92.招待
――はあッ、はあッ。
木剣を手にした黄金の髪の娘が、地に膝をついてあえいでいる。それを、同じく木剣をぶら下げたまま、どこか困惑した表情で見下ろす青年が一人。彼らがいるのは、人気のない練兵場らしき場所だ。
――はッ――、ふぅ。――参りました。完敗です。
ようやく息を整えた娘が、少しよろめきながら立ち上がった。精根尽き果てた様子だが、それでも、対戦相手を真っ直ぐ見据えて己の敗北を認める態度からは、歳と性別に似合わぬ、気丈なものが読み取れる。
――いや、貴女も十分にお強い。驚嘆しました。……私の領邦にも、あなたほどの遣い手は何人もいないでしょう。
今し方、娘を完膚なきまでにたたき伏せた青年はそう言った。しかしその言葉とは裏腹に、彼の険はあるが端整な顔には汗一つ浮かんでいない。
――お世辞は結構です。
それが、娘の自尊心を傷つけたようだ。かみしめた彼女の唇は、よく見ると小刻みに震えている。
――お世辞では、ないのですが――。
青年の困惑の度合いが深くなった。彼はただの腕試しということで、この試合の申し出を受けた。なのに、この娘の悔しがりようは何なのだろうか。頑なな態度を見せる娘に、青年の眉間の皺が深くなる。怒っているように見えるが、それが彼の、困ったときの顔だった。
青年は助けを求めるように、ちらりと周囲に視線を投げたが、そこには彼ら以外には誰もいない。娘に付いていたただ一人の従者も、彼女自身の命令で、今は遠ざけられている。
――……だとしても。
――は?
あの頼りなさそうな従者はどこにいるのだろうか。できるなら、このよく分からないやり取りをそろそろ打ち切ってしまいたいのだが。青年がそう思っていると、娘が声を出した。
――言葉で何か言われても、嬉しくありません。私はもっと、強くなりたいんです。
娘の長髪は、馬の尾のように後ろで一つにまとめられている。うつむいた彼女の横顔に、その髪がかかった。麗しい剣姫として、既に他領で名前を知られるだけのことはある美しさだった。
――……その情熱は、素晴らしいことです。
だが、この青年にとって、外面の美しさなどどうでも良い。ため息をつきたくなる気分を抑えて、青年は言った。
――……しかし、あなたのようなお立場の方が、なぜそうまでして、剣の腕を磨く必要があると?
――…………。
青年の問いに対し、娘は歯を食いしばり、口を引き結んだまま何も答えない。しばらくして、青年がふいと上を見上げた。
――どうされましたか……? ……ユリアン様。
――……いえ、今、窓から誰かがのぞいていたような。
白い顔が、高いところからこちらを見下ろしていた。青年は視界の隅にそれを感じたが、見上げた先には、誰もいない。高く積み上がった無機質な塔の石壁が、そこにあるだけだ。
――…………。
――すみません、気のせいだったようです。
青年が詫びの言葉を述べる。この城に来たとき、あそこは使われていない建物だと説明を受けたはずだ。鳥か何かを、見間違えたのだろう。彼はそう思った。
――戻りましょう。お母様が心配なさいます。それに、あなたの従者殿も。
そう、青年は促した。しかし娘はその場を動かず、呻くような声を漏らした。
――…………妹です。
ぎりり、と、娘が木剣を握る手に力が入る。
――……は?
――……。
――……妹君、ですか? ですが貴女には、ご兄弟はいらっしゃらないと伺いましたが。
その言葉は、娘の耳には届いていないようだ。娘は彼を見ずに、繰り返した。
――…………あの子は私の、妹です……!
●
年に一度、都市ウルムで開催される舞踏会は、ある意味、街を挙げての祭りのようなものだ。近隣の名士たちが一堂に会し、エアハルト伯の前で踊る。伯家が建てられて以来の、毎年恒例の行事である。
街のあちこちの広場にも酒樽が積まれ、出店が並び、人々が乱痴気騒ぎを繰り広げる。貴賤や老若男女を問わず、住民の誰も彼もがその日を楽しみにしていた。
しかしここ二年ほどは、その行事も多少の精彩を欠いていた。他ならぬエアハルト伯が、病に倒れていたからだ。それをはばかって、全市の人々が楽しみにしているこの催しも、控えめに開催されてきた。
前日の夕暮れから、翌日の早朝まで続けられるはずの舞踏会は、宵の口と言える時間で切り上げられていたし、平民たちに対しても、路上で酒を飲むことは厳重に禁止された。子供たちが楽しみにしている、伯からの菓子の振る舞いさえもなかったのだ。
人々が残念に思い、伯の快復を心から祈ったのは言うまでもない。
だが、今年は少し風向きが違った。なんでも今年からは、伯の名代である嫡子のユリアンが本格的に行事を取り仕切ることになったので、再び盛大に舞踏会が催されるに違いない。そういう噂が、まことしやかにささやかれているのだ。
それぞれの商家では内々に、舞踏会のための準備が進められていたが、十日ほど前からは、それが街の通りにも目に見えて現れるようになった。気が早い店は、既に当日に向けた飾り付けを済ませている。それはまるで、日々の鬱屈を吹き飛ばすための盛大な催しを期待する、人々の噂を証明しているかのようだった。
「よお、早いな」
冒険者組合の入り口に現れたリグスは、奥の椅子に座り、朝食を摂っていたアルフェを見つけるなりそう言った。
冒険者組合に出入りする連中にとっては、華やかな催しも縁がない。――いや、それは正確ではなかった。この期間中、物品の調達依頼など、細々とした仕事は増える。しかしそれらは使い走りのような安仕事ばかりで、一言で言えば“おいしく”ない。だから特に活況に湧くと言うこともなく、組合の中の風景は、いつもとあまり変わらなかった。
「身体の方は、もういいのか」
リグスは床で酔いつぶれている冒険者を一人またいで、アルフェの座っているテーブルに近づいた。
「はい、問題ありません」
リグスとは、少し前にも同じようなやりとりをした。そう思いながら、食事の手を止めてアルフェは答えた。
「あの嬢ちゃんのところで、治癒してもらったのか?」
「いえ――」
ちらりとアルフェの表情が曇ったが、次の瞬間には、彼女は再びすました顔に戻っている。
「そんなに、治癒術ばかりに頼るべきではないでしょう?」
「まあ、そうかもな」
有能な治癒術士は、数が少ない。治癒術で金を儲けようとしない術士は、もっと少ない。それに加え、治癒術に頼りすぎると、身体がかえって虚弱になるという言い伝えもある。お抱えの術士を持つような貴族でない限り、多少の怪我や病気のたびに治癒術士に頼るのは、世間でも非常識なこととされていた。
しかし、ステラはおそらく、アルフェから対価など受け取ろうとはしないだろう。近頃平民街にやってきた若い治癒術士が、ほとんど無償で治療を行っているという噂は、最近では冒険者組合にいても耳にするほどなのだ。そんな彼女が、アルフェから金を取ろうとするだろうか。
アルフェの負った傷は、“多少”と言えるほど軽くなかったし、金銭的な問題があった訳でもない。アルフェがステラのいる治癒院を訪れたくないのは、別の理由からだが、それでもリグスは、アルフェの言い訳に納得したようだ。少なくとも、表面上はそう見えた。
「お前は若いからな。傷の治りも早いだろうよ」
そう言うリグスのシャツの襟元からは、白い包帯がのぞいている。
先日の農園での仕事では、リグスも決して軽くない傷を負った。街への帰路、この傭兵団長は平然とした顔で歩いていたけれども、部下の傭兵たちの話では、骨の何本かは折れていたのだという。この男も、充分化け物じみている。
「俺はどうにも、最近ますます治りが遅くなってきてなぁ」
「まるで、おじいさんのようなことを仰るのですね」
「実際、お前みたいな若い娘から見りゃ、俺はじいさんみたいなもんだろうさ」
「――ふふ」
大まじめな顔でリグスがそう言ったので、アルフェは何だか可笑しくなって、ほんの少しだけ笑みを漏らした。
「……? どうしました? リグスさん」
「……ん?」
突然黙ってしまったリグスを不審がったアルフェは、話の続きを促した。目が覚めたように、ああ、いやと首を振って、リグスは続けた。
「仕事があるんだ」
「ええ」
リグスがアルフェに用があるとすれば、それ以外にない。それを当然だと思っているアルフェは、即座にうなずいた。
「断ってくれても、いいんだが」
しかし、リグスから、そういう前置きがあるのは珍しい。そういえば、テーブルの対面に座ったリグスは、微妙に身体を傾けて、こちらをまっすぐ見ていない。よほど気が引ける内容なのだろうか。どういう仕事ですかとアルフェは尋ねた。
「ああ、うん」
「お仕事なのでしょう? どうしても嫌なら、きちんと断らせていただきます」
「ああ、本当に断ってくれてもいいんだ――」
「はい」
「……今度、舞踏会があるのは、知ってるな?」
そこまで聞いて、アルフェにはリグスの――正確には彼の雇い主であるクルツの――依頼内容が、お終いまで理解できた。
「護衛の仕事だ。……いや、あのボンボンは仕事じゃねぇって言ってるんだ。この間の依頼の労をねぎらいたいとかなんとか、あいつは言ってる。だから余計に頼みづらいんだが――。……どうした、さっきから。お前にしちゃ珍しいな」
また、くすりと笑ったアルフェに対して、リグスはそう言った。
「いえ、あの方も、元気な人だなと思っただけです」
そう言ったアルフェの顔には、まだ少し柔らかいものが残っている。
先日の戦いで大蛇に吹き飛ばされたクルツは、奇跡的に骨にひびが入った程度の怪我で済んだ。家宝だと言う鎧の効果は、確かなものだったようだ。
それでも、箱入り息子にとっては、滅多に味わえない死ぬ思いをしたはずだ。帰りの道中、クルツは荷馬車の上でうんうんとうめいていた。
アルフェやリグスと違って、お抱えの治癒術士の手厚い看護があったにしても、帰ってきてから数日しか経っていないのに、完全に立ち直っている。このめげなさは、彼の取り得と言っていいかもしれない。
慣れだろうか。それとも、クルツが農民をかばったところを目にしたからだろうか。いつの間にかクルツに対して、以前ほど強い嫌悪を感じなくなっていたアルフェは、そんな風な感想を抱いた。
「それで、具体的には何を?」
「……お前もその舞踏会に、出席して欲しい」
リグスが言わんとしていることが予測できただろうに、憤るでもなく聞いてくるアルフェに面食らったのか、リグスは言いよどむのを止めて、彼女の前に、白い封筒を差し出した。
「これが招待状だ。開催は十日後。……俺は、止めたんだがな。お前だって、この前の仕事で疲れてる。自分もまだ狙われてるのに、そんな人の多いところに出かけていく気かよってな。馬鹿も休み休み言えって。遠慮なく断ってくれていい」
「いいですよ」
「ああ、だよな。俺も最初から気が進まなかったんだ。お前には色々頼んできたが、さすがに調子に乗りすぎてる。あの馬鹿には、俺からきつく――。ん? ……え?」
「行きます」
「……本気か?」
「はい」
「……護衛なら、俺たちだけで十分だ。刺客を寄越してるのが誰だって、そんな人目につく場所で、あの馬鹿を狙うとは思えん」
リグスはさっきと矛盾したことを言っている。
「せっかくの申し出ですから。……それに、一度行ってみたかったのです。その、舞踏会というものに」
「……そういうもんか」
「はい」
「まあ、引き受けてくれるのは、俺としちゃありがたいんだが」
言葉とは裏腹に、リグスの表情は嬉しそうなものではない。
「ところで」
「なんだ?」
「私は、どなたのパートナーとして出席するのですか?」
アルフェがそう聞くと、煮え切らない表情をしていたリグスの顔が、さらに苦いものになった。
「……そういうことも、お前には分かるんだな」
この前の私的な夜会や、観劇とは違う。伯の名の下に開催される舞踏会ともなれば、どこかの馬の骨を出席させる訳にはいくまい。まして主催者の次男であるクルツのパートナーとしては、それなりの身分の女性が求められるはずだ。有り体に言って、身元の怪しいアルフェが、その立場にふさわしいとは言えない。
少なくとも、貴族ならばそう考える。アルフェもまた、その常識からものを言ったに過ぎない。
「うちの団から、ジェイスを変装させて、お前の相方につける。……あの馬鹿のパートナーは、どっかの領主のお嬢様だ」
そして今回の件について、リグスの気が進まない理由のほとんどは、そこにあった。
別にリグスは、クルツにアルフェを正式なパートナーとして認めろなどと考えているのではない。むしろクルツがそう言ったら、張り倒してやりたいとまで思っている。
だが、自分から女を誘っておきながら、自分は別の女と踊り、あまつさえ、誘った女を別の男にあてがう。リグスの常識では、これは相手を虚仮にしていると表現する。
夜会や観劇の護衛兼パートナーとして、何度もアルフェをクルツにあてがってきた自分が、言っていいことではないのかもしれない。しかし、今回のこれは、さすがにアルフェを馬鹿にしている。
しかし当のクルツは、アルフェを虚仮にしようと考えたのでもなんでもない。この招待状をアルフェに渡せば、娘が喜ぶと本気で思っているのだ。平民の娘程度、それで十分だと。
平民である――少なくとも、リグスやクルツがそう思っているアルフェは、夜会や観劇で引き回す愛人にはなっても、正式な場での自分のパートナーにはなり得ない。それが当然のことだと思っているのだ。
「貴族の連中は、いかれてるよ」
リグスはあきれて、そうつぶやくしかなかった。
「私はまた、クルツさんの館で着替えれば良いのですね?」
まだ釈然としないリグスに対して、アルフェの方は淡々と話を進めようとしている。
自分のような男よりも、女というのはもっと割り切った考えをしているのかもしれない。それともさっきの話のように、自分が老いてきたから、そう考えるのだろうか。
「……そのあたりの細かいところは、次に打ち合わせよう」
リグスのその言葉で、仕事の話はもう終わったと判断したのだろう。彼女は再び、朝食のパンをほおばり始めた。
しばらく無言でその様子を眺めてから、突然リグスが聞いた。
「なあ、アルフェ。そういえばお前は、いくつだったっけな」
「いくつ、とは?」
「歳だよ」
「急に、どうしたのですか」
「別にいいじゃねぇか。俺のことを、じじい呼ばわりする奴の歳がいくつなのか、ちょっと気になっただけだよ」
「十五です」
数えることもせず、アルフェは即答した。
「十五……、そうか」
若い、というよりも、幼い。リグスの傭兵団で最も若い者でも、十八だ。孫は言い過ぎにしても、自分にこの位の娘がいても、全くおかしくない。
「リグスさんは?」
ただのあいづち代わり、という風に、アルフェの方もそう聞いてきた。
「俺か? 俺は――、え~と」
聞かれて逆に、リグスは戸惑った。団員の歳なら覚えているが、自分の年齢が出てこない。家を勘当されたのが十七の歳で、それから何年経ったのか――。
「たしか、四十くらいだ」
「くらい?」
自分の歳を忘れるという感覚は、アルフェにはまだ無縁だろう。はぐらかされたと思ったようで、彼女は怪訝な顔をリグスに向けている。
「ふん、俺の歳なんかどうでもいいんだよ」
リグスがそう言うと、アルフェは少し頬を膨らませた。なぜか今日は、この娘の幼いしぐさが、妙にリグスの目に留まる。
「とにかく、お前が受けてくれたのはありがてぇ。これであの馬鹿に、言い訳をしなくて済むぜ。……当日は別に、適当にやりすごしてくれて構わない。すまねぇな」
それで話を打ち切ると、アルフェの朝食の勘定代わりか、リグスは机に銅貨を数枚置いて立ち去った。
リグスと別れ、アルフェは宿に戻ってきた。前回の仕事の前に宿を変えたが、念のために後をつけている者がいないか確認して、彼女は部屋に入った。
部屋の中を見回しても、アルフェの私物はほとんどない。数着の着替えと防具。これが彼女の持ち物の全てだ。それすらも、いつでも部屋を引き払えるようにまとめられている。
ベッドはほとんど、板の上に毛布を敷いただけの粗末なもので、それに腰掛けると、アルフェは先ほどのリグスとの会話を、頭の中で反芻した。
――舞踏会。
アルフェは、もしかしたらクルツが、アルフェの元の身分を知っていて、承知の上で自分を誘っているのかとも勘ぐってみたが、これまでのクルツの動向を見ていると、そうではないとしか思えなかった。
――では、これは偶然……?
アルフェが目を動かした先には、粗末なテーブルの上に、不似合いに立派な封筒が乗っている。それは、アルフェが今手しているクルツからの招待状と、全く同じもののように見える。
ただ、テーブルの上のものは既に開封されている。先日届いた時に中を見て以来、放置していたそれに、アルフェが再び手を伸ばした。
もう一度、アルフェは先に届いた招待状に、ざっと目を通した。
事務的な短い言葉で、舞踏会への出席を誘う手紙の末尾には、差出人の名前が記されている。
――ユリアン・エアハルト
この招きに答えるべきかどうか、アルフェはずっと迷っていた。迷っていたが、今日のリグスの訪問は、それを決断する良いきっかけになった。




