69.治癒院
――……っ!
びくりと身を震わせて、ステラの意識は回想から現実に戻る。
アルフェの口内に、小瓶の中身を注ぎ入れた瞬間の、何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという感覚。それを思い出すと、彼女の背中には今でも怖気が走る。
何はともあれ、危機は脱した。ステラの思いついた治療法は奇蹟的に成功し、アルフェの体内から毒は消え去った。だがステラは、二度とあの方法を実行したいとは思わなかった。たまたま上手くいっただけで、少し間違えば最悪の結果もあり得たのだ。
あの夜の自分は、正直どうかしていた。アルフェが助かった喜びは喜びとして、ステラは心の中で、己の無謀な行動を戒める。
「――ふぅ。……よしっ!」
両手で軽く頬を叩き、ステラは気を取り直した。
煎じた薬草を持って、控えの間を出る。これを薬湯にして、次にアルフェが起きた時、飲ませなければならない。そのための湯を取りに行こうと、ステラは治癒院の回廊を歩いた。
この治癒院には、いくつかの入院用の病室がある。しかし今は丁度、アルフェが使っているもの以外は、誰も入っていなかった。重篤な患者がいる時の、あの重苦しい、嫌な気配は今は無い。むしろ、どこか優しい時間が治癒院には流れている。
ステラが目的の部屋の前に立つと、良い香りがその中から漂ってきた。中を見れば、年配の恰幅のいい女性が、厨房で患者のための食事を用意している。その女性は治癒士ではなく、近所に住む子持ちの主婦だ。新入りのステラにも気安く接してくれる気風のいいおかみさんで、いつもこうして、料理や掃除などの手伝いに来てもらっている。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れさん。もう少し待ってておくれ。すぐにできるからさ」
「急がなくても大丈夫ですよ。あの子、まだ眠っていますから」
「違うよ。これはあんたの分さ。他人のことばっかり気にしてないで、あんたもちゃんと食べなさいよ」
そう言われて、ステラは昨日から、自分が何も口に入れていないことに気付いた。看病に夢中で、すっかり忘れていた。
テーブルの上には、パンと野菜で作った簡単な軽食が用意されている。その横に置いた皿に、女性は肉の入ったスープをよそった。
「患者の分も作ったら、あたしは子供の世話に戻るからね」
「ありがとうございます」
「いいよ礼なんか。水臭い」
ステラは久しぶりの食事をとると、女性が作り置いて行った重湯と薬湯を盆に乗せて、アルフェの病室に戻った。
彼女はまだ、眠っている。
苦しそうな表情はしていない。胸も静かに上下している。
この二晩、ステラはほとんど一睡もしていなかったが、その時のような、二度とアルフェが目覚めなければどうしようという切迫した思いは、ステラの中から消えていた。
――……っと、いけない。
危うく意識が、眠りの中に落ちそうになった。
季節はもうすぐに夏だ。心地よい陽気が、窓の外に溢れている。ベッドの横に座り、アルフェの寝顔を見ていると、ステラまでうつらうつらとしてしまいそうだった。
ステラは一度伸びをすると、重湯をそのまま病室に置いて、治癒院の庭先に出た。
「う……」
ステラは目を細めた。徹夜続きの目には、太陽がいつもより黄色く見える。
この治癒院には中庭があった。とは言っても、平民街にある、ろくに貴族の後援者もいない貧乏治癒院のことだ。貧相な建物に似合い、庭の面積は限られている。
それでも、その庭には所狭しと、様々な草木が植えられている。施術に必要な薬草の類はもちろんのこと、ただの観賞用の草花や、季節の野菜などもある。日当たりの良い中庭で陽光を浴びながら、それらの植物は、つやつやとした鮮やかな緑を茂らせていた。
ステラの知る限り、教会の管理下にない市井の治癒院は、どこもこんな感じだ。植物が多く生えている方が、空気中のマナが濃くなるので、治癒術の効果が上がる。そのように、治癒士たちの間で信じられているのだ。だから、治癒院は病室にもできるだけ植物を飾る。少し迷信じみた話で、本当に効き目があるのかは知らないけれど、気持ちがいいので、ステラもこの方がいいと思っている。
腕まくりをしたステラは、中庭に掘られた井戸から水を汲み、ブリキのじょうろに移す。そしてそれを、中庭の植物たちに振りまいていった。
エプロンスカートのような治癒士の制服を着たステラの姿は、健康的な眩しさを放っている。慈しむような微笑みが、彼女の横顔には浮かんでいた。
――……?
そうやってしばらく庭仕事をしていると、背中に誰かの視線を感じて、ステラは振り返る。そこにいた人物を見て、彼女は危うく、手に持っていたじょうろを取り落としそうになった。
「あ――」
それだけを口にして、ステラの声が詰まる。庇の下、太陽の光を避けるように、アルフェが立っていた。
彼女が運び込まれた時に着ていたドレスは、寝ている間にステラが脱がした。アルフェは今、治癒院の患者が着る、白い、丈の長いチュニックを身に着けている。
あの、アルフェの年齢には不似合いな大人びたドレスを着て、彼女が何をしていたのか――させられていたのか、それは知らない。彼女が生きている世界がどういうものか、それも今はどうでもいい。
今はただ、彼女がここに、こうして無事に生きていることこそが大切だ。この瞬間のステラには、そう思えた。
「アルフェちゃん……」
「……おはようございます」
アルフェの声を聴き、ステラの目の奥が何となく熱くなる。
二本の脚で立つ少女を見て、こみ上げてきた嬉しさと安堵を抑え、ステラは治癒士として、彼女を優しくたしなめた。
「まだ、無理しちゃだめだよ」
「……大丈夫です。お粥、ありがとうございました」
「食べれた?」
「……ええ」
大丈夫だとは言ったが、アルフェの声はまだ頼りない。その立ち姿も、どこか危うかった。
少し目線を逸らして、ステラとまともに目を合わせようとしないのは、アルフェの癖だろうか。
――いや、避けられているのだろう。
「……すみません、お世話になりました」
感情を抑えた低い声でつぶやく、彼女の短い言葉からも、ステラを柔らかく、しかし確かに拒絶する意思を感じる。
オークに襲われた村で、初めて会った時の彼女も、そう言えばこんな雰囲気を醸し出していた。
「部屋に戻ろう? まだ寝てないと……」
「……いえ、もう、治りましたから。私はこれで――。――あっ」
――私はこれで失礼します。きっとアルフェは、そんなことを言おうとしたに違いない。だから、言われる前に、ステラはアルフェの手を取った。一瞬びくりと、痛いものに触れたように、アルフェの肩が跳ねる。
ステラの指が、アルフェの指先をそっと包んでいる。病み上がりでも、アルフェの力なら振り払える。だが、彼女はそうしなかった。
「アルフェちゃん?」
「……」
アルフェは答えない。ステラはアルフェの手を握る自身の両手に、力を込めた。
初めて、二人の目が合った。真っ直ぐとアルフェの瞳を見つめて、真摯な表情でステラは言った。
「――戻ろう?」
繰り返されたステラの言葉には少しの厳しさも混じっていたが、そこには、目の前の少女を案じる気持ちが満ちていた。
「…………はい」
うつむいて返事をしたアルフェは、まるで母親にわがままを叱られた子供が、しょげたような顔をしていた。




