67.ある日の道場
「お師匠様、またローラさんに怒られたのですか?」
道場の床板に座って、アルフェが言った。目の前には彼女の師匠のコンラッドが、あぐらをかいて腕を組み、首をうなだれてしょげている。
彼がこうなっている時は、大抵道場の大家、ローラに怒られたと決まっているのだ。
「そんなことはない! ただ、ちょっとな、家賃の方が……」
「えぇ……」
アルフェは呆れて絶句する。この前の仕事で借金を返済し、溜まっていた家賃も全て払ったはずではないか。しかし聞けば、コンラッドの貯えは、それからすぐに底をついたのだそうだ。
基本的に、コンラッドの収入は、アルフェが払う銀二枚の月謝しかないのだ。それだけでは多分、大家に払う家賃の分にもならないだろう。それ以外にもせっせと働かなくては、収支がマイナスになるのは当たり前だ。
少し懐に余裕ができたからと油断するとは、なんと仕方の無い師匠だろうか。
「仕方の無い師匠ですね……」
「ずばり言うな。可愛げのない奴だ」
「あら、聞こえてしまいましたか?」
わざとらしく手のひらを口に当て、アルフェは驚いた仕草をする。
「こいつ……」
「で、ローラさんは何と?」
話題を逸らすなと言いながらも、コンラッドは答える。
「あいつはまた、この俺に雑用を押し付けてきたのだ」
「雑用?」
「今度、祭りがあるそうなのだが」
「ええ、そうらしいですね」
まさに街は今、その祭りの準備で浮かれている。毎年開催される、都市の偉人の生誕祭とかで、リアナがうきうきしながら話していたのを覚えている。特別な市も立ち、都市の外から観光客も訪れるので、その期間は市内がかなり賑やかになるそうだ。
しかし、そのこととコンラッドが、どう関わりがあるというのか。
「――で?」
「うむ、その祭りで買い物をするから、また荷物持ちをしろと――」
――ベルダンの女の人が、そのお祭りに男の人を誘うのは、愛の告白と同じようなものなんですよ。ロマンチックですね!
そう言えばリアナは、ついでにそんなことも言っていた気がする。
「……引き受けたのですか」
「断りたかったんだがなぁ。家賃を盾にされては、何も言えん」
がりがりと頭をかいて、コンラッドが言う。リアナの言うような風習を、彼が知っているとは考えられない。この人は、本当にただの雑用を命じられたとしか思っていないようだ。純粋に面倒くさがっているのが、アルフェには分かる。
だから、花のような笑顔でアルフェは言った。
「ご存じですか? お師匠様の様な方を、世間では唐変木とか、朴念仁とか言うそうですよ」
「何だ、それは? 聞いたことのない言葉だ。さぞかし素晴らしい意味なのだろうなぁ」
師弟は向き合いながら、はっはっはと白々しく笑った。
「――私、今日は帰ります」
「はっはっは――、ん?」
急に真顔に戻ったアルフェがそう言ったので、コンラッドも笑いを止めて彼女を見た。
「お師匠様はローラさんと、精々楽しんでいらしてください」
「ど、どうした。何をそんなに怒ってるんだ」
「知りません」
「ははぁ、さては、お前も行きたいのか? 祭りと聞いてはしゃぐとは、お前も子供だな」
「違います!」
なぜ怒るのかなど、自分でも分からない。ただ、何となく無性に腹が立つ。明日になればきっと治まるから、その時また、お師匠様に非礼を詫びよう。そう思いながら、アルフェは立って玄関に向かって歩いていく。
――アルフェ。
彼女が道場の扉に手をかけた時、後ろからコンラッドの声が掛かった。
突然の優しい声音に振り向いて、アルフェは師の顔を見る。だが、その顔がなぜか、ぼやけて見えない。
――なんですか? お師匠様。
そう口にしたつもりだが、声にならなかった。やはり、コンラッドの顔には霞がかかったようになっている。
そう言えば、お師匠様はどんな顔をしていただろうか。そう思った瞬間、全身に恐怖が押し寄せてきた。
――――……。
よく聞き取れなかった。彼は何と言ったのだろう。大切なことを言われた気がする。でも、声が聞こえない。彼の声が思い出せない。
胸がつよく締め付けられる。もう一度聞き返そうとしたその瞬間、目の前の道場が掻き消えた。
後に残ったのは、ただ延々と続く、寒々とした荒野の様な風景だ。
◆
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえる。
ボロボロの木の天井が目の前にあるが、ここは、ベルダンの道場ではない。
あの人の顔と声を、思い出の中から探る。
――大丈夫だ。思い出せる。はっきりと憶えている。忘れていない。
跳ねていた心臓が、次第に落ち着いてきた。
分かっている。今のは、ただの夢だ。心が弱った時、あんな夢を見てしまう。あれは、自分の弱さが見せる幻だ。だから、怖くない。震える必要などない。
なぜか、目の周りが濡れている。拭おうと思ったが、手が動かない。手だけでなく、全身に力が入らない。
何とか首を動かして部屋の様子を観察すると、白い漆喰の壁が見えた。それほど広くない部屋には、家具がほとんど置かれていない。あるのは小さな椅子と、棚が一つ。棚の上に飾られた黄色い花は、確か、何かの薬草だったはずだ。
自分が今寝ているのは、粗末な木製のベッドのようだ。シーツは清潔で、心地が良い。
「くっ……」
そうしているうち、正常な判断力が、徐々に戻ってきた。
――確か、私は路地裏で……。
毒を受けて、倒れたはずだ。しかしどうやら、死なずに済んだらしい。力は抜けているが、悪寒も吐き気もしない。手足も――動く。それを確認して、アルフェはベッドの上で無理やり上体を起こした。そうして改めて、自分があの時着ていたドレスと違う、薄手のシャツを着ていることに気付いた。
敵はいない。拉致されたのだとしたら、こんな薄いドアのついた部屋に、捕虜を一人で放置するはずがないだろう。では、自分は誰かに助けられたのか。
よくよく見れば、ここはどこか見覚えのある建物だ。しかし、どこだっただろうか。はっきりと思い出す前にノックの音が響き、建物の住人が室内に入ってきた。
「――ステラさん」
緊張した筋肉が弛緩する。
彼女は起き上がっていたアルフェに少し驚いたようだが、すぐに笑顔になると、ベッドの隣に腰かけた。
「良かった。目が覚めたんだね」
亜麻色の髪の少女が、こちらに微笑みかけている。
そうだ、ここはステラが滞在している治癒院だ。石化したリーフを治すために、アルフェは一度、彼女を呼びに訪ねたことがある。
「……あなたが?」
助けてくれたのか。そう聞くと、ステラは首を横に振った。
怪我人を刺激しないようにという配慮だろう。彼女は柔らかい声で、ゆっくりと語りかけてくる。
「あの、アルフェちゃんの知り合いの傭兵の……、そう、リグスさん。あの人たちが、あなたを運んできたの」
「……そうですか」
アルフェはステラと目を合わせず、宙を見ながらつぶやいた。そうしながら、左の二の腕に、探るように右手を這わせる。確かここに、自分は毒を受けたはずだと。
「安心して。もう、大丈夫だから。だから、もう少し眠りましょう?」
ステラが両手をこちらの肩に添え、寝かしつけようとする。
彼女の手には、殆ど力はこもっていない、だが、その力に抵抗できないほど、今のアルフェは衰弱している。大人しくしているのが正解のようだ。そう思って横になり、目を閉じると、あっけなく睡魔が襲ってきた。
眠りに落ちた後、誰かの指が、自分の両目の下を優しく拭ったように感じた。それはきっと、さっきの夢の続きだったのかもしれない。




