65.剣に生きる男
「よぉ、兄ちゃん」
目の前に立っているのは、バンダナを巻いた坊主頭の男が一人。まるで散歩の途中で偶然行き会ったかのように、軽い声をかけてきた。
男の手には、抜身の短剣が握られている。通りすがりなわけもない。こいつは敵だ。忌々しいが、死んだ間抜けは、やはり後をつけられていたようだ。
排水路を流れていく死体をちらりと流し見て、バンダナの男は続けた。
「ずいぶん、楽しそうなことをしてるじゃないか」
「……ふん。そうでもないが……良かったら、お前も混ざるか?」
敵は殺す。まあ、敵でなかったとしても、見られた以上は死んでもらわなければならないが。そう思って、剣の柄に手を掛ける。素人ではないようだが、目の前の男は自分の相手ではない。
「いやあ……、それはできれば、遠慮したいね」
男もそれは分かっているようだ。こちらが一歩近づくたびに後ずさる。戦意も感じない。では、一体こいつは何のために姿を見せたのか。
「そう言うな……。俺が良いところに連れてってやる。お前もきっと、気に入るぞ?」
近づくのをやめ、腰を落とす。自分の抜き打ちならば、この距離でも一瞬で詰め、相手の首を落とせる。
彼の剣は、遥か昔に滅んだ別大陸の国から渡って来た特別製だ。僅かに反った片刃の刀身には、波のような紋様が浮いている。この剣は、たとえ魔力が込められていない品でも、鉄をも断つ切れ味を秘める。
「落ち着けよ。ちょっと話を――」
「もう聞かん」
男が言い終わるよりも先に踏み込み、剣を抜き打った。このタイミング、この軌道ならば、間違いなくこの首を刎ねられる。そう確信した。しかし――
――やはり!
暗闇から矢が飛んできた。男の首を刎ねるはずの剣を軌道修正し、その矢を二つに叩ききった。思った通りだ。やはり伏兵が潜んでいた。目の前の男はブラフで、矢の方が本命だ。
「甘いなぁッ!」
だが一度機会を失えば、この自分が不意を撃たれることは無い。獰猛な笑みを浮かべながら、返す刀で目の前の男を両断する。
「んん?」
しかし既に、男は完全にこちらに背を向けて、脱兎のごとく逃げ出していた。奇策が失敗したからといって、あまりにも潔い撤退だ。
追って、斬るべきだったろう。しかしそうしなかったのは、そこに異様な物を見たからだ。
「……女?」
いつの間に、一体どこから現れたのか。白いドレスを着た、幽霊のような銀髪の娘。それが目の前に立ちはだかっていた。
「……! ちッ」
軽く舌打ちをする。あのバンダナ男の姿が見えない。不覚にも、娘に気を取られた瞬間に見失ってしまった。どこかに身を隠したのか。先ほどの矢から考えると、当然どこかに射手も潜んでいるはずだ。
これはあまり歓迎したい状況ではない。見えない伏兵を含めて、少なくとも敵は三人。だが――
――……敵、か? コイツは。
目の前にいるのは女だ。しかも若い、少女と言っていい外見。そんな者がここに居るはずは無いのにである。
この路地裏には、街灯の光も届かない。月だけが娘を照らしている。その光を受け、闇の中にぼんやりと浮かび上がる白いドレス。その裾は裂け、片脚が艶かしく見えている。
「何だ、お前は。あの男の仲間か?」
問いかけたが、娘は無表情のまま何も答えない。身にまとうドレスよりも、更に青白い顔。それを見て、心にわずかな疑念がよぎった。そもそもこれは人間なのか。
生温い風が吹いた。娘のドレスの裾が、わずかにゆらめく。
人間だと考えるよりは、魔物か死霊の類と考えた方が得心が行く。結界の中とは言え、たまにはゴーストの一体くらい出ることもあるだろう。
「もう一度だけ聞いてやる。……お前は、俺の敵か?」
その言葉を受けて、娘の口元が妖しく歪んだ。
――笑ったのか。
「……そうか」
夜の闇に沈黙が降りる。それきり、自分も娘も、一言も発さなくなった。
迷うのはやめた。腰を落とし、右手を柄に添え直す。もとより、人間だろうと魔物だろうと関係無い。こいつは明らかに、自分の進路を塞いでいる。ならば、切り伏せる以外に道は無いのだ。
――死ねッ!
路地裏に、甲高い鍔鳴りの音が響いた。抜き終わった時、既に剣は鞘の中に戻っている。渾身の力で放った、神速の抜き打ち。しかし目の前の娘は、それを受けても、変わらずそこに立っていた。
――…………避けた?
男は目を見張った。
間違いなく首を落とせる間合いだったにも関わらず、手ごたえは無かった。信じられないことだが、わずかに上体を反らしただけで、娘はこちらの剣先をかわした。先ほどのバンダナ男を仕留め損なった時とは違う。自分の攻撃が、正面からかわされたのだ。
また、女の顔に笑みが浮かんだ。
「貴様……!」
侮られたと、男は受け取った。心に、激しい怒気が宿る。怒りのあまり、顔がかっと熱くなった。
かつて自分の剣の腕は、領邦でもそれと知られていた。剣士として、その将来を嘱望された時もある。
下らない理由で身を持ち崩し、流れ着いた先で腕を買われ、今の仕事に就いた。薄汚い稼業の中で、完全に擦り切れた男の誇り。その中で、唯一残った自分の矜持、それがこの剣技だった。
それをこのような小娘に、傷つけられるわけには行かない。
「……その首を飛ばしても、笑っていられるか」
再び腰を沈め、息を止める。瞬き一つせず、相手の隙を窺う。
じりり、と足を踏みかえ、娘が初めて構えを取った。
――得物は無い。……だが。
構えたとはいえ、娘は武器らしきものは、縫い針一つ身に着けていない。薄いドレスの下には、暗器を隠す場所も無い。見る限りでは完全に丸腰だ。
しかも、先ほど見せた回避は、肉体的に軟弱な魔術士たちにはあり得ない動きだった。とすれば、魔術士でもない。いや、限定するのは危険か。
ここからの相手の動きが、読めない。しかし躊躇すれば、敵に主導権を握られる。
――先手必勝……!
男は剣を抜き放つ。白刃が一筋の光芒となり、娘の首筋に迫った。
遠慮など無かった。間違いなく全力の、自身でも最速の抜き打ち。それをくぐり、娘は前に出てきた。密着するほどの距離に、娘の小柄な体がある。
――これも避けるか! ――何!?
次の瞬間、その白い右腕が彼の腹にのびてきた。何も握られていない、ただの少女の手。しかしそれを見た男の背筋に、ぞわりと寒気が走った。
まるで突き出された槍を払うように、男は剣の柄で、その腕の軌道を逸らす。間髪入れずに己の顔面目掛けて飛んできた左手も、首を振って避けた。
「つぁッ!」
この間合いは、相手の間合いだ。一旦距離を取らなくてはならない。横薙ぎに剣を振るい、娘を懐から引きはがした。
両者は再び距離を開け、構えを取って対峙した。
「……まさか、素手とはな」
低い声でつぶやく。言葉通りの驚きが、頭にある。
戦闘において、体術は重要だ。実際、自分もそれなりには使える。だがそれは、あくまで奇襲や、剣を使えない状況での補助としてだ。
武器を持った町のチンピラを、拳でぶちのめす自信はあっても、実力が拮抗した人間や魔物相手に、素手で立ち向かおうとは思わない。剣を持った自分と、持たない自分。どちらが強いと人に問われて、どう答えるかは明白だろう。
「それは、俺を、舐めてるのか?」
自分相手に、武器など使う必要はない。この女は、そう言いたいのか。
怒りもある程度を過ぎると、冷静さをもたらすことがあるようだ。今、自分の頭からはむしろ、血の気がひいていた。
「……?」
娘が不思議そうな表情をする。「何か問題があるのか」とでも、言いたげな顔。
「そうか……、分かった」
剣を構え直す。
「後悔させてやろう」
絶対に、己の誇りにかけて、この娘を生かしてはおけない。




