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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第二章 第四節
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70.病み上がり

「よう、アルフェ。久しぶりだな」


 その日の朝、数日ぶりにウルムの冒険者組合を訪れたアルフェは、そこで傭兵隊長のリグスに遭遇した。


「あ……。おはようございます、リグスさん」

「病み上がりだろ。無理していいのか?」

「もう、問題ありません」


 リグスの問いかけに対して、強がりではなく、アルフェはそう答えた。

 晩餐会の襲撃から十日近くが経っている。彼女が襲撃の夜に受けた毒の影響は、今では全く残っていない。昏睡から目が覚めてすぐは、硬くなった身体を思う様に動かせなかったアルフェだったが、二日も休めば元通りになった。

 むしろこれ以上休むと、体が鈍ってしまう。早く実戦の勘を取り戻したいと思った彼女は、とりあえず組合に顔を出したのだ。


「本当か?」


 傭兵隊長は、アルフェの身体の調子を確かめるように、彼女の一挙手一投足を観察している。その上で、彼も問題無いと判断したのだろう。ならいいんだけどよとつぶやいてからこう言った。


「見舞いに行ったら、もういねぇっていうからさ」


 ここに来る前、アルフェが療養していた治癒院を訪ねた彼は、彼女が既に退院したと聞かされて耳を疑った。


 襲撃のあった夜。路地裏で毒に侵され倒れていたアルフェを拾ったリグスたちは、一度はクルツお抱えの名医だという男にアルフェを診せた。

 手の施しようがない。大して診もしないうちに、その藪医者はあっけなく匙を投げた。その医者をリグスが張り倒す一幕もあったのだがそれはそれ、次の手として、リグスはこの都市で最近にわかに評判になっていた、平民街の治癒院にアルフェを運んだのだ。

 そこにいたのが、以前アルフェと一緒に歩いていた治癒術士の娘だったのには、彼も少なからず驚いたが、その娘がアルフェを治してみせたことには、もっと驚いた。


 アルフェには言わないが、ひょっとしたら死ぬかもしれない。――いや、たぶん助からないのだろうとまで考えていたのだ。まさかこれほど早く回復して、普段通りに動いているとは思っていなかった。


「あの、治癒術士の嬢ちゃんも、怒ってたっていうか……、心配してたぜ」

「……そうですか」


 リグスの言葉に、アルフェが少し後ろめたそうな声を出した。

 それもそのはず、ステラはまだ退院は認められないと言って、アルフェを強硬に引き留めたが、アルフェはそれを振り切り、半ば逃げ出すような形で出てきてしまったのだ。


「でも、本当にもう、大丈夫ですから」


 少し目を伏せ、左の二の腕をかばうような仕草を見せながら、アルフェがつぶやく。その言葉は、彼女自身が自覚できるほど、言い訳のように響いた。

 だがこれは一体、誰に対する、何の言い訳なのか。


 アルフェが治癒院から逃げたのは、怖かったからだ。

 あの治癒術士の少女の振りまく優しさや気遣いが、アルフェには怖かった。そんな風に優しくされても、今のアルフェには、ステラにどう返せばいいのか分からない。そして、分からないのになぜか、その優しさに抗うことができない。

 あのまま彼女の優しさに溺れていると、今の自分を支えている大切なものが、折れてしまう気がする。アルフェにとって、あの暖かさは、ある意味で毒よりも恐ろしいものだった。


 だからアルフェは、ステラに対してまともに別れの言葉も言わず、治癒院を出てきていた。


「――それより、クルツさんはどうなりましたか?」

「ん? おお、問題ない。かすり傷一つないし、ピンピンしてるさ」


 アルフェは強引に話を逸らしたが、リグスは深く追求してこなかった。


「しぶといのは、あいつの数少ない取り得だな。――でな、次の仕事について話したいんだが……、今は大丈夫か?」


 彼が冒険者組合までアルフェを探しに来たのも、その件で彼女に用があったからなのだろう。ここでは人の耳があるからと、二階の部屋を一つ借り、二人はそこに移動した。


「とにかく、敵の襲撃は空振りだ。お前が体を張ってくれたお陰で、あの坊ちゃんは死なずに済んだ。まずは礼を言わせてもらう」


 椅子に腰を据えると、アルフェが治癒院にいた間の詳細について、リグスは語った。それによると、アルフェが敵を撃退した後は、特に大きな事件は無かったようだ。


「では、あの後は何事もなかったのですね」

「ああ、坊ちゃんは普通に馬車で屋敷まで帰ったよ。約束した報酬は、後で引き渡そう。色を付けてな」

「敵を一人、逃がしてしまいましたが」


 アルフェの名を聞いてきた剣士の男。クルツを狙った方の男は、その剣士によって、アルフェたちが追いつく前に既に息の根を止められていた。


「そうだってな。ウェッジから聞いたよ。……毒の分を差っ引いても、お前が仕留め損ねるってことは、相当腕の立つ野郎だな」

「はい、かなり。フロイド……、なんとかと名乗っていました」

「わざわざ名乗ったのか? 妙な野郎だな。フロイド……、フロイドか、知らん名前だな。お前は?」

「知りません」

「そうか。まあ、そいつの事は後で調べさせよう。で、こっちの方だが、結論を言うと、襲撃を指示した人間の手掛かりは無かった。この十日、坊ちゃんに言われて、俺たちも色々と走り回ったんだが……」


 全て空振りだったと、リグスは肩をすくめた。


「……クルツさんのお兄様は?」

「坊ちゃんは相変わらず、兄貴――ユリアン・エアハルトの仕業だって言い張ってるがな。あいつが言ってるだけで、当然証拠なんかない。街の衛兵に調べさせようにも、そもそもその衛兵たちは、兄貴の命令しか聞かんからな。八方ふさがりだ」


 そう言うが、特別リグスは残念がっているようには見えない。アルフェがそう思ったのを察したのか、リグスは付け加えた。


「ま、暗殺者を防ぐのは俺たちの仕事だが、その黒幕を捕まえるのはそうじゃないからな」


 アルフェは座ったまま口を挟まず、リグスの話を聞いている。彼女にしても、誰がクルツを殺したいのかということには、あまり関心が無い。


「ただな、ボウガンのボルトに塗られていた毒は、そんじょそこらで手に入るもんじゃない。お前が食らった毒もそうだ。これだけのブツを用意して、そんな手練れを雇えるってことは、指示した人間は、かなり力のある人間だ。それは間違いない。しかもそいつは、よっぽどあいつに死んでもらいたいらしい。……今回はお前も無事だったし、ウチの団員も死ななかった。だが、気を引き締めてかからんとな」


 今回の襲撃で、クルツを狙う敵の本気の程が知れた。だからリグスは、雇い主というよりも、自分の部下を案じてそう言うのだ。


「坊ちゃんも、しばらくは大人しくしていたが、また次の夜会に出なければならんとのたまいはじめた。……で、だ。その、なんだ」


 そこまで説明して、リグスは言いよどむ。あご髭をこねくり回して、首をひねっている。

 彼が口に出したくても口に出せないことが、アルフェには分かる。彼はまた、自分にクルツの護衛について欲しいのだ。しかし彼の正式の部下ではない上に、ついこの間死ぬ思いをしたアルフェに、再び危険な目に遭ってくれとは、リグスにも言い出しにくいのだろう。

 助け船を出すように、アルフェは自分から言った。


「お引き受けします。――報酬さえ払ってもらえるなら。私を気遣って下さる必要はありません」

「そう言ってもらえると助かる。恩に着るぜ」


 リグスは明らかに、胸のつかえがとれた様子をしている。

 しかしアルフェの方には、リグスに恩を着せようというつもりは無い。言葉通りただ、報酬目当てでやっていることだ。


「で、次はどちらで開かれる晩餐会ですか?」

「観劇だ」

「……は?」

「晩餐会じゃない。次は、演劇を鑑賞するんだそうだ。付き添ってやってくれ。いやぁ、絶対断られると思ったんだが、まさかお前から引き受けてくれるとはな」


 リグスの言葉には、若干の白々しさが混じっている。しかしもう引き受けると言ってしまった手前、断ることもできない。少し不満げなため息をついて、アルフェは答えた。


「もう、何でもいいです。どこにでも連れて行って下さい」

「……お前が呆れるのは分かるよ。文句を言ってくれていい。道化じみた真似をさせて、悪いと思ってる。でもな、あいつらお貴族様は、そういう気取った場所じゃないと、内緒話もできねぇんだ」

「……」

「そして情けねぇことに、そいつらのおこぼれを預かって生きてるのが俺たちだ」


 クルツというよりは、貴族全体に対する嫌悪と、それに尻尾を振る己に対する卑下をにじませて、リグスは喋っている。


「でもな、お前なら分かるだろう。食うためには――仕方ねぇんだよ」


 だから、辛抱して付き合ってくれとリグスは言う。


「……分かりました。クルツさんの次のお相手も、エアハルトの貴族ですか?」

「いや」


 アルフェの問いに対しリグスが挙げたのは、少し意外な名前だった。


「教会の人間が一緒だと聞いている」

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