71.お芝居
「教会、ですか。なぜ教会が?」
そう聞いたが、別におかしくはないのだろうか。各地の結界を管理している教会は、どの領邦においても、暗然たる影響力を持っている。彼らが地方貴族と同じように、エアハルトの後継者争いに介入していても、不思議ではない。
そんなことを考えているアルフェに対して、リグスが詳しい事情を説明し始める。
「クルツ坊ちゃんの兄貴――ユリアンは、かなりのやり手だ。それは聞いてるな?」
「ええ」
「ユリアンはエアハルトの地方領主を潰して、自分が継いだ後の伯の権力を高めようとしている。それに恐々としてるのが、この間の晩餐会に集まった連中だ」
「……」
「やると決めたら、あの兄貴はやるだろう。それだけの能力を、あいつは持っている。だがそれだけじゃない。ユリアンは、教会権力にも手を付けようと考えてるらしいんだ」
教会は、魔物を払う結界を守護管理し、大陸における人間の領域を守っている。ある意味で国を超越した存在だ。民から独自の税を取る権利を持ち、領主も教会の内部には干渉できない。
教会に手を出す。いくらユリアンが次代の伯とはいえ、それは大それた考えに聞こえる。“手を付ける”というのが一体どこまでを意味するかは不明だが、場合によっては伯の立場すら危うくする、危険な行為ではないだろうか。
「……野心家、というのですよね。そういう人を」
「その言葉だけで済めばいいがな。――とにかく、それで分かっただろう。そういう事情で教会も、クルツ坊ちゃんの支援者になり得る。だから一緒に演劇鑑賞だ。そういう訳だ」
そこまで喋って、リグスはテーブルに手をついて立ち上がった。説明はこれで終わりということだろう。
二人きりの部屋を出て廊下を歩きつつ、リグスがアルフェに細かい指示を出す。
「当日の夕方、お前は坊ちゃんの館に来てくれ。そこで着替えてもらって、馬車で目的地まで移動だ。前と同じ手順だから、分かるな」
「はい」
相槌を打ちながら、リグスの後について階段を降りる。一階に戻ると、アルフェはそこに、さっきまではいなかった青年の姿を見た。
「あれぇ、リグス隊長。久しぶり」
「おや、リーフの坊ちゃんじゃないですか」
ゴーレムクラフターのリーフが、また冒険者組合にいる。アルフェより先にリグスに気付いた彼は、かなり気安い調子で挨拶を交わした。
「ははは、坊ちゃんはよしてよ。ん? え、アルフェ君?」
「……おはようございます」
「二人は、どういう知り合いなの?」
アルフェとリグスを見比べてから、不思議そうにリーフが尋ねる。
アルフェも頭の中で同じことを思ったが、そう言えばリグスは以前、依頼の関係でリーフと面識があると言っていた。
「仕事仲間ですよ」
「へぇ?」
アルフェの代わりに、リグスがリーフの質問に答える。リーフはよく理解していなさそうな返事をした。
「坊ちゃんは、ここで何を?」
「僕がここに来る時の用は決まっているさ。ゴーレムの材料調達だよ。――どうせなら、アルフェ君か隊長に頼めるといいんだけど」
「すいませんね。俺たちは今、別件を請け負ってるんで。また今度お願いします」
リグスに柔らかく断られると、リーフは拍子抜けした顔をして、それじゃ仕方ないとつぶやいた。それから彼は指で眼鏡を押し上げ、話を切り替えた。
「そうだ、アルフェ君」
「何ですか?」
「前に、君と採取した鉱石だけどね」
アルフェは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
少し記憶を探って思い出した。リーフの言う鉱石とはきっと、先日、彼の依頼を受けて行った廃鉱で拾った、あの黒い石のことだ。貴重なものだったのだろうか。
「……ああ、それが何か?」
「それがねぇ、僕が鑑定しても良く分からないんだ。今度、城の研究所に持っていくから、良ければ君も一緒にどうだい?」
「そうですね……」
その鉱石にはあまり興味が無いが、城の研究所というのは、一介の冒険者が訪れる機会はあまり無い。すぐに断るのも勿体ない気がする。
「今の仕事が済んだら、考えさせてください。それでもいいですか?」
「いいよ。急がないし」
あっけらかんとリーフがうなずく。そのやり取りを見ていた傭兵隊長が、訝しげに尋ねた。
「何だ、えらく仲がいいじゃねぇか。二人はどういう関係なんだ?」
◇
エアハルト伯の居城がある大都市ウルムは、いくつかの区画に分かれている。リーフのアトリエがある工房区や、クルツたちの晩餐会の会場があった貴族街区などがそうだ。
そして都市の中央に位置する商業区には、多くの商家が立ち並び、通りには市が連なっている。ここは帝国内でも、最も賑やかな場所の一つだ。
夜、その商業区にある最も大きな劇場には、精一杯にめかしこんだ男女が次々と集まっていた。
下層民から上級貴族に至るまで、演劇は欠かすことのできない娯楽である。特に今宵の劇場では、帝都で演じたこともある領内一と言われる名優が、怪我から回復して久しぶりの舞台に立つ。ウルムの物見高い人間は、こぞってその演技を見に来ているのだ。
劇場の中に入ると、一階の土間には、平民たちがひしめき合っているのが見える。桟敷席にいる貴族や大商人は、まるでそれも見世物の一部だとでもいうように、高みから彼らを見下ろしていた。
そしてその桟敷の一つに、アルフェはクルツと共にいた。
幕が上がる前の、ざわざわとした喧騒。誰もがこの非日常の空間に、浮かれているようだ。
アルフェは、観劇の作法についても一通りは知っている。しかしそれは知っているだけであり、実践するのは初めてだ。そのせいか、彼女は少し場の雰囲気に圧倒されていた。
普段と変わらない、抑えた表情をしている顔をよく見れば、その肌が少し上気している。
「アルフェさんは、観劇は初めてですか? 緊張しているようですね」
「……いえ、そんなことはありません」
クルツの問いかけに、張らなくてもいい見栄を張った。これも彼女が、普段と違う精神状態だからなのかもしれない。
本当の恋人同士ならば、寄り添って座るのだろう。しかし二人は、薄暗い桟敷の端と端に、距離を開けて座っていた。投げ出した脚を組み、頬杖をついて座るクルツと、揃えた脚の上に手を重ねて座るアルフェ。その姿も対照的だ。
「今夜の姿も、より一層に美しい……。君を見る度に、私の胸は早鐘を打つよ」
感に堪えないという様子で、クルツがつぶやいた。
アルフェは先日の晩餐会の時とは違う意匠の、青いドレスを着ている。大きく開いた背中から、彼女のぴんと伸びた背筋が見える。
クルツはそのドレス姿を、穴が開くほどに見つめているが、アルフェの視線は幕が掛かった舞台の上に注がれていた。
「お世辞はやめていただけませんか。お話しするなら、仕事の話をしましょう」
雇い主を見ようともせず、冷え冷えとした声でアルフェが返した。
「……今日のゲストは、幕間になるまでは来ない。仕事まで、まだしばらくは時間がある」
「……」
「それにこの劇場では、無粋な暗殺者も襲ってきにくい」
クルツのその言葉には、アルフェも同意する。劇場内は薄暗いが、人目も多い。先日のように、外から不意を打つのも難しい。自分の身を省みない人間ならともかく、金で雇われた刺客が、逃亡の困難なここを、襲撃の場に選ぶとは考え辛い。
「君とはぜひ一度、二人きりで話をしたかったのだ」
「そのようなことのために、私をお雇いになったのですか?」
「お互いを知ることは、仕事を円滑にこなすためには必要だろう?」
わざわざ離れて座ったのに、言葉の距離が近い。さらにその言葉の中に、よこしまな気配が混じっている。ステラに対するものとは違う意味で、アルフェはクルツのような人間が苦手だった。
「そんなに離れていないで、もう少し近くに――」
「クルツ様」
腰を浮かしかけたクルツの言葉を、少女が遮る。
ほんの少しだけ、クルツの方を向いたアルフェの眼光が、彼の全身をその場に縛り付ける。
「この距離が、貴方をお守りするための、最適な距離です。……不用意にそれ以上近づかれると、命の保証が、できかねますので」
その“命の保証”とは、間違いなく暗殺者からの命の保証なのか。
もしかしたら、君が――。そんな冗談を言う度胸は、クルツには無かった。
「わ、分かった」
生唾を飲み込み、クルツは椅子に座りなおした。
その時、彼の心臓が早鐘を打っていたのは、紛れもない事実だ。




