78.あなたは神を信じますか?
エアハルトの首都ウルムのシンボルは何かと住人に問えば、その答えは人により様々だ。
都市全体を見下ろすように建つ、エアハルト伯の居城を第一に挙げる者は多かろうし、芸術を愛する者であれば、この地域の文化の殿堂、大劇場がそうだと答えるかもしれない。
そしてもう一つ、それらの建築物と並び、その威容が都市内外に鳴り響いているものがある。先に挙げた二つよりも、遥かに長い歴史を持つ信仰の砦――神聖教会の大聖堂がそれである。
「しばらく、そこでお待ちなさい」
「ありがとうございます。お手数をおかけします」
灰色のローブを着た教会職員が奥へと引き下がっていく。アルフェはそれを見送ると、聖堂の長いすの一つに腰掛けた。
アルフェが今いるのは、エアハルト伯のお膝元、ウルムの郊外にある大聖堂内の礼拝堂だ。
彼女がこんなところにいる理由は一つしかない。数日前の夜、助祭長シンゼイと共にいたメルヴィナという女に接触するために、彼女はいくつかの方法を検討した。その結論として、まずはこうして正面から訪問することにしたのだ。
夜陰にまぎれて忍び込むという手も考えたが、街中で初めから強硬な手段に訴えるというのもためらわれた。
それに教会は、俗界の権力者が持つ軍隊とは別に、神殿騎士団という独自の兵力を抱えている。実際、教会職員が向かった奥に通じる通路の入口にも、フルヘルムで顔を覆った、独特の鎧を着た兵士が二人、微動だにせず直立している。
この大聖堂の規模ならば、当然中にもかなりの戦力が控えているはずだ。それをかわして奥に侵入するのは、非常に困難で危険な作業になる。
――そう、忍び込むのは、後からでも遅くない。
あの女と接触する方法について、彼女の中にはまだ迷いが残っていたが、しかしもうすでに訪問を告げてしまった以上、今はおとなしく待つ以外に方法は無かった。
そうやって腹を決めると、彼女にも周りを見渡す余裕ができた。
聖堂の中には、アルフェ以外にも何人もの訪問者がいる。ほとんどはただ礼拝に来た、信心深い人々なのだろう。皆、瞑目して祈りをささげたり、神像の前で跪いたりしている。
彼らの様な信者に加え、教会には、アルフェが表向き口実にしたのと同じように、陳情を目的として訪れる者も少なくない。それゆえに、先の教会職員の対応は、非常に手慣れたものだった。
「――ふぅ」
一息ついて、アルフェは天井から神像に向かって垂れ下がる、幾本もの金色の管を見上げる。
神の恩寵として、人を魔物から守る結界がこの世にもたらされた。そう神話で語られる情景を模した、よくあるモチーフである。金管がステンドグラスから入る光を乱反射して、まぶしいほどだ。
それは、これまで信仰というものを身近に感じたことのないアルフェの目にも、それなりに荘厳な光景に映った。
神。そう、神である。
「武神流……」
アルフェがつぶやいたのは、コンラッドが名付けた、彼らの流派の名前だ。
この国で神というと、それはこの教会が広めている、世界を創造し、人に結界を与えたもうた、唯一の神に他ならない。この国だけではなく、大陸のほとんどの国でそうだと聞く。
武神――。武をつかさどる、闘いの神。そんなものがいるという教えは、今まで聞いたことがない。それもそのはず、これはコンラッドの創作だ。少年のころに空想した神を、そのまま流派の名前にしてしまった。アルフェは彼の口から、その経緯を聞いたことがある。
――流派の名前が気にくわないだと? じゃあ、お前ならなんて名前を付けるんだ。
――……コンラッド流?
――……お前のセンスも酷いものだぞ。こら、むくれるな。格好良いから、今のままでいいのだ。
自慢げに流派名の由来を語る師の姿を思い浮かべて、軽く天井を見上げる少女の口元には、我知らず、慈しむような笑みが浮かんでいる。祈りを終えて帰ろうと、アルフェの傍らを通り過ぎた若い女性が、そんな彼女の顔を見て、呆けたように頬を染めた。
しばらく聖堂の内部を眺めていると、先ほどの教会職員が戻ってきた。一緒に近づいてきたもう一人の男は、ローブの色からすると、それなりに序列の高い聖職者だ。
表情を引き締めたアルフェは長椅子から立ち上がり、一礼する。後から来た方の聖職者が、重々しい態度で口を開いた。
「待たせましたね」
「いえ、とんでもありません。……それで、助祭長様は?」
助祭長のシンゼイに、信者の一人として相談があるという体裁で、アルフェはこの聖堂を訪れている。
とりあえず、クルツの名前は出していない。そうとなれば町娘の恰好をした少女一人、門前払いを食らってもおかしくないと思っていたが、教会職員は一応取り次いでくれた。
「シンゼイ様は、ただいま留守にしておられます」
「お留守……」
本当に不在なのか、それとも居留守を使われているのか。この聖職者の態度からは、前者のように思える。期待してはいなかったつもりでも、それなりに覚悟を決めてここに来ただけに、アルフェの中にはそれなりの失望が芽生えた。
「所用で帝都の方に出ておられるのです。しばらくはお戻りになりません」
「帝都に、ですか?」
「はい」
アルフェは思考を働かせる。
――助祭長が帝都に向かった。それはおそらく、劇場で彼とクルツが密談していた内容に関係があると思われた。
彼らは新しい結界を作るために、“遺物”なるものが帝都から届くのを待っていた。帝都には、帝国内の教会の中枢が存在する。助祭長自らが、そこに足を運んだということだろうか。あのメルヴィナという女も、それに付いていってしまったかもしれない。しかしシンゼイは、あの女は主教の客人だと言っていた。ならば依然として、女だけはこの大聖堂に留まっていると考えるべきかもしれない。
「ですから、また日を改めてお越しなさい」
もう素直に、ここにいるはずのメルヴィナという女に用があると告げるべきか。迷っているアルフェを見て、聖職者が言った。
「どうしたのです」
「……いえ、主教様が御病気であるとうかがったので、助祭長様がご不在であるのなら、せめてお見舞いだけでもさせていただきたいと――」
「おお、それはそれは、殊勝な心掛けです。若い方で、あなたの様に信心深い者は、今時すっかり珍しくなってしまった」
会話を切らさないように、とっさに苦し紛れで吐いた言葉が、目の前の聖職者の琴線に触れたようだ。事務的だった表情がにこやかに変わり、片手でアルフェに略式の祝福を送る。
しかしその次に出てきた言葉は、アルフェの期待を裏切るものだった。
「ですが、主教猊下とお会いすることはできません」
「……そうですか」
「思い違いをなさらないように。これは一般信徒に限りません。今は全ての方の面会をお断りしています。たとえご領主でも、例外ではありません」
「それほど、主教様の病は篤いのですか?」
「……あなたも猊下の快癒を信じて、祈りを捧げられるといいでしょう」
なんとなく、はぐらかした感じの回答だ。
正直、アルフェにとっては主教の病状は関心事ではない。だが、このままでは聞きたいことが何一つ聞けないまま、話が終わってしまう。
いっそのこと、思い切って――
「――あの、つかぬ事をお伺いいたします。あの、こちらに、……女性が一人、滞在していらっしゃると、思うのですが」
言った。最後の言葉を言う前に、アルフェは喉が詰まりそうになってしまった。
「女性?」
「ええ。……黒髪の」
黒髪の人間など、そうはいない。この聖職者があの女を知っているなら、アルフェが聞いているのが、誰を指しているかは明らかなはずだ。
「ああ、メルヴィナ様ですか」
「――はい」
警戒するでもなく、聖職者がその名前を出したので、アルフェの方が逆にどきりとしてしまった。もしかしたら、自分は無意味に慎重になりすぎているのかもしれない。そんな風に思ったほどだ。
「お知り合いですか?」
「いえ――はい。少し」
挙動不審になっているアルフェに対して、疑いを向けている様子もない。聖職者は淡々と事実を告げる。
「メルヴィナ様も、シンゼイ様に同行しておりますよ。ですので、しばらくは――」
「お戻りにならない?」
「そうなります」
「……いつごろ、お戻りになりますか?」
「それは分りませんが、そう長くはかからないと言っておられました」




