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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第二章 第四節
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74.観劇者たちの想い

 遠目からでも分かる肌の青白さ。あの女が、初めてアルフェを訪ねて来た時もそうだった。その時は、彼女の顔をまともに見たわけではないが――。

 ――いや、あれは間違いなくあの時の女だ。直観的に、アルフェはそう確信した。

 あの時は確か、女はフードを被っていた。だから、腰に届きそうな程に長い女の黒髪を、アルフェは今、初めて見た。


「それにしても黒髪とは、本当に珍しいな」


 クルツがもう一度つぶやいた。

 黒い髪は、この帝国では珍しい。黒髪の人間は、滅多に生れることがないと聞く。実際にアルフェも、主教の桟敷に座っているあの女以外に、黒い髪の人間に会ったことが無い。地域によっては、闇を連想させる不吉なものとして、黒髪の子供を嫌う風習さえある。


「シンゼイ殿、君の恋人でなければ、彼女は一体?」

「しばらく前から、ウルムの大聖堂に滞在しております。主教の客人だと聞いていますが、詳しいことは……」

「主教の? 主教は今、ご病気なのだろう? 誰ともお会いにならないと聞いているが」

「ええ、その通りです。病状が重くなられてからは、私ですらほとんど。……しかし、あの女は別なのです。頻繁に主教様の部屋に出入りをして……。実際、今日あの女を連れてきたのも、主教様の命です。でなければ、このように重要な場に女を伴うなど……、あ、いや、失礼。あなた様のことではないのです」


 シンゼイの言葉は、聞きようによっては、アルフェを連れて来たクルツへの皮肉とも受け取れる。失言に気付いたシンゼイが慌てて訂正し、クルツは面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「ふん、では、彼女も教会の人間か。主教の客人というなら、そうなんだろう」

「いや、俗人だと思われます。あのように忌まわしい髪色の女が教会に属しているとは、今まで耳にしたことがありませんので……」

「“思われます”とは、ずいぶんと他人事だな。そんなことも聞いていないのか?」


 素性も知らない女を連れてきたのかと、今度はクルツが驚き呆れた表情をしている。シンゼイは戸惑った様子で、言い訳にならない言い訳をした。


「何しろ、本当に無口な女なもので……」

「無口ねぇ」

「あの女性は――」


 思わず口に出して、アルフェははっと我に返った。

 助祭長の言葉を遮ったアルフェを、意表を突かれた顔をしたクルツとシンゼイが見ている。それまでほとんど話さなかったにも関わらず、どうしてこの娘は、前触れもなく会話に割り込んで来たのだろうと。

 しかしアルフェの声色と表情には、男たちにそう言わせないだけの、異様な急迫さがこもっていた。


「な、何か?」

「あ――、すみません。……あの女性の、名前は?」


 そんなことを、なぜにそれほど真剣な顔で聞くのか。助祭長は解せない様子だったが、さりとて彼に質問に答えない理由もなかった。そしてシンゼイもさすがに、自分の連れの名前だけは承知していたようだ。


「メルヴィナです。それが?」

「メルヴィナ……」


 知らない名前だ。故郷を出る前も、その後も、全く耳にしたことはない。改めて、アルフェはメルヴィナという女に目を向ける。

 いつの間にか第二幕が終わり、舞台には分厚い幕が下ろされている。他の桟敷では、さっきまで繰り広げられていた陰鬱な場面から解放された人々が、身体を伸ばし、同じ桟敷の人間と談笑している。

 それでも、メルヴィナはうつむいて座ったまま、ピクリともその場を動かない。まるで何かを、深く考え込んでいるかのようだ。

 クルツもそれを見て、不思議そうに言った。


「どうしたのかな、彼女は。もしかして、お連れは気分でも優れないのでは? シンゼイ殿」

「さあ? いつもあんな調子ですがね。やたらに暗いと言うか……、主教の客人に言う言葉ではありませんが、陰気な女です」

「ご婦人にそのような物言いをするのは、どうかと思うがね」


 助祭長は、主教と近しい彼女に対し、含むところでもあるのだろうか。随分と棘のある言い方をした。

 そしてそれをクルツが柔らかくたしなめたのは意外だった。先ほどのシンゼイの失言に対する意趣返しだろうか。


「どちらにしても、お連れの話から妙に話題が逸れてしまった。引き留め過ぎるのも良くない。シンゼイ殿、今夜はわざわざすまなかったな」

「いえ、とんでもございません。では、私はこれで。……いずれ、何か進捗がありましたら、ご連絡を差し上げます」

「ああ、頼んだ」


 一目でそれと分かる、教会所属の者に特有の辞儀をしたシンゼイが、桟敷から引き下がっていく。クルツは自ら扉を開けて彼を見送った。

 扉が開いた時、廊下に立っているリグスが、中の様子を見て怪訝な顔を浮かべた。彼はアルフェから漂う不穏な空気を感じ取ったようだ。


「さあ、今日の仕事はこれで終わりだ。あとは、芝居の方を楽しませてもらうとしようか。アルフェさんも、気楽にしてくれて構いませんよ」


 二人きりになった桟敷の中で、ひじ掛け付きの椅子に深く腰を下ろしたクルツが、脚を組んでそう言った。

 第三幕が始まっている。だが、舞台の光景は、もはやアルフェの頭の中には入ってこない。アルフェはまだ、主教の桟敷に座っている黒髪の女を注視している。


 ずっとうつむいていたその女が、ゆっくりと顔を上げた。シンゼイが帰ってきたのだ。シンゼイは席に着こうとしない。二言三言、二人は言葉を交わしたようだ。女が立ち上がる。

――もしや劇の終幕を待たず、これで帰るつもりだろうか。そう思った時、言葉は既に、アルフェの口を突いて出ていた。


「申し訳ありません。少し、席を外させて下さい」

「ん? ……ああ、なるほど。分かりました。どうぞ」


 ――化粧直しにでも行きたいのだろう。そう見当をつけたか、突然職場を離れたいと言い出した護衛を、雇い主は特に引き留めようともしなかった。

 アルフェは自分で扉を開けて、桟敷の外に出る。外に立っていたリグスが、驚いて声を出した。


「どうした? 何かあったか」

「すみませんリグスさん、少し中を代わってください」

「え? そ、そりゃ、少しくらいなら……」

「お願いします」

「あ、おい――」


 うろたえるリグスを後に置いて、アルフェは小走りに人気のない廊下を進む。

 あのメルヴィナという女は、アルフェの知らない何かを知っているはずだ。それをここで、みすみす逃すわけにはいかなかった。



「失礼しますよ」


 野太い声とともに桟敷の重たい扉が開いて、大柄な傭兵隊長がのっそりと入ってきた。

 頬杖をついて舞台を見ていたクルツは、ちらりと彼に目を向けて言った。


「なんだ隊長。どうしたのだ?」

「アルフェが席を外したので。クルツ様をお独りにするわけにはいかんでしょう」

「ふん、……私も子供ではないんだ。そこまで神経質になられると、侮られているような気分だよ」

「まあまあ。――ところで、アルフェと何かありましたか? あいつにしては、妙に焦っていましたが」

「女性には、男に言えない事情というものがあるのだ。そういう時には、何も聞かないのが紳士の作法だ。野蛮な貴公には、理解できんだろうがな」


 皮肉交じりのクルツの言葉に、リグスは少し考え込んだあと、得心がいったようにうなずいた。


「ああ、なんだ、便所ですか」

「いちいち口に出すな」

「了解です」


 リグスはてっきり、クルツがアルフェの尻でも触ったかと思っていたのだ。しかし、それならそれで、この坊ちゃんがこうして五体満足でふんぞり返っているのはおかしい。納得したリグスは、黙って雇い主の後ろの暗がりに立った。

 するとクルツが、彼にしては珍しいことを言い出した。


「どうした隊長。せっかくなのだ、座ればいい」

「……は?」


 舞台から視線を外さず、クルツは空いている席を指さしている。いったい何の気まぐれだろうかと、リグスは訝しんだ。


「……やめときますよ。無礼を働いてしまうでしょうからな」

「どうせ我々以外には、誰も居ない。たまには構わん。それに、隊長は芝居など見たことはあるまい? 教養を付けるために見物してはどうだ」


 ――生意気なガキだ。


 相変わらずの見下した口調に、気分を悪くしたリグスであるが、彼がそれを面に表すことはない。

 自分の半分くらいの歳の小僧に、あごで使われる。それも、こんな世間知らず、苦労知らずのガキに。情けないとは思うが、これが自分の稼業だ。この金づるを手放せば、世渡り下手な自分は、またいつ次の雇い主を見つけられるか知れない。

 数十人の男たちを食わせていくには、何よりも金、それもかなりのまとまった金が要る。平時に冒険者の真似をして食いつなぐことにも、限界がある。団員の口を干上がらせないためには、大人に対する物言いを知らないこの坊やとも、腰を低くして付き合わなければならないのだ。


「仰る通りです。俺には芝居の良し悪しなんぞ分かりません。ですから、隣は遠慮させてもらいます」

「……そうか」


 リグスはやんわりと断りを入れた。クルツもそれ以上、強いて勧めようとはしてこない。


 先の言葉通り、リグスには演劇の良さなど分からない。物心ついた時から傭兵として生活してきたリグスに、そんなものに心を傾ける余裕などなかった。

 席の後ろに立っていても良く見えないが、演劇は滞りなく進行しているようだ。騒がしい音楽が鳴り、役者たちがわめく声が聞こえる。


「……一人で観ても、つまらんものだがな」


 音楽にかき消されて、前に座るクルツの独白は、リグスの耳には届かなかった。

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