81.誰よりも脆いあの子
「アルフェちゃん」
「…………はい」
「本当に心配したのよ」
「…………はい」
「どうして、勝手にいなくなったの?」
「……それは」
ステラに問い詰められたアルフェは、そこまで言って少しうつむき、押し黙った。
二人はリーフのアトリエのリビングで、向かい合ってテーブルについている。
――ステラ君、僕の時とは、なんか真剣さが違うなぁ。
割って入れる空気ではないので、再びキッチンに退避していたリーフが、心の中でつぶやいた。
なぜステラが、ああしてアルフェを問い詰めているのかは知らない。切れ切れに聞こえてくる会話によると、おそらく自分と同じように、アルフェも診察の約束をすっぽかしたりしたのだろう。リーフはそれとなく、キッチンからリビングの様子をのぞき見ている。
リーフから見て、アルフェを見つめるステラの表情は、責める顔という感じではない。どちらかと言えば哀しげな表情だが、妙な威圧感というか、気迫がある。対するアルフェの方は、そのステラを前にして、リーフが知る彼女とは思えないほど弱々しく見える。ひょっとしたら泣き出してしまうんじゃないだろうか。そんな風に思ったほどだ。
――あんなに強いアルフェ君でも、あんな顔をするんだね……。
リーフは意外な思いだった。初めて会った時のアルフェは、彼自慢のゴーレムを簡単に打ち砕いた。次に会った時には、共に行った廃坑探索で、バジリスクをはじめとする多くの魔物を蹴散らした。旅慣れていて、危険な魔物に遭っても堂々としていて、何事にも動揺せず、表情を崩さない。時にはリーフに対して、冷たい口調で皮肉も言う。
リーフは彼女に対して、外見を除けば、まさに熟練の冒険者であるという印象を持っていた。それどころか、今まで彼が雇ってきた冒険者の中にも、彼女ほどの凄腕はいなかった。
――でも。
今あそこに座っている彼女は、年相応の、ただの女の子に見えるから不思議だった。
――少しだけ、ステラ君の方が年上なのかな?
彼女たちの正確な年齢を尋ねたことはないが、そう考えると、リビングにいる二人の様子は、おいたをした妹を叱りつける姉と、姉に怒られてへこんでいる妹の構図に見えなくもない。
さっきまで、初めて女子を家に迎え入れて舞い上がっていたことを忘れて、リーフはハラハラと話の成り行きを見守っていた。
「終わった……?」
数十分後、まだ座ったままのアルフェに、リーフは恐る恐る声をかけた。あれからしばらくして、ステラは帰っていった。リーフはそれまでの間ずっと、キッチンの中で右往左往するしかなかった。
「……はい」
「そう」
次にどんな言葉をかけるべきか、リーフは悩んだ。そこで思いついたのが、この言葉だ。
「仲直りできたかい?」
「……仲直り?」
そう、仲直りだ。一から十まで話を聞いていたのではないが、二人の間を流れる空気は、悪い流れにはなっていなかったと思う。あくまでも、リーフの受けた印象だが。
「友達なんだよね? 友達は、大事にしなきゃだめさ。喧嘩したなら、仲直りしなきゃ」
柄にもないアドバイスをしてしまった。得意げな顔になっていなかっただろうか。それにそんなことは、友人のいない自分が言うことではなかっただろうか。言ってから、リーフは少し体がむずがゆくなるのを感じた。客観的に見れば、かなり照れ臭い台詞でもある。しかし、ここは勢いだ。
「……とも、だち。――友達?」
こちらを見て、あっけに取られたように、その単語を繰り返すアルフェ。しばしの後、彼女の頬がかっと朱く染まり、次いで酷く苦々しい表情になると、再びうつむいてしまった。今日の彼女は、なぜだかすごく表情が良く変わる。
「……黙って治癒院を抜け出したことは、許していただきました」
「良かったね」
「……はい」
それきり、お互いの鼓動の音が聞こえそうなほどの沈黙と静寂が、室内を襲う。
――……ど、どうしたのかな。
なぜだろうか、物凄く気まずい。
うつむいたアルフェは、何であろうか、とても苦しそうな感じだ。とてもリーフが言うように、「良かったね」という様子ではない。
もしかして、体調でも悪いのだろうか。――お腹が減っている? ――治療費を踏み倒した? まさかそんな。それとも自分の言葉の中に、何かまずいものがあったのだろうか。そんな風に、リーフの中で思考がグルグルと駆け巡る。ゴーレムや魔術以外のことについて、彼がこんなに真剣に考えたのは初めてだった。
「え、と」
何か、慰めか励ましの声を掛けるべきなのではないか。しかしリーフは、こういう分野は全くの不得手だ。気の利く言葉など思いつかない。
「おほん。あ~、そうだ」
多分、その時のリーフは、彼自身が思うよりもずっと混乱していたのだろう。
室内の音声が途絶えてしばらくしてから、リーフはその重苦しい空気に耐え切れなくなって、苦し紛れに、己の人生で初めての台詞を口にした。
「アルフェ君、明日暇かい? よかったら、一緒に出掛けない? 気分転換にさ!」
再びの沈黙。
――は? 何を言ってるんですか?
正直、リーフはアルフェに、それくらいの反応を期待していた。
――……報酬は出るんですか?
あるいは彼女なら、辛辣に、そういうことも言うかもしれない。
いずれにしてもリーフは、そう、弱々しい彼女を見ているのが嫌で、少しアルフェを元気づけたかっただけなのだ。己に似合わない、今のナンパじみた発言は、あくまでもただの冗談のつもりだった。
「……え?」
「え?」
だから彼は、こうして彼女に、そんな不意を打たれた表情で見つめられるなどとは、考えもしていなかった。
「……」
小さく口を開けたままのアルフェが、少し上目遣いにリーフを見ている。
リーフが見たことのある、戦っている時の彼女の、恐ろしい魔物を力尽くでねじ伏せるほどの、あの強い意志を宿した眼光はそこにない。
そこにあったのはただ、どこまでも吸い込まれそうな、透き通った無垢な瞳で――。
「えっ、いやっ……、あの……」
それに捕らわれたリーフは、なかなか次の言葉が接げなくなってしまった。
「――あのっ、いや、そう、ほら……、そ、そうだ! 前に言ってた――、約束してただろう!? 城の研究所に行こうって! この間廃鉱で見つけたあれを、鑑定、してもらわなきゃ!」
――これはまずい。非常にまずいぞ。
そう直感したリーフは慌てて目をそらし、手をわたわたと動かしながら、リビング中に響くほど、妙に声を張り上げる。しかし、いったい何がまずいのだろうか。それは彼自身にも、よく分かっていなかった。
「……研究所? ――ああ」
「そ、そう。関係者が居ないと、滅多に行くところじゃ無いと思うし、アルフェ君の冒険者の仕事にも、何か参考になるものがあるかもしれないし」
早口にそう言いながら、リーフはゆっくりと、視線をアルフェの顔に戻す。
彼女の目はもう、青年を見ていなかった。横顔から見える瞳は、再び強さを取り戻し、さっきまで感じた弱々しさも、彼女の表面からは消えている。
もしかして、あれはリーフが見た幻だったのだろうか。それを見て、リーフはとてもほっとしたような、逆に非常に残念なような、そんな複雑な気分になった。
「――でも、君が忙しければ、別にいいんだ。本当に……」
そこまで言い終わって、リーフは、いつの間にか握っていた手のひらが、じっとりと汗で濡れている自分に気付いた。
「……どう?」
そうだ。これは前から誘っていたことだ。タイミングが悪かった気もするけれど、別に不自然、非常識というほどではない。
――でも、でも、できるなら断ってほしい。彼女が断ってくれれば、この気まずい雰囲気も、それで終わりにできる。
「……そう、ですね」
間を置いて放たれたその声を受け、リーフの心臓が一つ跳ねた。
アルフェはいつもと変わらない調子で喋っているはずなのに、リーフには、少女の声がさっきまでと違って聞こえた。
「いいですよ。明日、何もお仕事がなければ」
「え」
自分は今日、彼女に軽い運動の場所を提供するだけだったはずなのに、何がどうしてこんなことになったのだろう。心の中で自問するリーフに対し、いい知恵を授けてくれる人間は、少なくともここにはいない。




