86.手紙
「え?」
聞き取りにくいしゃがれ声で告げられた宿の主人の言葉に、アルフェは一瞬固まった。
「ですから、お手紙です。お客さん宛てに、手紙を預かってますよ」
「手紙……ですか?」
――誰から? いえ、それより――。
どうして自分の居所が分かったのだろうか。その手紙を受け取りながら、アルフェは考えた。自分が泊まっているこの宿の場所は誰一人、リグスにも、それ以外のこの町の知り合いにも伝えていない。手紙など、届くはずがないのに。
アルフェは手紙というものに、いい思い出を持っていない。手紙というのは、唐突に良くない知らせを運んでくるものだという印象がある。そもそも、アルフェ個人に宛てて手紙を送ってきたことのある人間、それは彼女の短い人生の中で、一人しかいない。
――まさか、クラウスが?
少女の中に、不安と警戒心が沸き起こる。反射的に周囲を見まわし、次いで宿の主人である老婆の顔を見るが、深い皺のよった顔からは何も読み取れない。不審に思いつつも、アルフェはその封筒を受け取った。
封筒の表面をゆっくりとなでる。手触りが指になめらかな、混じり気の無い白い紙は、それだけで相当に高級品だ。かつてクラウスが送ってきたものとは質が違う。
「すみません、これは――」
誰が持ってきたのか。アルフェは老婆に聞こうとしたが、彼女は既に安楽椅子に座り、目を閉じて眠りこけている。
素早いことだと思いながら、アルフェは封筒を裏返した。
「……なるほど」
そして、封筒に押された赤い印章を見て、アルフェは一言つぶやいた。差出人の素性は、その印章が疑う余地もなく知らせている。
しかしどうしてこの差出人が、彼女に手紙を送ってきたのか。分かったようになるほどとは言ってはみたものの、それは全く不明だった。
◇
「確認だが、明日からは少し遠出になる。遠征が終わるまで、長引けば半月くらいはかかるかもしれん。そのつもりでいてくれ」
「はい」
「うん」
手紙を受け取った明くる日の朝、アルフェは冒険者組合で、リグスと仕事の打ち合わせを行っていた。今日は久しぶりの大きな仕事の、最後の調整だ。それ故に、連絡役のウェッジではなく、直々にリグス本人が出張ってきている。
「クルツの坊ちゃんが馬で、他は徒歩。残りの馬は荷馬にまわす。もっとも、お前が来るなら、坊ちゃんは特別に二人乗りの馬車を仕立ててもいいと仰ってるが……?」
「歩きますのでお構いなく」
「だろうな」
「そうかぁ、じゃあ、僕も歩くよ」
「……。手強い魔物はいないが、とにかくやたら数が多いと聞いてる。油断はするな」
「分かりました」
「僕の魔術にかかれば、たいていの魔物は大丈夫さ」
「……」
さっきから会話に割り込んでくる少年に閉口して、リグスはアルフェの耳に口を寄せてささやいた。
(さっきからなんなんだ。なんで、こいつはここにいるんだ?)
(さあ?)
(そ、そうか……)
皆目分からないという風に、アルフェが首を傾げる。埒が明かないので、リグスは目の前に座っている本人に、直接問いただすことにした。
「リーフの坊ちゃん、あんたなんでここにいるんです」
リーフは研究材料の収集の関係で、リグスたちの顧客になったこともある。それもあって、リグスは丁寧な言葉遣いをしている。
「新しいゴーレムを作ったんだ」
「ご……? なんだっけか、それ」
リーフの言葉が呑み込めなかったリグスは、アルフェに聞いた。
「リーフさんが作っている、魔術で動く人形です」
「あ、ああ、それな。それで?」
「性能試験をしたくて」
「……?」
「僕も君たちについて行くよ」
あっけらかんとリーフは答えた。
再びリグスがアルフェの耳元に口を寄せる。
(どうしたんだこいつは。お勉強のし過ぎで、ついにいかれたのか?)
(それはないと思いますが……)
アルフェも困ったように眉をひそめている。
リグスは考える。そういえば、部下のウェッジの報告にもあった。彼がアルフェと連絡をつけるために冒険者組合に行くと、なぜか毎日、この魔術士の青年がいると。
そもそもこの坊やは、たまに素材集めのために外に出るが、基本的には自分の工房に引きこもり、研究に没頭しているタイプの人間だったはずだ。それがどうして用もないのに、朝も早くから冒険者組合などに顔を出すのか。
「あ~、つまり、坊ちゃんも俺たちと一緒に行きたいんですか?」
「まあ、隊長とも長いつきあいだしね」
上から目線で、恩着せがましく言われなければならない理由は分からないが、少なくとも今この坊やが言っていることの意味は理解できた。要するにさっきから、リーフはリグスたちの遠征への同行を申し出ているのだ。
「どうする、アルフェ?」
「私に聞かれても」
「それはそうだが……」
「人手は多い方がいいんでしょ? 隊長」
「う~む」
腕を組んだリグスがうなる。
リーフが言っていることは事実だった。今回の遠征の目的は、大発生した魔物の駆除である。正直、戦力はいくらいても困らない。
リグスの団は、傭兵団としては小所帯だ。しかも団員に魔術の使い手はほとんどいない。例え変わり者の青びょうたんだとしても、研究所の研究員になるほどの魔術士がいてくれるなら、安心感は違う。
あと気を付けなければならないことと言えば、雇い主のクルツを狙う刺客だが、素性もはっきりしているこの青年が、暗殺者とつながりがあるとは考えにくかった。
「なら別に、構わんのかな?」
リグスの横に座るアルフェは、大柄な傭兵隊長よりも頭一つ以上は小さい。上目遣いになってアルフェは答えた。
「ですから、私に聞かれても……」
アルフェはそう言うが、リグスはアルフェに聞かなければならないような気がしたのだ。なにせこの坊やはさっきから、ちらちらちらちらとアルフェの反応を伺っているのだから。言い方は悪いが、まるで飼い主のご機嫌を伺う犬のようだ。
「……ん? ああ、そういうことか」
と、そこでリグスは、何かに気付いたようにうなずいた。
「……全く、どいつもこいつも、よりにもよってなぁ。やっぱり顔に騙されるのかねぇ」
一人で納得した様子のリグスは、今度はリーフに気の毒そうな視線を向けた。
「じゃあ、いいですよ、リーフの坊ちゃん。ついてきてもらいましょう」
「いいのかい? ありがとう!」
リーフの顔に気色が満ちた。
「――その代わり! 遠征中は俺の指示に従ってもらいますし、最悪あんたが死んでも、こちらは責任持てませんよ? それでもいいんですか?」
「うん、大丈夫」
釘を刺したリグスの目は鋭く、声は重々しかった。しかしそれに対して、リーフはふんわりとした返事をする。ぼりぼりと頭をかきながら、リグスがぼやいた。
「本当に分かってんのかねぇ……」
そう言いながら、リグスはアルフェに目を向けたが、こちらはこちらで、相変わらず何を考えているのか全く読めない、無表情にすました表情をしている。リグスはため息をつくしか無かった。
翌早朝には、一行は既に旅の空だった。彼らはウルムの市壁を出て、隊列を組んで街道を歩いている。
その構成は、もしもの時のために都市に残った者を除いた、リグス傭兵団のほぼ全団員と、アルフェにリーフの追加メンバー、それに加えてもう一人。
「暑い……。こう暑いとやってられんな。隊長、なんとかならないのか」
エアハルト伯次男のクルツが、馬上でわめいている。
「そりゃ、そんなもん着てれば当然でしょう。蒸し焼きになりたいんですか?」
クルツは非常に高級そうな、金の装飾が入った全身鎧を身につけている。フルフェイスの兜と相まって、夏の日差しの中では見ているだけで暑かった。
「これは亡き母が私を守るために遺した伝来の至宝だ。そう簡単には脱げん」
「そうですかい。至宝なら、涼しくなる魔術でもかかってないんですか?」
「残念だがな。その代わり、この鎧には邪なるものを退ける秘術が施されている。素晴らしいだろう」
「良かったですねぇ」
気の抜ける会話をしながら一行が向かっているのは、エアハルト伯の陪臣である小領主の領地だ。そこまでは結界の外を通らず、魔物に怯えずに進むことができる。
もちろん警戒を怠ることはできないが、さればといってクルツのように、こんな都市に近いところから臨戦態勢をとるのも愚かな話だ。
それに結界の中に出る野盗の類いなどは、あらかたとっくにクルツの兄のユリアン・エアハルトが駆逐してしまった。
エアハルト伯領は、現在の帝国の中では最も治安の良い領地の一つだ。他の領邦との表立ったいざこざも少なく、皇帝不在の帝都などより、よほど領民は安心して暮らしている。
しかし逆に言えば、ここは荒事が少ない、すなわち傭兵が暮らしにくい場所でもあった。本当なら、こんな雇い主は早々と見限って、別の領に流れるのが傭兵団長としては正しい選択だったろう。
だが、それができていないのは、ただただ自分の要領の悪さによるものだ。
ここの所どうかすると、リグスはついそのことを思い悩んでしまう。
伯が病死すれば、クルツの兄が家督を継ぐ。この男を暗殺者から守り抜いても、そうなれば自分たちはお払い箱だ。その時は、この男に支払いの能力が残るのかすら怪しい。
団の長として、その先の事を考えなければならないが、それが難しかった。
――これから仕事だって時に……。俺も焼きが回ってるな。
リグスは心の中で、自分自身に対して舌を打った。今回の相手が強力な魔物ではないとはいえ、こんな雑念にとらわれていたのでは、足をすくわれかねない。とにかく、今は目の前の仕事をこなさなければならない。それが問題の先送りに過ぎないとしてもだ。
リグスは無理やり、鬱屈とした気持ちを切り替えて前を向いた。




