85.あなたのことを知りたくて
中庭から音が消えた。少なくとも、アルフェには消えたように感じられた。
灰色がかった金の髪に、不機嫌にひそめられた眉。
質素な軍服の奥にある、練り上げられた体躯。
そこまでを目で見ることができても、その男がまとう、息苦しいほどの圧力。それは並みの人間では感じ取ることができない。幾つもの修羅場を越えてきたアルフェだからこそ、こうしてそれを理解することができるのだ。
二人の男女の間に漂う緊張感。
アルフェの首筋を流れる一筋の汗は、夏の暑さによってもたらされたものか。それとも――
「先日は、名乗らなかったと思うが」
その気配に似合った重たい声が、男の口から発せられる。アルフェはそこで、呼吸を忘れていた自分に気付いた。
「どこで私の名前を知った?」
「……その前にまず、お座りになられては?」
平静を装って、アルフェは言った。
テーブルの上には一組、手つかずの茶器がある。それを一瞥した後、ユリアンはテーブルを挟んで、アルフェの向かい側に座った。詰め所で尋問された時と同じ配置だ。
「またこうして、すぐ会うことになるとは思わなかった」
彼の言う通り、アルフェが詰め所で尋問を受けてから、まだ一日しか経っていない。
「私は、お会いしたかったですが」
「……ほう」
ユリアンは椅子についたが、彼に給仕しようという人間は寄ってこない。人を払ってあるのだろうか。
アルフェは無言で立ち上がると、ユリアンの傍に行き、そのカップに茶を注いだ。
「君は、なんだ?」
大真面目な様子で、ユリアンは茶を注ぐアルフェの横顔に問いかけた。
「どうして笑う」
「お聞きになっている意味が、分かりませんから」
なんだと言われただけで、答えられる人間がいるだろうか。
アルフェは再び、椅子に座った。その一挙手一投足を、男の目が追っているのを感じる。
「家族はいるのか?」
「いません。その辺りの質問には、あなたの秘書官に全てお答えしました」
「……」
「それより、私からユリアン様にも、お聞きしたいことがあるのですが」
「何を」
「どうして私と、二人きりで話をしようと思ったのですか?」
先のオスカーの言動は、この状況を予期してのものだろう。それが、彼の独断だとは思えない。ユリアンがアルフェの質問に答えるまで、少し考える間があった。
「……不可解だからだ」
「何が?」
「君がだ。君が、何者なのか。どうして“あれ”の手下をしているのか」
そう言ってアルフェを見つめるユリアンは、目の前のカップに全く手を付けようとしていない。
「ユリアン様」
アルフェはそっとテーブルに指を添えて、椅子から立ち上がる
「それなら一つ、私を知るいい方法があります」
その言葉は、少女の口から出たとは思えない、妖艶な声色で紡がれた。
アルフェはテーブルから離れ、日差しの中に入ると、くるりと振り向いて言った。
「ユリアン様、私と一度――手合わせを願います」
「……」
「いけませんか?」
アルフェがもう一度聞いても、ユリアンは無言のままだ。
アルフェの言葉の意味を、理解していないのだろうか。いや、違う。アルフェには確信が有った。この男は分かっている。分からないはずがない。
「昨日、初めてお前を見た時――」
“君”ではなく“お前”と、ユリアンはアルフェの呼び方を変えた。
「何かに襲われたような気がした」
「それは、失礼しました」
ユリアンがゆっくりと立ち上がる。
「まさかとは思ったが――、人は、見かけによらない」
「そうですね。人を見かけで判断してはいけません」
アルフェの声と視線には、挑発的なものが含まれている。そうやって虚勢を張らないと、緊張で声がうわずってしまいそうだ。だが、この男と手合わせすることには、そうするだけの価値がある。こんな遣い手と戦う機会は、滅多に無い。
「はは」
その時、ユリアンの不機嫌そうに固まった表情が、初めて動いた。彼の口の端に浮かんだのは、間違いなく――
「――いいだろう。このユリアン・エアハルトが相手をしてやる」
戦えることを、喜ぶような笑み。アルフェはそこに、この男の本質を見た気がした。
「待たせた」
ユリアンは中庭の端まで行くと、その手に二本の木剣を持って戻ってきた。よくある訓練用の木剣だ。アルフェの姉も、同じようなものを使っていた。
なぜ中庭に木剣があるのか。脚を拡げて、身体をほぐしながらアルフェがそう思っていると、ユリアンは言った。
「鍛錬のためだ」
ユリアンの眉間に刻まれた皺は、心なしかさっきよりも浅くなっている。
「お前も木剣でいいか」
「いえ」
「では長柄か? それもあるが、練兵場まで行かなければ」
「何も、要りません」
「何? それは――」
ユリアンの視線が、アルフェの身体の上をしばしさ迷う。
「――体術か」
「はい」
「……」
「いけませんか?」
立ったまま両手を地面についていたアルフェが、身体を起こす。
「いや、珍しいと思っただけだ」
「よく言われます」
「その服で動けるのか」
次にユリアンは、アルフェの服装を見とがめた。確かに、この長いスカートは戦いにはふさわしくない。特に、相手が彼のような実力者の場合には。
「いいえ。ちょっと失礼します」
だからアルフェはスカートの腰止めを解き、そのまま立っている地面に落とした。
下から現れたのは、腿まで覆った短いズボンだ。昨日のように、服装のせいで満足に動けず、不便を感じたことがこれまでも何度かあった。だからこれを用意したのだが、早速役に立つとは思わなかった。アルフェは少し得意げな顔をしている。
「これで……、ユリアン様?」
これで問題無いと言おうとしたところ、ユリアンはどうしてか、真横を向いてアルフェから目をそらしている。その眉間の皺が、再び深くなっていた。
「どうかされましたか?」
「……いや。冒険者とは、皆そんな風なのか?」
「は?」
「気にするな」
「――では」
「ああ、始めよう」
中庭の芝生の上、向かい合って二人は構える。
ユリアンの得物は何の変哲もない、長剣を模した木剣。それを素直に正面に構えている。
「――む」
貴重な時間だ。一片も無駄にしたくない。ユリアンの眼前にいたアルフェの姿がかき消えた。彼女は相手の懐に潜り込んで、そのまま脇腹に拳を――
――っ!
間合いに入る直前に急停止し、大きく跳びすさる。
ユリアンの木剣が、彼の右脇に伸びた自分の腕を、肘から切り落とすイメージがはっきりと見えた。
それはとても生々しい映像で、きれいに露出した腕の断面から中々血が出てこないところまで、アルフェには鮮やかに想像できた。
「早く来い」
――やはり、強い。
「今更、臆したのか?」
「――すぅ」
答える代わりに息を吸ったアルフェは、今度はむしろ、ゆっくりとした動作で間合いを詰める。
相手の間合いのぎりぎり――ユリアンの木剣は、この広い中庭のどこにでも、ほんの一歩で届きそうな気がするから、その意味は薄いと思うが――、ぎりぎりに立って、すり足で僅かに位置をずらしていく。
ユリアンの構えは、正眼から微動だにしない。
「心配するな」
隙をうかがうアルフェに向けて、ユリアンが口を開いた。
「オスカーなら、腕くらいは繋げられる」
初めて、ユリアンの方から動いた。
のど笛を狙った突き、初手からアルフェを殺しに来ているかのような、遠慮の無い一撃。
紙一重で避け――られるほど甘くない。アルフェは大きく横に跳んで、逃げるようにかわした。
「――はっ」
慌てて体勢を立て直し、相手を見るアルフェ。その額に、冷や汗が浮かぶ。
――動いて、いない……!
そうだ、ユリアンは彼女を突いてなどいない。足を少し、彼女に向けて踏みかえただけだ。
攻撃の意志だけを飛ばした、果てしなく高度な牽制。
闘いにならない。彼我の力量の差があり過ぎる。
「――ふふ」
なのに、アルフェの表情には笑みが混じる。
「どうした」
ユリアンにも、今のアルフェの気持ちまでは理解できないだろう。
「いえ。――胸を、お借りします」
そう言って、再びアルフェは足を前に出した。
全力で踏み込んで、打つ。当然のように相手は避ける。分かっているから、何の気負いもなく、全力で。それをただただ、繰り返す。
打ち込んだアルフェの隙目掛けて、相手の攻撃が迫る。向こうは全力には程遠い。だがこちらはそれを、必死にならなければかわせない。
繰り返すうちに、雑念が消えていく。緊張感と疲労が心地いい。初夏の日差しも、木々のさざめきも、遠いものになっていく。
一年前には、アルフェはこんなことを、あの人と毎日のように――
「がはッ――」
斬り下ろしの終わりを狙った打ち込みを素手でいなされた。中空で一回転したアルフェの身体が、背中から芝生に叩きつけられる。
実戦なら、ここで首を刎ねられて死んでいる。いや、それを言うならもう、この試合の中でアルフェは何度も死んでいる。
ユリアンは追撃してこない。アルフェが立ち上がるのを待っているのだ。
「ふ、ふふふ」
手のひらで汗を拭って、身を起こそうとする。
「身体強化の魔術か」
「……?」
最初の攻防から、ユリアンはほとんど位置を変えていない。彼の重たい声が、頭の上から降ってきた。
「……似ているが、違うか。もっと原始的な発想だ」
アルフェはユリアンの顔を見た。彼は鋭い目で、アルフェを見据えている。
「体内の魔力を見境なく、肉体の強化に使っている。……歪んでいるな。常人がやれば、数十秒と持たない。その前に、魔力が枯渇して死ぬだろう」
「……」
「お前はそれを、自力で身に着けたのか?」
「……何を、言いたいのです」
場の空気が一変した。中庭にいた鳥たちが、一斉に飛び立つ。
「強くなるために、どうしてその方法を選んだ」
「……」
「お前にその技術を教えた者がいるなら、それは愚か者だ」
「黙りなさい」
「お前はいつか、その力で身を亡ぼすぞ」
「――うるさい!」
立ち上がったアルフェは、貫き手でユリアンの喉を狙った。今までで、最も迅い一撃。いかに相手が格上とは言え、当たれば致命傷を免れない。その手には、確かに殺意が乗っていた。
頭を振って、ユリアンはそれを避けた。アルフェの指先がわずかに掠り、彼の首に血がにじむ。
「ぐッ」
その直後、こめかみに命中した柄頭が、少女の視界を暗転させた。
◇
木のさざめきで目を覚ました。
「つぅ……」
芝生の上に仰向けになっていたアルフェは、片手で頭を押さえながら半身を起こす。
彼女は、意識を失った地点とは違う場所にいる自分に気付いた。陽だまりの中でうつ伏せに倒れたはずの自分が、木陰になった椅子の横で、仰向けに寝ていたのはなぜだろう。そう言えばこの椅子は、さっき座っていた――
「起きたな」
そう言ったユリアン・エアハルトが、椅子に座りながら、相変わらずの渋面でアルフェを見ている。
太陽の位置から見て、アルフェが気を失っていた時間は、それほど長くないようだ。
「……はい」
終わり方が終わり方だっただけに、アルフェは少し不機嫌な表情をしていた。
「お前の技には長所もあるが、欠点も多い」
「はい……、は?」
「せっかくの恵まれた魔力を、持て余している。力任せに振り回すだけでは、通用しない相手もいる」
「……」
「動きが一辺倒な上、一つ一つの技が、まだまだ練られていない。稽古と――実戦を積み重ねるしかないな。……どうした」
技術的指導を並べ立てるユリアンを無視して、再び芝生に倒れこみ、大の字になるアルフェ。その彼女に、ユリアンが声を掛けた。
「悔しいです」
「負ければ悔しいものだ。だから、強くなろうとも思える」
「そうですね」
目を閉じると、風の音がより大きく感じられた。
「負け惜しみを言ってもいいですか」
「なんだ」
「私は、あなたよりも、ずっと強い人を知っています」
“あなたよりも”ではなく、本当は“誰よりも”――少なくともアルフェは、そう信じている。
「……私より強い人間など、どこにでもいるさ」
ユリアンはそう言うと、さっきアルフェが注いだ茶のカップに口を付けた。
「……ぬるいな」
「当たり前です」
渋面をより渋くして、ユリアンがつぶやいた。これだけ時間が経てば、当然の感想だ。
両足を高く持ち上げてから、反動を付けてアルフェは跳ね起きる。
「ユリアン様、本日はありがとうございました」
「ああ」
最後は妙な流れになったが、アルフェにとってはやりたいことができた訪問だった。しかし、この男にとってはどうだったのだろうか。
「こちらも久しぶりに、まともな稽古ができた。礼を言おう」
意外な言葉を聞いた気がする。アルフェは目礼すると、地面に落ちていたスカートをはいた。
「……リーフさんは、どこに連れて行かれたのでしょう」
「リーフ・チェスタートンなら、オスカーのお気に入りだ。妙な事はしないだろう。それに、あいつなら――」
「終わりましたか?」
ユリアンの言葉の途中で、中庭の端に現れたオスカーが声を掛けてきた。その傍らには、どうしてそうなったのか、よれよれになったリーフを伴っている。
「ご覧の通り、耳ざとい男だ」
「おや? 私の悪口でも言ってたんですか?」
「では、私たちはこれで失礼させていただきます」
「ああ」
「無視ですか?」
にこやかに微笑むオスカーを放置して、アルフェは疲労困憊しているリーフを受け取った。それからもう一度別れの言葉を繰り返して、彼女はユリアンとオスカーに背を向けた。
「近いうちにまた会おう、アルフェ」
最後に、アルフェの背中に掛けられたユリアンの声は、確かにそう言っていた。
◇
「リーフさんは、あの方と城で何をしていたのですか?」
「聞かなくていいよそれは……、あんまり思い出したくないから」
うんざりした顔で、リーフが口走る。その顔色は相当に疲れた様子だ。
「主任はいっつもあんな風にマイペースだから、研究員の僕らは大変さ」
「リーフさんが成長したら、ああいう感じになりそうな気もしますが」
「ええ……、そうかなぁ。……それよりも、アルフェ君は何を話してたの? ユリアン様と二人きりで」
「他愛もない話です。――でも、まあ、収穫はありました」
「ふーん?」
それからしばらくは、二人とも無言だった。
大通りを歩く途中、工房区域と冒険者組合のある区域との分かれ道まで来て、リーフが再び口を開く。
「あのさ、今日、楽しかった?」
「……?」
「いや、主任が変なこと言ってたりしたから……。もしかして、気を悪くしちゃったんじゃないかな、とかさ」
「……ああ、そうでしたね。それは別に気にしていませんし、……そう、楽しかった、ですよ」
何はともあれ、あれだけ力を振り絞ったのは久しぶりだ。
「そ、それならいいんだ。この石も、あんまり大したものじゃなかったし、がっかりさせたかなと思って」
リーフの手には、小さくなった魔石がある。例え無価値だとしても、艶のある黒の中に緑色の帯がかかって、それなりに美しい。だからアルフェは、思った通りのことを言った。
「確かに残念ですが……、それはそれで綺麗ですから、いいんじゃないでしょうか」
「そ、そう?」
またリーフは口を閉じた。
もう、今日の予定は全て終わった。何も無いなら、ここで別れて宿に帰ろう。アルフェがそう考えたところに、何か意を決した表情のリーフが言った。
「あの! じゃあ、これ、アルフェ君にあげるよ」
「え? リーフさんがゴーレムの材料に使うのでは?」
「まあ、それは今度、代わりを取りに行くことにしてさ。また今度……、二人でさ」
「はあ、……いいんですか?」
「うん! 別に売り払っちゃっても、何でもしてくれていいから!」
「さすがにそれは、しませんが……」
以前に同じようなことをしようとして、誰かに怒られた記憶がある。
「はい、どうぞ!」
「あ、ありがとう、ございます?」
「うん! それじゃあ!」
それだけ言って、疲れ切っていたはずのリーフが、猛然と駆け出していく。
光る黒い石を押し付けられた少女は、遠ざかる青年の姿を、あっけに取られてただ見ていた。




