささやかな異変に、ユリアンは気付かなかったようだ。アルフェ自身も、ユリアンの言葉に気を取られて、今の痛みを忘れてしまった。


「……え?」

「ただ、今日を生き延びるためではあるまい」

「……」

「率直に言おう。私につく気はないか」

「意味が、分からないのですが」

「あれに雇われるより、私につけ。大公家を再興するためには、それが最も近道だ」

「大公家の再興?」


 目の前にいる男の言いたいことが、ようやく見えてきた。ユリアンは、アルフェの素性を知っている。その上で、彼はアルフェが放浪している理由を、王国に征服されているラトリアの再興だと考えているのだ。


「そうだ。このまま冒険者などをしていても、いたずらに日々を浪費するだけだ。ラトリアからドニエステを打ち払い、大公家を蘇らせたいのだろう? ならば、私と共に来い」

「それは……」

「何を迷うことがある」


 ユリアンは勘違いをしている。アルフェは迷ったのではない。家の再興など、そんな発想は、彼女の頭の中には、そもそも浮かんだことすら無かったのだ。


「それは……、それをして、ユリアン様には、どういう利益が有るのですか?」


 興味が無いと言って、会話を終わらせることもできた。しかしアルフェにも、この男に対する個人的な興味が芽生えていた。だから、そんなことを聞いてみた。


「私にも、目的がある」

「目的……?」

「遠からず、私は伯の座を継ぐことになるだろう。しかしそれは、目的のための一歩に過ぎない」


 伯が一歩だとしたら、その先には何があるのか。


「――皇帝位が空位になり、百年経つ」


 皇帝位。アルフェはその言葉を聞いて、ああ、そういうことかと腑に落ちた思いがした。


「この国は、乱れている。このままでは、さらに乱れる。誰かがそれを、治めなければならない」


 壮大なことを語っているようだが、この男も、クルツやその取り巻きとさして変わらない。アルフェの瞳が、急に冷めた。

 百年空位だという、この帝国の皇帝位。要するにユリアンは、そんなものが欲しいのだ。


「私は、そのためにお前を利用したい」


 利用したい。そう取り繕わずに、ユリアンは言った。

 アルフェの中に流れる大公家の血。彼の望みのためには、それが何かの役に立つのだろう。


「返答は?」


 それが悪いことだとは思わない。しかし、ユリアンの言った通りだ。アルフェには目的が有る。その目的と、ユリアンの提案は一致しない。


「……そうですね。大公家を再興するのであれば。それはきっと、近道なのでしょう」

「ならば」

「でも、私にとって、それは重要な話ではないのです」

「――何?」


 アルフェは椅子から立ち上がった。その顔を、ユリアンはじっと見つめている。


「失礼します」

「家を再興させるのが目的でなければ、お前は何を求めている」

「……」

「それを実現させるために、私の力を利用した方がよいとは考えないのか?」


 一礼し、踵を返した少女の背に、ユリアンが言葉を投げかけた。

 振り向き、アルフェは逆にユリアンに問いかける。


「……さっきのお話で、一つ分かったことがあります」

「なんだ」

「暗殺者にクルツさんを狙わせているのは、あなたですね」

「……」


 図星だったようだ。だが、少し眉が動いただけで、ユリアンに動揺した気配はない。


「どうしてなのですか?」

「伯の座は、目的のための一歩だと言った。“あれ”の――、クルツのことも、その一歩に過ぎない」

「ご自分の、弟なのに?」

「私は、あれを弟だとは思っていない。……それはあれも、同じはずだ」


 ユリアンもまた、アルフェと同じように椅子を立った。


「兄弟など、我々のような立場の者にとっては単なる障害にしかならない」


 言いながら、彼はゆっくりとアルフェに近づいてくる。


「……だが、それはお前も同じだろう。お前たち姉妹も、私たちと似たようなものだったのではないか?」

「お姉様と、私が?」

「そうだ。ラトリアで、あの城でお前がどういう扱いを受けていたのか――、忘れた訳ではないだろう」

「……?」


 あの城で、アルフェがどういう扱いを受けていたのか。


「――つっ」


また、目の奥が痛んだ。その痛みをこらえて、目前に立ったユリアンの顔を、アルフェは毅然とした表情で見上げた。


「……仰っている意味が、分かりません」

「――何だと?」


 ユリアンの目的を否定するつもりは無い。彼ら兄弟の関係について、アルフェが口を出せることも無い。しかし――


「あなたと一緒に、しないで下さい」


 アルフェの言葉には、強い力がこもっていた。


「……そうか、分かった」


 そしてそれ以上、ユリアンはアルフェを説得する気は無いようだった。

 振り向いてユリアンから離れたアルフェは、ドアのノブに手をかけた。


「クルツの護衛に戻るのか?」

「それが仕事です。――私は、冒険者ですから」


 ――失礼します。少女はもう一度繰り返すと、静かに部屋を出て行った。

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