73.第二幕
この世界において、人類の生存圏とはすなわち結界の内側のことだ。帝都の大結界をはじめとして、帝国内の各領邦には、それぞれ独立した結界が設置されている。このエアハルトも、都市ウルムの近郊にある大聖堂を中心として広がる、広大な結界の中にあった。
いや、領邦に結界が設置されているというのは、厳密に言えば適切ではない。まず結界があり、その上に出来た魔物の空白地帯に、人間は営みを築く。結界という前提があってこそ、都市や国家は成立するのだ。
目に見えぬ結界の外に一歩出れば、いつ魔物に襲われてもおかしくない。結界の外側に住もうとする者は、あのオークに襲われた開拓村のように、相応の危険と隣り合わせに生きることになる。
アルフェは一年間の放浪の中で、結界の外に生きる人々の現実を目にしてきた。今日の平穏な生活が、明日には地獄絵図に変わっている。結界の外はそういう世界だ。
結界の内側にしか人が住めないならば、結界を拡げればよい。
誰もがそう考えたことがあるだろうが、それが行われた事例は、アルフェの知る限りでは無い。
街道沿いなどに、簡易的な結界が作られることはある。大きな街道に、等間隔に立っている石柱がそれだ。だがそれは、便宜上結界と呼ばれているだけで、中身はただの魔物除けの臭い袋が詰まっている。魔物が多少寄り付かなくなる程度の代物で、町の道具屋にも置かれている。クルツたちが言っているのは、そんなものではない。正真正銘、「本物」の結界のことだろう。
クルツたちは、新しい結界を張ろうとしている。そしてそれを、クルツが伯の後継者となるための、逆転の一手としようと考えているのだ。
だが、そんなことが可能なのだろうか。
教会が結界を拡げないのは、単純にそれが難しいからだと聞いた。
結界に関する技術は、神の御技に属するものである。その大部分は神代の昔に失われ、今あるのは、それを維持管理するための儀式だけなのだと。それは誰でも知っている、教会の基本的な教義だ。
その秘蹟を、ここにいるクルツたちが見つけ出したというのか。にわかには信じがたい。本当ならば、もっと大々的に喧伝されていてもおかしくないはずだ。
「新たな結界が、どれほどの効力を発揮するかは分かりません。ですが恐らく、十里四方を覆う力はあるかと」
「十分だ。重要なのは広さではない。新たな結界を創出したという、事実そのものなのだからな」
十里四方。思ったよりは広くない……のだろうか。アルフェには上手く想像できなかった。
しかし、クルツの言う通りだ。それだけの領域を新たに人間の世界に組み込んだとなれば、領民は歓喜し、教会の、ひいてはクルツの権威は大きく高まるに違いない。それ程の業績だ、彼が兄に対抗する秘策として捉えるのもうなずける。
だが、アルフェには彼らの語っていることが、眉唾の夢物語のようにしか感じられない。
「別荘の建設と偽って、既に資材は運び入れた。基礎も大方できあがっている。重ねて言うが、あとは遺物さえあれば、必要なものは揃うのだ」
「承知しております」
「教会とて、いつまでも旧い結界の維持に執心していたのでは、いずれ信仰の低下は免れない。それこそ奴の様に、教会を疎ましく感じている者たちの思うつぼだ」
「……」
「それに、この計画が成功すれば、新たな主教に君を推すことも容易だ。だからこそ……、分かっているな?」
「はは、それはもう」
「よし」
クルツと助祭長シンゼイの生臭い話は、それで一段落した。男二人、密着しそうなまでに近づけていた顔を離し、あとはぽつぽつと、アルフェの知らない人間の話題を続けている。そちらは秘匿する内容でもないのか、笑いを交えながらの、気楽な雰囲気での会話だ。
今の話を聞いて、アルフェの中にも、若干の興奮が残されていた。それを面に表さないようにしながら、再び演劇の方に目を向ければ、第二幕が佳境を迎えていた。
王となる男と敵対者の男が、舞台で激しく剣を交えている。その奥には美しい姫がくずおれ。二人の戦いを止めようと、悲痛な叫びを発していた。
「……メルダ嬢の演技はさすがですな」
「いや、彼女は悲劇向きの女優ではないよ。せっかくの個性が殺されている」
「なるほど。クルツ様の見識は素晴らしい。そう言えば、新人の女優の中に――」
クルツと助祭長の話は、役者の評価に移ったようだ。それなら静かに見ればよいのにと思いながら、アルフェは演劇に意識を戻す。舞台の上を光が飛び交い、火花が散る。魔術やそれ以外を用いた派手な演出に、観客のどよめきが上がる。
王となる男は、敵対者の猛攻の前に不覚を取り、その剣を取り落とした。無防備になった男の前に、敵対者の剣が迫る。その刃がまさに届こうとした時、王をかばった姫の胸から、鮮血がほとばしった。
筋書き通りの展開だ。役者たちの迫真の演技に、平土間の平民たちは大興奮していたが、クルツはひどくつまらなそうに言った。
「そろそろ、第二幕も終わりか」
「左様ですな。では、私はこれで、引き上げさせていただきます」
「主教の桟敷に戻るのかい? 別に終幕まで、ここに居ても構わないが。酒と夜食でも出させようじゃないか」
「いえ、これ以上、クルツ様とお嬢様の邪魔をするのはよしましょう……。それに今夜は、私の方にも連れがおりますので」
「連れ? 珍しいな。ご婦人か?」
「まあ、そうなのですが」
「君がかい? それは見てみたいな。主教の桟敷は――、ああ、あそこか。……ほほう、黒髪とは珍しいな」
クルツが少し前に身を乗り出して、他の桟敷の様子を探る。万一のことがあっては危ない。護衛として、一応はそう注意しようかと思いながら、アルフェも何とはなしに、クルツの視線の先を追った。
「――!」
その瞬間、アルフェの目が大きく見開かれ、顔面が蒼白になった。
クルツの桟敷と対角に位置する所に、主教の桟敷はあった。
教会の所有にしては、少し派手な装いの桟敷。しかし、そんなことはつまらない問題だ。重要なのは、その中に座っている人間の方である。
簡素なドレスを着た、一人の女。アルフェはその女に、見覚えがある。
「――あの女性、は」
「ああ、君にも見えるかい? ……美しいな。確かに、美しい。儚げではあるが、それがまたいい。シンゼイ殿も、隅に置けない」
「いえ、私の愛人ではありませんよ。話せば長くなるのですが……」
クルツとシンゼイの話は、アルフェの耳に届かない。それだけでなく、今この瞬間、その女性以外のすべての物が、アルフェの五感から抜け落ちた。
「――あれは」
会ったのは一度だけだが、確かに覚えている。
アルフェはあの町で、ベルダンの町で起こった事を何一つ忘れてはいない。今でも全てを、鮮やかに思い出せる。それは何もかもが大切な思い出だ。
想いを遂げるために、憎しみを風化させないよう、彼女はあの時の全てを、心の中で反芻し続けてきた。その風景の片隅に、あの女の顔がある。
「あれは、あの時の」
病的なまでに青白い顔。あの女は、ベルダンにいたころのアルフェを訪ねてきた。従者クラウスの伝言を持ってきた、あの女だ。
舞台の上では、姫を殺した敵対者が、後悔と嘆きの言葉を漏らしている。青白い顔の女は、物憂げな顔で、その光景をじっと見つめていた。




