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白銀のヘカトンケイル  作者: 北十五条東一丁目
第二章 第三節
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68.毒

 患者を寝かしつけると、その上にそっとシーツをかけて、ステラは病室を出た。


「……」


 回廊を歩きながら、彼女はため息をつきそうになる。自分の中にある、このやり切れない気持ちは何だろうかと。

 アルフェはステラが病室に入った瞬間、まるで外敵の侵入に反応したかのように、素早く彼女を振り向いた。その時に見せた、アルフェのこわばった表情。赤く泣きはらした目。無意識に傷の重さをはかるような、手の仕草。全てが、やり切れない。


 三日前の深夜、屈強な傭兵たちに担がれて、アルフェはここに運ばれてきた。

 ここは治癒院である。ステラだって、夜中に急病人や怪我人がやってくることには慣れている。しかし自分と同じ年ごろの、知り合いの少女が、猛毒を受けて運ばれてくるなど初めてだった。


 ――あんたなら治せるか? 城には、ろくな治癒術士がいないんだ。


 そう頼んできた傭兵隊長のリグスは、最後まではぐらかして、アルフェが毒を受けた時の状況を詳しく話さなかった。


 だが、ステラは知っている。アルフェの体を蝕んだ毒は、いくつかの毒草と鉱物毒とを組み合わせた激毒だ。普通の生活を送っている人間が、それに接することなど万が一にもあり得ない。幼い頃から治癒についてあらゆる文献を読み漁ってきたステラが、辛うじて読んだ記憶がある程度の代物なのだから。


 あれは、帝都の暗殺ギルドについて書かれた本だったろうか。作り話と思って、勉強中に気まぐれに読んだ本だ。それが役に立つ日が来るとは、彼女自身、思いもしなかった。

 常人ならば、間違いなく即死する猛毒。たとえ鍛えられた人間であろうとも、あれを受ければ、のたうち回りながら血反吐を吐き、正気を失って死ぬだろう。

 それなのに、どうしてアルフェが無事だったのかは、治癒したステラですら分からない。


 アルフェを診たステラ以外に、あの少女が運ばれてきた経緯を知る者はいない。朝の治癒院の中には、いつもの日常が流れている。


「お疲れ様でしたね」


 控え室に戻ったステラに、居合わせた一人が、軽くねぎらいの言葉をかけてきた。年下のステラにも丁寧な言葉を使う、物腰の柔らかな男性の治癒術士だ。


「……あの子は、どうです?」


 詳しい事情を聞かされていないとは言え、眠ったままの少女をステラが看病し続けていたことは、彼も知っていた。ステラが、患者が目覚めたことを伝えると、彼はよかったと繰り返し口にし、自分の仕事に戻っていった。

 ステラも、アルフェのために必要な薬草を煎じる作業に戻った。手を動かしながらも、彼女はまた、三日前の夜のことを思い出している。



「ここに、お願いします。ゆっくり」


 二人の傭兵が、ぐったりとしたアルフェの体を寝台に横たえる。彼女の額に手を当てると、まるで火が付いたような熱さだった。

 ステラは振り向いて、部屋の中にいる男たちに言った。


「すみません。治癒を始めるので、席を外してください」

「……なんか、手伝うかい?」

「大丈夫です」

「ああ、分かった。……頼むぜ」


 実際、彼らにやってもらうことは無い。ステラの言葉を受け、リグスが部下に手で合図をする。部屋の空間の大部分を占めていた男たちは、無言で病室を出て行った。

 アルフェと二人きりになったステラは深呼吸した。傭兵の一人によると、アルフェは毒をもらったということだ。左腕に、濃い紫に変色した切り傷がある。


 何の毒を、どうして受けたのかは気になるが、この様子だと、そう長くはもたない。調べている暇はなかった。とりあえず、今の自分にできる最高位の治癒術を施そうと、ステラは精神を集中した。


 腕を前に差し出したステラの口から、治癒の呪文が紡がれはじめた。空気中のマナがゆらめき、青い光が術者を中心に陣を形成した。――高位魔術である。


「――!? 効かない? どうして……!」


 驚きが、ステラの口から洩れる。アルフェにかけた解毒の術が、なぜか効力を発揮しなかったからだ。

 アルフェは歯を食いしばって、苦悶の表情を浮かべ続けている。症状が改善した様子は、全く見られなかった。


 毒の力が、ステラの治癒術を上回っていたようには感じられなかった。厄介な毒には違いないだろうが、ステラの行使した術は、見る者が見れば唖然とするほど高度なものだった。

 小さな町の治癒術士なら、それこそ見ただけで腰を抜かしてしまうだろう。帝都でも、この魔術を使える治癒術士は十指に満たない。これで治癒できない毒など、初めて遭遇した。


 ――いいえ。


 違う。毒ではない。毒ではなく、アルフェの体自身が、ステラの術に抵抗したのだ。肉体が治癒術を拒否する。そんなことがあるのだろうか。


 生まれつき、魔術の掛かりにくい体質の者はいる。体内に内包する魔力オドを、ほとんど持たない人間がそれだ。しかしそういう者は、大抵の場合、子供のうちに死んでしまう。

 しかしアルフェから感じたのは、それとも違う感覚である。あたかも彼女の身体の中から溢れる魔力が、ステラの術を、内側から押し流したかのような感覚だ。


「なんで……!?」


 高位魔術を行使した疲労と動揺から、ステラの顔色も、アルフェと同じように蒼白になっている。

 ステラは魔術が通じない原因を探ろうと、手のひらをアルフェの胸に当て、目を閉じ、体内の魔力の流れを探った。


「何、これ……!?」


 そうして感じた驚きに、ステラの目が見開かれる。

 アルフェの中にある、人間とは思えない量の魔力。それがまるで、大河のように轟々と彼女の身の内を流れている。

 一個の生命の中に、こんな非常識なまでの魔力が宿ることなど、あるのだろうか。これは、これではまるで、人間ではなく、強力な魔物か何かのような――


 ――どうする? どうするの……!?


 ステラは自分に問いかける。驚いている時間はない。もう一度、解毒の魔術を試みるか。

 だが、それではさっきと同じ結果になるだろう。解毒の魔術は、対象の内側に働きかけて作用する。この魔力の奔流の中に、ステラが集めたわずかな魔力を流し込んでも、かき消されるだけだ。


 治癒院の術士を叩き起こして、全員で大魔術を行使するか。それも、違う。申し訳ないが、並みの術士が何人集まっても、今のステラの役には立たない。


 ――教会なら……。


 そう思いかけて、ステラは首を振った。帝都の大聖堂に行けば、ステラ以上の術を行使できる者はいる。しかしそれは、さらに非現実的な案だ。帝都ははるか遠くに離れているのだ。それに、たとえ手に届く場所に彼らがいたとしても、あそこにいる人々はきっと自分に力を貸してはくれない。

 涙が出そうになる。だが、ここで泣いてどうなる。


「……ま」


 アルフェが、何かうわごとをつぶやいた。

 苦しい表情を浮かべる力も失われたのか。土気色になったその顔はむしろ、穏やかにさえ見える。その口から、初めてうめき声以外の単語が漏れたのだ。


「……さま」


 名前だ。消えそうなか細い声で、彼女は誰かを呼んでいる。繰り返し繰り返し、まるで助けを求めるように。


「――っ!」


 諦めてはいけない。何か方法を考えるのだ。

 ステラの頬が紅潮し、表情が再び引き締まった。


 ――この毒を打ち消すには……。


 単純に考えよう。要は、アルフェの魔力を上回る魔力をぶつければいい。しかし、今の自分では、持てる力を全て振り絞ったとしても、十分な量を用意できない。ならばどうするのか。


 ――毒?


 その時、毒という単語から、ステラはある方法を連想した。 


 ――そうだ、毒を。


 立ち上がったステラは、アルフェの寝ている病室を出て、突き動かされるように薬の保管庫に向かった。


「――ん? お、おい、あいつは助かったのか?」


 その途中、廊下の壁に寄りかかって待っていたリグスがステラに声を掛けたが、彼女の耳には届かなかった。

 ステラは鬼気迫る表情で立ち去り、再び病室にもどってきた。その手には、一つの小さな瓶が握られている。


 ――これを、使えば。もしかしたら。


 アルフェの横に立ったステラは、ごくりとつばを飲み込む。彼女の頭に浮かんだのは、非常に危険な計画である。

 瓶の口を引き抜くと、そこから立ち上った臭気が、ステラの鼻を刺した。


 ステラが手に握っているのは、ある種の毒だ。通常の治療で用いられることはない、対象の魔力を奪う毒。健常な人間には、ほとんど効果は無いが、弱っている今のアルフェになら効くかもしれない。そうすれば、解毒の魔術も通じるようになるかもしれない。


 “かもしれない”ばかりだ。弱くとも毒は毒、もしかしたらこの処置によって、自分の手で彼女の命を絶つことになるかもしれないのに。それでもこのままでは、アルフェは間違いなく死ぬ。それは断言できる。


 だから、覚悟を、決めなくてはならない。

 ベッドの横で膝立ちになったステラは、震える手を必死に抑え、アルフェの口に、ゆっくりと小瓶を近づけていった。

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