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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第二章 第四節
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76.呼び出し

 幽鬼の透けた身体が、恨みの言葉を残しながら虚空に溶けていく。

 数瞬後、アンデッドの気配は完全に消えた。それでも、先ほどと同じ轍は踏むまいと、アルフェは構えを解かずに周囲を警戒していたが、三体目の敵が出現する様子はない。

 どうやら危険は去ったようだ。剣を握っていた父親は、安堵のあまりがっくりと膝をつき、その背中に、娘が泣きじゃくりながら取りすがった。


「お父様! お父様……!」

「……大丈夫、もう大丈夫だ。安心しなさい」


 死地を逃れた親子は、頬を摺り寄せながら、お互いの無事を喜び合っている。しばらくの間、階段ホールには二人の囁き声と、場内から聞こえてくる、くぐもった拍手の音だけが響いていた。


「……」


 二体の幽鬼を滅ぼしたアルフェは、黙ってその場に立ち尽くしている。

 不意の戦闘に、かなり時間を取られてしまった。おそらくはもう、助祭長とあの女は劇場を出ただろう。大階段の下に目を向けながら、アルフェはそう考えた。自分自身を狙った一体目はともかく、二体目には構わずに二人の後を追うという選択肢もあっただろうが――


「良かった。……お前が無事で、本当に良かった」

「お父様……、ぐすっ」


 見失ってしまったものは仕方がない。

 あの女が、ウルムの大聖堂に滞在しているという情報は得たのだ。接触する機会は、また作ることができる。

 闘いを終えて、血が上っていたアルフェの頭にも冷静な思考が戻ってきていた。


「どうしました!? 悲鳴が聞こえましたが、大丈夫ですか!?」

「わああ! し、死んでる! 人が死んでるぞ!」


 物音を聞きつけて、徐々に人が集まってくる。アルフェにとって歓迎すべき状況ではないが、あれだけ騒げばやむを得ない。


「誰が……!? あ、あなたがやったのか?」


 レイスに喉を貫かれた従業員の若者は、恐怖に歪んだ表情を残したまま絶命している。死んでいる若者と周りにいる三人を見比べて、必然的に、抜身の剣を手に持っている父親に注目が集まった。


「違う! 私ではない!」


 父親は、即座に声を張り上げて疑いを否定し、集まった野次馬に、事情を説明しだす。


「……アンデッドだ。レイスが出た」

「レイス!? そんな馬鹿な!」

「本当だ。……私にも信じられないが。私の娘も……、そこのお嬢さんも見ていた」


 父の嫌疑を晴らすべく、娘の方も、涙で化粧の崩れた顔を必死で縦に振っている。野次馬の一人が、アルフェに意見を求めた。


「お嬢さん、本当ですか……?」

「……はい」


 心ここにあらずと言った様子で、アルフェも父親の言葉に同意した。

 確かに、父親が携えている剣には全く血糊が付着しておらず、それを使って若者を殺したとは少々考え辛い。ならば本当に、アンデッドが場内に出現したとでもいうのか。半信半疑ながら、人々は薄気味悪そうに自分の背後を気にしている。まるで、暗がりから襲ってくる何かを警戒するように。

 さっきアルフェに質問してきた男も、険しい顔で辺りを見回した後、父親に聞いた。


「で、そのレイスは今どこに?」

「……消えた」

「消えた? その剣で、あなたが倒したのか?」

「い、いや、違う。見ていたが、良く分からなかったんだ。殺された青年の次に、そのお嬢さんを、レイスが襲って……」


 そこで言葉を切って、父親はアルフェの方をちらりと見た。だが、すぐに首を振って続ける。


「そ、それからどうなったのか、私にも分からない。本当に分からないんだ。……だが、レイスは確かに消えたんだ。信じてくれ」

「どういうことだ……?」

「言い逃れしようと思ってるんじゃないか? こんな所に、アンデッドなんか出るわけが――」

「お父様は嘘なんかついてません!」

「どっちにしても、ここでそんなこと話してる場合じゃないだろう。とにかく人を――、支配人を呼んで来い!」


 新しい魔物の出現に備えようと提案する者や、死体の様子をあらためる者。劇はまだ続いているようだが、段々と、階段ホールにいる人間の数は増えていく。

 この騒ぎの収拾がつくには、相当に手間取りそうだ。


 ――まるで。


 そんな背後の喧騒をよそに、アルフェはまだ、じっと階段の下を見つめている。


 ――あのレイスは、まるで……。


 あたかも、アルフェの道を塞ぐように現れた。

 なぜあのタイミングで、二体もの幽鬼が出現したのか。アルフェは改めて、その理由を考えていた。




 ――いつまで、かかるのでしょう。


 無骨な石造りの部屋の中、木の椅子に腰かけながら、アルフェは心の中で愚痴を言った。

 彼女がこの部屋に通されてから、既に数時間は経っている。ここはエアハルト伯の居城の敷地内にある、衛兵の詰め所の一室である。

 昨日の夜、アルフェが劇場で遭遇したレイスを倒した後、通報を受けた衛兵の一団が劇場にやってきて、それなりにひと悶着あった。

 若者を殺した犯人が、人間ではなくアンデッドだというのは、衛兵の調査ですぐに判明した。アルフェには詳しいことは分からないが、不死者により殺された人間特有の反応が、若者の死体に残っていたのだそうだ。


 そして、そのことが確認されると、衛兵を率いてきた士官の顔が、殺気立ったと言ってよいほど険しくなった。

 ただちに全ての観客が外に出され、劇場は完全に封鎖された。その後も続々と応援に駆け付けた衛兵によって、場内は隅々まで捜索された。しかし、アンデッドの姿は影も形もなかったという。

 だが、結界の中にアンデッドが現れたのは紛れもない事実だ。その夜のうちに、伯の名前で都市全域に戒厳令が出され、市中の要所を衛兵たちが固める体制が作られた。

 慌ただしくかつ物々しいことだが、結界の中に魔物、それもレイス程の強力なアンデッドが出現するというのは、それほどの非常事態、異常事態なのである。


 翌朝になった今、アルフェがここにこうして大人しく座っているのは、もちろんそのことと無関係ではない。

 アルフェたち、現場にいた者らに対する殺人の嫌疑は晴れ、その場での拘束などは受けなかった。その代わりに衛兵の詰め所への出頭を命じられたアルフェは、レイスの出現と消失について、彼女が見た限りのことを根掘り葉掘り聞かれていたのだ。


「すみませんお嬢さん、もう少しお待ちいただけますか」

「はい」


 先ほどまで、大勢の役人や衛兵が彼女を囲んでいたが、一通りの聴取が終わると、彼らは奥に引っ込んだ。そして引っ込んだまま、全く戻ってくる気配が無い。

 あの時居合わせた父娘も、別の部屋で同じように尋問を受けているのだろうか。


「どうぞ、お茶、飲んでください。……あ、冷めてますね。入れ直してきます。お茶請けとか、要りますか?」

「お構いなく」

「そ、そうですか……」


 アルフェと共に部屋に取り残された、衛兵にしては気の弱そうな若者が、長時間待たされている彼女を気遣ってか色々と言ってくる。

 それに対して適当に受け答えをしながら、アルフェは自分の、あまり頼りにならない雇い主の事を考えた。


 ――クルツさんは、どうなったんでしょうか。


 劇場におけるアンデッドとの遭遇について、アルフェはあの後すぐに、クルツとリグスに報告した。衛兵が到着すれば面倒なことになるのは、考えなくとも目に見えていたからだ。それでも、クルツはこの領邦の有力者だ。多少のことはもみ消してもらえるだろう。彼女としてはそう期待したのだが当てが外れた。


 ――私を誰だと思っている。私はクルツ・エアハルト! 貴様たちの主、エアハルト伯の実子だぞ! 私に逆らうとはいい度胸だ。その職を失う覚悟があるんだな!


 そう言って、クルツは大層憤慨して衛兵隊長を困らせていたが、結局最後まで、衛兵たちはただの一人も、彼の命令を聞こうとしなかった。エアハルト領の軍権は、クルツの兄、ユリアンが完全に抑えている。リグスが以前話していたことが、その光景を見てアルフェにも実感できた。

 昨夜、新しい結界を作るという計画を聞いて、アルフェはクルツを知らぬうちに過小評価していたかと思い、少し彼を見直した気持ちになっていたのだが、やはりその必要はなかったようだ。


「あのぉ……、お嬢さんも、災難でしたね」

「はい」

「アンデッドがこの町の結界の中に出たのは、十年ぶりですよ」

「……」

「その時は僕も十歳だったので、細かいことは余り思い出せませんが……、大騒動になったのは覚えてます。お嬢さんはどうですか?」

「……私は、この町の人間ではないので」

「本当、大騒ぎだったんですよ」


 この若い衛兵も手持無沙汰なのだろう。その十年前のアンデッドの出現について、アルフェが頼みもしないのに色々と語ってくれた。衛兵曰く、十年前の事件では、家の中で殺害されたまま未発見で放置された死体が、下級アンデッドのグールと化して、多少の被害を出したのだそうだ。


「その時だってひどい騒ぎだったのに、今回はレイスですからね」


 レイスなんて上位アンデッド、僕は見たこともありませんよと、両手を拡げながら衛兵が続けた。


「だから、上の人たちも色々あるんでしょう。死人だって出てますからね。城の中はもう、色々ひっくり返したみたいになってますよ」

「……」

「……でも、本当に遅いですね。どうしたんでしょう」


 それはアルフェが聞きたい台詞だったが、彼としても、部屋の外で行われている話の進捗が気にかかるのだろう。しかしだからと言って、職務上、アルフェを一人にすることもできない。その結果が、退屈まぎれのこのお喋りというわけだ。


「もしかして、忘れられちゃったのかもしれませんね! はっはっはっは、は……」

「……」

「……すみません」


 だが、ただでさえ普段から不愛想な上、不機嫌になっている少女との会話は、彼にはいささか難易度が高かったようだ。


「……あ~、そうだ。劇場にいたってことは、お嬢さんは、昨日の演劇を見てたんですよね。どうでした? 僕もいずれ、行ってみたいと――」

「入るぞ」


 彼がそれでもめげずに話を続けようとした所に、ようやく人が戻ってきた。

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